名もなき物語

でいだらぼっと

第1話 灰雨の夜

山あいの町〈グレイバロウ〉は、昼と夜の境目がほかの土地よりずっと曖昧だ。夕刻になると切り立った峰々が太陽を早く隠し、まだ青さの残る空に煤と硫黄の靄が張りついて、薄灰色の膜が町を包む。北東の高い雲間には浮遊島の端がわずかに覗き、そこだけが白く光る。南西の稜線では赤い焔がちらちらと瞬き、遠くの空を安定しない夕霞に染めている。けれどこの町に届くのは、燃え尽きた木炭と汗と鉄錆の匂いだけで、誰も空を見上げる余裕など持たない。

 鍛冶屋の青年カイル・グランディオスも例外ではなかった。工房の炉口は荷車ほどの口を開け、溶けかけの鉄が赤黒い光を吐いている。カイルは左手で鋼材を鋏に挟み、右手に握った大槌を振り下ろした。火花が飛び散り、ハンマーの衝撃が骨を震わせる。親方ブレンは炭箱を足で踏む鞴の脇に立ち、火勢を調整しながら言った。

「杭はあと三十本。夜明け前に納められなきゃ明日の炭が回ってこねえ。震えが気になるなら、耳に藁でも詰めろ」

「震えじゃありません。今日は山が変な息を吐いてますよ」

「吸気口が詰まった大炉みたいに唸ってるって? 帝国の連中がまた火脈を叩いてるんだろ。何百里も離れた地面がちょっと唸ったくらいで仕事止めたら、ここの鍛冶屋は一軒残らず潰れるさ」


 言い終えた途端、工房の梁がわずかに鳴った。瓶に入った骨炭粉がかすかに揺れ、水桶の面に波が立つ。カイルは一瞬、振り下ろしかけていたハンマーを止めた。

 にぶい地鳴りがもう一度、腹の奥を叩く。耳鳴りではない。炉の火が弱い呼吸を吐くようにふらついた。

 親方は眉をひそめたが、大槌を構えるカイルにあごをしゃくり「続けろ」と無言で示す。カイルは小さく息を吸って腕を振り下ろし──振り切る前に五感が引き裂かれた。


 空が裂けた。

 紫電に似た光条が山頂から夜空を斜めに貫き、街の暗がりを競り上がる大火球が尾を引く。雷とも隕石とも呼べぬ禍々しさで、見る間に山腹を切り裂き、真っ直ぐに町の中央へ落ちていった。


 衝撃波が世界を押し返す。鍛冶場の壁土が砕け、瓦礫が雨のように降る。耳がつんと鳴り、視界が灰色に揺らいだ瞬間、カイルの眼前を何かが横切った。

 それは映像に似て映像でなく、記憶に似て記憶でない。白く褪せた薄幕の向こうで、太い梁が自分の背中を直撃し、床に突き刺さる光景が一瞬だけはっきり映り、消えた。


 「何だ……いまの」口より早く腰が沈み、体が横へ滑った。木梁が現実で落ち、彼のすぐ後ろで爆ぜた。破片が跳ね、火花が飛び、火球で燃えた木片が煙をあげる。


 目の前にはもう一層の薄膜が重なり、その向こうでべつの悪夢が走った。親方ブレンが瓦礫に胸を押し潰され、血を吐く映像。落石はまだ宙にある。止めなければ。

 カイルは弾かれたように広場へ駆け出した。赤黒い光の中で隕鉄核が地面を押し潰し、火花混じりの土煙を上げている。親方はその少し奥、異形の礫に胸を挟まれ倒れていた。


 助けなければ、と焦った身体は石に触れた瞬間自身の熱ではじけた。右腕が焼け、袖が裂け、灰銀の光が血のように溢れる。指が岩に触れると石は濡れた粘土のように溶け、ぐにゃりと湾曲して親方を押しのけ、つづけて大きな庇の形に固まった。

 腕の骨が軋む鈍い音。熱で感覚が遠のく。それでも親方が肩で息をし直すのが見えた。胸の重圧が消え、血の流れも止まりそうだ。


 激しい脈動が収まりきる前に、上空を低空で滑るホヴァーバージが町へ影を落とした。漆黒の装甲兵が何本かのロープで降下する。胸に天秤の紋を抱えた均衡監査局。

 隊長らしき男の仮面がこちらを向き、冷たい声が響く。

 「例外個体、確認。確保優先。周辺被害は二次」

 カイルは意味がわからないまま、親方をかばうように立った。銃口が光り、空気が歪む。弾丸が来る。そう直感した瞬間、視界の薄幕がもう一度揺れた。

 ――親方の胸を弾丸が貫く場面。

 混乱する頭が「まただ!」と叫ぶより早く、右手が再び熱を放ち、地面の石を吸い寄せて盾に変えた。銃弾は盾に当たり砕け、破片が火花を撒く。

 だが腕の痛みは限界を越え、骨が軋む音が脳髄で鋭く鳴った。立っていられず膝をつく。親方の脈は戻ったというのに、次弾が来れば同じことの繰り返しだ。

 薄幕が坑道への逃走という断片を見せた。隕石が抉った穴の底、古い採掘トンネル、濁流へ飛び込み木箱に掴まる様子が走る。「逃げろ」より早く、その未来に追い立てられる。


 カイルは親方を抱き上げ、黒鎧の足音を引き裂くように穴へ滑り込んだ。

 下の空気は冷たく粘り、湿気の匂いが肺を刺す。吊り下げ灯の残光だけを頼りにレールを踏み、小刻みに息を吐きながら走る。背後で兵がロープを下ろす音がした。


 木橋が先で軋む。薄幕に重なる映像では橋板が割れ、兵の一人が暗闇へ落ちる。現実の橋も悲鳴を上げ、カイルは親方を抱えて跳んだ。板が砕け、兵の叫びが下へ吸い込まれる。時間がピタリと合うたび、背筋が冷えた。


 そして黒い水の音。地下河川が洞窟の底を削る。水面に浮かぶ木箱が幕の中で光る。「掴め」とだけ訴える。思考はもう追いつかず、ただ飛び込んだ。

 氷のような冷水が肺を叩く。呼吸が奪われ、腕は痛みで麻痺しかける。暗い流れの中で木箱の角に指がかかり、必死で体を押し上げた。親方を抱えながら浮力を確保し、気を失わないよう歯を食いしばる。水は狭い岩裂を抜け、星明りの覗く割れ目を流れ、やがて別の地下洞窟へ落ちる滝となった。


 そこから先は覚えていない。


     *     *     *


 目を開けば、木漏れ日が揺れていた。湿った苔の匂い、鳥の囀り。胸の奥で「生きている」と遅れて気づく。

 親方ブレンは簡易担架で横になり、胸の包帯が替えられていた。傍らには銀の鎧を纏った女騎士。緑色の狼を刻んだ紋章が胸に光り、数人の弓兵が周囲を警戒している。

 「ここはヴェール森林帯公国の国境だ。私は斥候長エリザ・フェンリール」

 彼女の声は冷静だが険はない。

 「大国の兵が君を“例外”と呼んで追っている。けれど私たちにはまだ君を裁く権限も理由もない。森を荒らさず、協力するなら匿う用意がある」


 カイルは右腕を見た。灰銀の紋は泥と血に汚れ、それでも光を宿す。何が起こったかわからない。ただ自分が見た薄幕の映像が現実を繰り返し当てていたことは確かだ。

 「俺は……生き残りたいだけだ。親方を安全な場所へ寝かせられるなら、君たちを裏切る理由はない。でも、自分でも何が起こるかわからない」

 エリザは短く頷き手を差し出した。握った瞬間、またあの薄幕が点滅する。木造の砦、焚き火、親方が穏やかに眠る室内──さっきより温かな未来。すぐに薄れ、現実だけが手の温度を残す。


 「まずは歩けるか?」

 「試してみる」


 腕の痛みに顔を歪めながら立ち上がり、親方の担架を持ち上げようとしたとき、小さな鈴の音が森の奥で鳴った。斥候の合図らしい。エリザは短く指示を飛ばし、弓兵が布を開いて担架を包む。

 「追手が近い。詳しい話は砦で」


 朝霧の中、薄金の光が高い梢を透かす。灰色の雲は遠ざかり、鳥の声が頭上を巡る。カイルは歩きながら、それが本当に訪れる未来なのか、ただの幻影なのか、確かめる術をまだ持たなかった。


 ただ右腕の奥で脈を打つ熱が、木洩れ日の明るさより深く、重く――そしてどこか遠くで、新しい歯車が動き出す音をわずかに感じていた。

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