2話 - 薄暮の追跡 - 獣の影と狂気の誘い
片桐勉は、生まれて初めて真剣なストーカー行為に、背広の下でびっしょりと汗をかいていた。
四十年間、真面目だけが取り柄と自負していた男が、夜の闇に紛れて女子高生の後をつけるなど、我ながら狂気の沙汰である。
だが、致し方ないのだ。彼の矮小な日常に差し込んだ、あの夜の衝撃。赤染沼のほとりで垣間見た、人ならざるものの残像。それが、この少女の影と重なってしまったのだから。
「あの子の正体…絶対に怪しい…いや、怪しくあってほしい…!」
午後十時、禍浜市立図書館の駐輪場。古びたコンクリートの匂いと、植え込みから立ち上る腐った土の匂い、そして自治会が撒いたであろう消えかけの防虫剤の薬品臭が、彼の鼻腔を奇妙に刺激する。
二週間前、彼は偶然にもこの場所で、例の少女が人気のない裏路地へと消えていくのを目撃してしまった。
以来、毎晩のように閉館後の図書館に現れる彼女の姿を、物陰から窺うのが日課となっていた。禁断の好奇心という名の悪魔が、小心者の会社員の背中を、じわりじわりと未知の領域へと押し出していたのである。
「おいおい、おっさん。そんなとこで何コソコソしてんの? 女子高生の後をつけるなんて、完全に事案発生寸前じゃん」
背後霊のように、ぬっと現れた声に、片桐は心臓が口から飛び出すかと思うほど驚き、植え込みごと派手に転倒した。
腐葉土と枯れ葉が口に入る。愛用の安物メガネのフレームが、ぐにゃりと歪んで眉間を強打した。星が散る視界の中、見覚えのある日焼けした顔が、心配そうに、いや、どちらかというと面白そうにこちらを覗き込んでいる。
「あ、あんたは前回の…旧漁港の海の幸ボーイ!」
「風見隼人だって。超能力チームのエース兼、おっさん監視係だよ」
少年は悪びれもなく、当たり前のことのように言い放った。
「ちょ、超能力って…本気で言ってるのかね、君は? それに監視って…」
片桐が狼狽え、意味のない抗議の言葉を探している僅かな隙に、彼らが追跡していた対象――黒髪のウルフカットが印象的な少女、犬飼澪は、すでに猫のようなしなやかさで裏路地へと姿を消していた。まるで闇に溶け込むように。
「ちっ、速えな…!」
隼人は忌々しげに舌打ちすると、まだ地面にへたり込んでいる片桐の腕を乱暴に掴み、問答無用で薄暗い路地裏へと引きずり込んだ。黴とドブの匂いが混じった、淀んだ空気が二人を包む。
「いいか、おっさん。今の子はヤバい。犬哭村の血を引く『落とし子』だ。放っておくと、今夜あたり、人喰い狼に変身してそこら辺の野良猫を喰い散らかすかもしれねえ」
「は、はぁ!? い、犬喰い村? 人喰い狼!? き、君、頭大丈夫か!?」
会話が、もはや場末のオカルト雑誌の特集記事のようになってきた。片桐の貧弱な想像力は、現実と非現実の境界線上で激しく混乱し、ショート寸前だ。隼人はため息をつき、ポケットから取り出したスマートフォンを片桐の目の前に突きつけた。
画面には、先週片桐自身が「決定的瞬間!」と息巻いて撮影した、ブレブレの心霊動画が再生されている。月光の下、赤染沼の水面を駆ける、銀色の毛並みを持つ巨大な獣の影が、一瞬だけ映り込んでいる。
「これ、おっさんがSNSにアップしてた動画だろ? この一瞬、フレームインしてるの、あの子だって言ったら信じる?」
「そ…そんな、馬鹿な…あれは、その、沼の主的な…?」
否定しようとするが、喉がカラカラに渇いて声にならない。
確かにあの夜、片桐は赤染沼で「水面に映るもう一つの月」という都市伝説を確かめようとして、何か得体の知れない巨大な影に追いかけ回された挙句、恐怖のあまり意味不明な映像を記録し、あろうことか「#禍浜ミステリー #UMA発見か」などというタグをつけて投稿してしまったのだ。
まさか、あの影が…。片桐の額から、脂汗がぽたりと落ち、汚れたアスファルトに小さな黒い染みを作った。
「…ひゃ、百歩譲って信じるとしよう。だが、なぜ私がこんなことに巻き込まれなければならんのだね?」
かろうじて威厳を取り繕おうとするが、声は震えている。
「おっさんの『なんかヤバいの引き寄せちゃう能力』、こっちとしては結構役に立つんだよ。ある意味、最強のダウジングロッドだからさ」
隼人の笑顔には、一切の悪意はないように見える。だが、その無邪気さが逆に、片桐の背筋に遠雷のような不吉な予感を走らせた。
その時、ふっと風向きが変わった。湿った潮風の中に、むわりと濃厚な獣の匂いが混じり始める。
それは、動物園の檻の前で感じるような生々しい匂いでありながら、どこかこの世のものではないような、古く、禍々しい気配を伴っていた。
路地の奥、ゴミ集積所の影で、カシャン、と空き瓶が転がる乾いた音がした。片桐の首筋にぶわりと立った鳥肌が、急速に冷えていくのを感じるのに、時間はかからなかった。
「…来たな」
隼人が囁き、懐中電灯のスイッチを切った。路地裏の闇が、まるで墨汁を垂らしたかのように、一気に深度を増す。しん、と静まり返った闇の中で、片桐自身の心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳の奥でドクドクと響き始めた。
その鼓動が最高潮に達した、まさにその瞬間――
「グルルルゥ…ア”ァ…」
人間の声帯からは到底発せられないような、低く、地の底から響くような唸り声が、わずか三メートル先のゴミ集積所から湧き上がった。
パンパンに膨らんだ生ゴミの袋が、内側から裂ける。破れたビニールの隙間から、銀色の毛並みがぬらりと覗き、青白い月光を浴びて妖しく輝いた。
ゆっくりと、巨大な狼の影が頭を持ち上げる。そのシルエットは、先週片桐が撮影した動画の中の獣と、不気味なほど一致していた。
「おいおい、マジかよ…満月までまだ三日もあるのに、もう抑えきれねえのか?」
隼人の声には、明らかに焦りの色が滲んでいた。そのただならぬ気配に、片桐は本能的な恐怖を感じ、すでに後ずさりを始めていた。だが、背中はすぐに冷たく硬いブロック塀にぶつかった。逃げ場はない。罠にかかった鼠の気分だ。
獣の瞳孔が、爬虫類のように縦長に開き、爛々と琥珀色に光っている。だらりと垂れた長い舌から滴る粘つく唾液が、ぽた、ぽたとアスファルトを黒く濡らしていく。
「は、隼人君…! き、君、超能力チームのエースなんだろう!? は、早くなんとかしてくれたまえよ!」
片桐は悲鳴に近い声で訴えた。
「バーカ! こっちだって好きでこんな状況になってんじゃねえよ! あいつのテリトリーにズカズカ踏み込んだのが悪いんだ! つーか、おっさんが余計な嗅覚働かせなきゃ、あの子もここまで早く暴走しなかったかもしんねーだろ!」
「だ、だから私は、ただ純粋な探求心から…!」
片桐の情けない抗議の声は、獣の威嚇するような低い唸り声によって、咽喉の奥で無残に潰された。狼が、地響きを立てるかのように、太い前脚を一歩踏み下ろした。パキリ、と乾いた音を立てて、足元のコンクリートが蜘蛛の巣状にひび割れる。
その圧倒的な破壊力を目の当たりにし、片桐の恐怖は再び臨界点に達した。彼の制御不能な力が、周囲の物質を微かに震わせ始める。
ゴミ集積所の空き缶がカタカタと小刻みに踊り、打ち捨てられた自転車のチェーンが、ぎちり、ぎちりと悲鳴のような音を立てた。
「あーもう! 最悪のタイミングで、やべえのが来ちゃった!」
隼人が、忌々しげに路地の入口を睨みつけて叫んだ。
その先には、いつの間にか、もう一対の淡い光が灯っていた。街灯の頼りない光の下、長い黒髪を風になびかせた女性が佇んでいる――読川心音だ。
彼女の白くか細い掌の上で、青白いオーラのようなものが、まるで生きているかのように脈動している。
そして、彼女の背後の闇からは、ゆらりゆらりと、無数の黒い手のような影が這い出してきているように見えた。それは恐らく、この場所に溜まった負の残留思念か何かだろう。
「片桐さん、お願いです、思考を鎮めてください。あなたの恐怖が、この場の『歪み』を増幅させて、彼女を刺激しています…!」
心音の切実な声が、テレパシーのように片桐の脳内に直接響いた。
「そ、そんな無茶なこと言われてもだな…!」
片桐が反論しようとした、その刹那!
狼が、弾かれたように跳躍し、片桐めがけて襲いかかった!鋭い爪が月光を反射する。
瞬間、隼人の身体が、風に溶けたかのように掻き消えた。次の瞬間、狼のしなやかな横腹に、目にも留まらぬ速さの蹴りが叩き込まれた!
ドゴォッ!という鈍い衝撃音と共に、獣の苦悶の遠吠えが夜空に響き渡る。路地全体が、地震のようにビリビリと震動し、片桐の歪んだメガネが鼻からずり落ちた。
「おっさん! 今のうちだ! さっさと逃げろ!」
隼人は体勢を立て直しながら叫ぶ。
「で、でも、君たちが…!」
片桐は、見捨てることへの罪悪感と、己の身の安全との間で揺れ動く。
「心配すんなって! こっちはプロなんだから! …ぐっ!?」
隼人の強がりの笑顔が、苦痛にひしゃげた。体勢を崩した一瞬の隙を突かれ、狼の鋭い爪が少年の肩口のシャツを、肉ごと引き裂いたのだ。鮮血が闇に飛び散る。むせ返るような血の匂い。片桐の視界が、ちかちかと危険な赤色に染まった。
その時だった。彼の頭蓋の奥深くで、何かがブツリと切れるような感覚があった。それは、恐怖か、怒りか、あるいは、目の前で傷つく若者を見捨てられないという、彼自身も知らなかった矮小な正義感だったのかもしれない。
ゴゴゴゴゴ…!
轟音。まるで命令を受けたかのように、路地裏に打ち捨てられていた十数台の自転車が一斉に宙に浮き上がった! そして、意志を持った鉄の群れのように、銀色の狼めがけて猛烈な突撃を開始したのだ!
ガシャン! バキン! グシャ! 錆びたチェーンの音、歪む金属の軋み、そして獣の驚愕と苦痛が入り混じった絶叫。
阿鼻叫喚の光景の中、片桐は呆然と自分の手の平を見つめていた。血管が、内側から発光しているかのように青白く浮かび上がり、どくどくと、これまで感じたことのないような奇妙な熱が脈打っている。
「まさか…おっさん、あんた…本物の…?」
瓦礫の中から顔を出した隼人が、驚愕に目を見開いて呟いた。しかし、その声はもはや片桐の耳には届いていなかった。
彼の耳には、もっと別の、奇妙な音が響き始めていたのだ。それは、寄せては返す潮の満ち引きのような、巨大な何かがすぐ側で眠っているかのような、深く、静かな呼吸音だった。
視界の端で、読川心音が震える指でスマートフォンを操作しているのが見えた。
(まずい…この映像、拡散される前に早く消去しないと…あの人の力が暴走したら…)
彼女の切迫した思考の断片が、ノイズのように片桐の脳裏を掠めた。だが、その意味を理解する間もなく、路地の奥の闇が、さらに濃く、深く蠢いた。そこから現れたのは、新たな影。
蛇のように長い黒髪をツインテールにし、漆黒のゴシック・ロリータ服に身を包んだ少女――鬼灯美月が、まるで壊れた人形のように、甲高い、破裂したような笑い声を響かせている。
「あはははっ! なぁに、つまんないことしてんじゃん、あんたたち。ねえ、そこのメガネのおじさん? こっちに来なよ。もっとずぅっと、楽しいところに連れてってあげるからさぁ」
彼女の細い指先から、血の色をした飴細工のような、赤い光の糸がすぅっと伸びてきた。それは生き物のように蠢き、あっという間に片桐の腕に絡みついた。
その瞬間、強烈な幻覚が片桐の脳髄を焼いた。目の前に広がるのは、赤黒く濁った赤染沼の水面。その水底から無数の白い手が伸びてきて、彼の内臓を鷲掴みにする。息ができない。溺れる。現実と狂気の境界線が、ぐにゃりと溶けていく。
「やめろォォォォォ!!」
片桐の絶叫が、最後の引き金となった。
ドガァァァン!!
彼の内なる力が、完全に制御を失って炸裂した。路地裏の空間そのものが歪むような衝撃。駐輪されていた自転車のベルが一斉に狂ったように鳴り響き、周囲のアパートの窓ガラスが、連鎖反応を起こすかのように次々と砕け散る!
狼の苦悶の遠吠え、隼人の怒声、心音の悲鳴、そして美月の狂った哄笑。全てが禍々しい不協和音となって、禍浜の湿った夜の空気を切り裂いていく。
だが、この混沌とした騒ぎの中心にいる誰一人として、まだ気づいてはいなかった。三百メートルほど離れた、禍山へと続く古い隧道の入口。その漆黒の闇の中に、山刀を肩に担いだ一人の女が、唇の端を歪めて嗤っていることを。
彼女――嶽守荊の足元には、奇妙な呪術的な模様が描かれた杭で心臓を貫かれた、別の狼の死骸が無造作に転がっていた。それは、犬飼澪が変身した姿とは似ても似つかない、より原始的で、禍々しい気配を放つ獣だった。
(ようやく…舞台が整ってきたようだな。興が乗ってきたわ)
嶽守荊の冷たい呟きが、トンネルの奥の闇へと吸い込まれていく。その背後から、ゆらり、ゆらりと、無数の獣のような影が蠢き始め、静かに彼女に付き従う。
片桐勉が引き起こす災難は、常に、より大きな怪異の、より深い悪意の、ほんの幕開けでしかないのかもしれない。彼の意図とは全く無関係に、禍浜の闇は、確実に深まっていた。
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