第4話

 森の朝は静かで、心地よい冷気が肌を撫でていく。

 木々の葉が風にそよぎ、鳥たちのさえずりがどこか遠くから聞こえる。

 清嗣きよつぐは新しく新調したばかりのシャツの袖口そでぐちまくりながら、朝露に濡れた地面に腰を下ろしていた。

 焚火の残り火が微かに燻り、橙色の光がまだ薄暗い空気をわずかに照らしている。

 その向かいではリーシャが愛用の弓の手入れをしながら、清嗣きよつぐにちらりと視線を投げていた。

 彼女の動きはいつものように無駄がなく、自然と調和している。

 だが、その瞳にはどこか柔らかな光が宿っていた。

 昨夜の握手あくしゅを交わした瞬間から、二人の間には確かに新たな絆が芽生えていた。


「よく眠れたか?」


 リーシャが不意に口を開く。

 その声はぶっきらぼうだったが、どこか気遣う色が混ざっている。


「ああ、久しぶりにぐっすり眠れた気がする。森の中なのに、不思議と落ち着いたよ」


 清嗣きよつぐは軽く欠伸をしながら頷くと、リーシャは鼻を鳴らして笑った。


「はっはっは! 落ち着いた? そりゃいいことだ。狼の群れに囲まれた気分ってやつか?」


 軽口を叩くリーシャに、清嗣きよつぐは小さく自然に笑う。

 彼の笑顔には、これまでの孤独から少し解放されたような柔らかさがあった。


(あれから数日間、リーシャと森の中で生活してるが学ぶことが多いな)


 清嗣きよつぐはリーシャから大雑把にエクリプスタウンについて学びつつ、狩猟の技術や森でのサバイバル術を教授レクチャーを受けていた。

 食料を確保するための罠の設置方法や、木の実の見分け方、さらには夜間やかんに安全に眠るための焚火の作り方まで。

 リーシャの教え方は実践的で言葉少なに要点を伝えるだけだったが、その背中からは「見て覚えろ」という信頼が感じられた。

 一方で、清嗣きよつぐも自身の過去について少しずつ語り始めた。

 エクリプスタウンに来るまでの長い旅路、絶望に押しつぶされそうになりながらも歩き続けた理由、そして人間社会における失望。

 リーシャはその話を黙って聞きながら、時折ときおり短く相槌あいづちを打つ。


「お前、よくそんな状態でここまで来たな。普通の人間なら、とっくにくたばってるだろうに」


 彼女のその言葉には皮肉の響きはなかった。

 ただ純粋な驚きと、少しの尊敬が含まれていた。


「……生きる場所を探してただけだよ。どこかに、俺みたいな人間でも生きられる場所があるって信じたかったんだ」


 清嗣きよつぐの言葉に、リーシャは少し目を細めた。その瞳には、彼の心の奥底を見透かすような光があった。


「エクリプスタウンはそんなに甘くないぞ。いろんな種族が混ざってる分、争いも多ければ価値観の相違もある……だからこそ、あんたみたいな奴が力を付ければ面白くなる」


 彼女はそう言いながら、焚火に薪を足す。

 その炎が再び音を立て大きく燃え上がると、二人の間を照らした。

 夕暮れが近づき、森の中が黄金色に染まる頃、二人はまた一緒に仕留めた獲物を調理していた。

 清嗣きよつぐはリーシャから貸してもらったナイフを使って肉を丁寧に切り分け、リーシャはその肉を焚火でじっくり焼いていく。

 その間にも、何気ない会話が交わされていた。


「お前、なにかやりたいこととかあるのか?」


 リーシャが何気なく尋ねると、清嗣きよつぐは一瞬考え込みながらも頷く。


「やりたいこと、か……」


「まさか、ねえってのか?」


「いや、急に聞かれてもパッとは思いつかないだけで――」


「顔にありありと『思いつきません』って書いてあるぞ」


「うっ……まあ、思えばただ逃げるようにこの街まで来たからな。そう考えると、来るのが目的でしたいことはまだ見つかってない状態かな?」


「……どんな面倒くさい人生送ればそうなるんだよ」


「面目次第もございません」


 その言葉にリーシャはやれやれと溜息ためいきをつきつつ、まるで手間がかかる弟の面倒を見る姉のような心境で口を開く。


「ならちょうどいい。アタシがちょいと手を貸してる場所を教えるついでに、あんたに案内してやるよ」


「どこに?」


「寝ぼけてんのか? あんたは本来『どこ』に行きたかったんだ?」


「…………あ」


 清嗣きよつぐはその言葉に思い至る。

 そうだ、本来ならこの近隣きんりんの森ではなくあの街――エクリプスタウンに行きたかった。

 だが、確かに一度は足を踏み入れたが真の意味で『到達』はしていない。


(あの時の俺は、はんば死んでいたようなもの。街の中にいた意識はあったが、なにも見ていなかった)


 こころざし潰え、意識も朦朧もうろうとし、死ぬ一歩手前の精神状態で街を観察し堪能なんかできるはずがない。

 そもそも、どうやって街の中に入ったかさえ覚えていない始末。


 清嗣きよつぐの表情を見てリーシャは笑みを深くする。


「そういうこった。あんた――アタシの相棒殿は、魂が抜けた状態であの街には物理的に入っていたが……心は入れていなかった。何故なら、心ここに非ずだったんだからな」


「……否定のしようもないな」


「んで、今の相棒殿の心は戻ってきた。なら、今度こそ目的の地に足を踏み入れられるってわけだな」


「……リーシャにあの時会わなかったら、どうなってたことか」


「まあ、ぶっちゃけたところ。他の市民が通報してエクリプスガードが保護しに行ってたんじゃねえかな?」


「『エクリプスガード』?」


(ようは警察的なものかな?)


「んでよ相棒殿――今ここに、ちょうどどこぞの誰かさんに色々世話を焼いて現在暇を持て余してる可憐かれんな案内役がいるんだが……どうする?」


 彼女の言葉には挑発的な響きが混ざっていたが、その奥には清嗣きよつぐへの期待も見え隠れしていた。


(素直じゃない……素直じゃないが、嫌いじゃない)


 清嗣きよつぐは目を閉じどこか呆れながらも、その心地よさからか頬はゆるくなっていた。


「じゃあ、その可憐な案内役さんにナビゲートをしてもらってもいいかい?」


「しゃーねーなー! ほんっと世話が焼けるやつだぜまったくよー!」


「……もうちょい棒読みをどうにかしてくれるか?」


「あぁ? なに、聞こえねーなー」


「……大変都合がよろしいようで」


 そこで互いに歯を剥き出しの笑みを浮かべ合う。

 清嗣きよつぐとリーシャは今、心の底から互いの居心地の良さを認識し始めていた。


「なら、案内してるよ――あんたが行きたがってた、エクリプスタウンにな」


◆◆◆


 森を抜け、清嗣きよつぐとリーシャはエクリプスタウンの門へ到着する。

 デカイ――見上げるのがバカらしくなるほどでかい城塞のような門がそびえ立っていた。

 装飾も一つ一つ丁寧に彫られており、素人目にもそのどれもが意味を持っていそうな感じが滲み出ていた。


「で……でかいな。何メートルあるんだ? 五十メートルか?」


「さあな……てか、やっぱ魂抜けてやがったな。普通一度でも街入る前にこの門見てたら、そんな感想は出てこねえよ」


「……反論の余地もございません」


「ようリーシャ、調子はどうだ?」


「ん? ようバッサル。警備ご苦労さん」


 清嗣きよつぐそびえ立つ巨大な門を見上げていた視線を戻すと、街の門の警備を担当しているであろう異種族の屈強な男性がいた。

 身の丈は二メートル弱。

 肌は赤黒く、瞳は黄昏を彷彿ほうふつとさる、如何にも真面目そうで人当たりは良さそうな白髪のリザードマン。

 そのリザードマンとリーシャは顔見知り同士なのか、気軽い感じで談笑をし始めていた。


(ってか、マジのリザードマンだ……やっぱカッコイイよなぁ。そういうファンタジーもんだと屈強な戦士として描かれてたりしてたからイメージ通りというか……)


「――んで? そっちのあんちゃんは……ん? この間ここを通してやった死んだ魚のような目した人間じゃねえか」


「…………ッ」


「あー……やっぱここ通ってたか。他の都市から来るとしたら、この門以外ねえとは思ってはいたが」


「なんだ、リーシャの連れだったのか?」


「連れだった、というか……正確には『連れにした』が正しいか」


「ん? まあ詳しいことはいいさ。数日前は死ぬ一歩手前のツラしてた奴がどうしても最期に見たがってたように感じたから通したが……いやほんと、死なれたらどうすっかなとは思っていたんだ」


「なんで、んなリスキーなことしてんだてめえは」


「いやよう、俺さまにも人情というものがあってだな?」


「門番が人情なんざ見せてんじゃねえよ」


「……ごもっともだ。ごほん……んで、入りたいんだろ? リーシャの連れだってんなら問題ねえだろ」


 二人の会話が終わったのか、門番の男が清嗣きよつぐにも声をかけてきた。

 一見真面目そうで、だが少し抜けているリザードマンの彼に対し、清嗣きよつぐはどこか親しみを感じていたのは言うまでもない。


「い、いいのか?」


「問題ねえ。そこのリーシャはエクリプスタウンでも顔が効くし、なにより色々街の連中に手を貸してくれてな?」


「アタシの身の上話はいいんだよ。んじゃ、とっとと通らせてもらうぜ? うちの連れの案内が控えてんでな」


「そういうことならどうぞ。おい、あんちゃん」


「…………ん?」


「リーシャとどういう関係かは知らねえが、そいつと一緒なら安心だ。悪さをしねえ限り、この街はあんちゃんに牙を剥いたりしねえよ」


「はは、ありがとう……」


 手を振るリザードマンのバッサル、という男に別れの手を振り門を潜り抜けていく。リーシャの後に続いて歩くと――そこはまさに、清嗣きよつぐが思い描く理想郷が広がっていた。


 数日の共同生活で感じた穏やかさとは異なる、喧騒けんそうと活気が二人を包み込む。

 街を覆う魔力の波動が清嗣きよつぐの肌を軽く撫で、建物の隙間をうように流れる魔法灯の青白い光が道を照らす。

 異種族と人間が行き交うこの街には、様々な音が混じり合っていた。

 エルフ語の笑い声、リザードマンが石畳を叩く硬い足音、商人たちの呼び声。

 そしてそれらの中に埋もれるように、人間の言葉が聞こえる。

 清嗣きよつぐはその光景を目にしつつ、少しばかり戸惑いを隠せないでいた。

 なにせ彼が意識して把握したのは今日が『初めて』で、この間までは意識も朦朧もうろうとしていた中だったのだから仕方ない。

 言葉を失いつつも、改めて彼が幼い頃から憧れていたファンタジーの世界……一つの種族だけが住むのではなく、多くの異種族たちが一つの街で共存共栄している姿に感銘を受けていた。


「ここがエクリプスタウンだ。見りゃ分かるだろうと思うが、人間と異種族が混ざり合って生きてる場所さ」


 リーシャの声が耳元で響く。

 彼女は街の中心にそびえ立つ塔を指差しながら、さらに言葉を続ける。


「でもな、この街も完璧なわけじゃない。あの塔がその証拠だ」


「あの塔は一体……」


「『調和の塔』って呼ばれてる、この街を象徴する場所さ」


「調和の塔……」


「んで、話が変わるが。これからあんたは、この街で自分自身の居場所を見つけるのが課題になる……だろ?」


「まあ、行く当てもないからな」


 その言葉に、清嗣きよつぐは静かに頷いた。

 彼女の背中を追いながら、どこかで「ここが自分の場所になるだろうか」という疑念が胸を過っていた。


「なら、まずは街を知ることから……つっても、もう日が陰って案内するには不向きだ。マジな案内は後日するとして……」


 考える仕草をするリーシャ。

 それに合わせ獣耳がぴこっぴこっと跳ねる様を、清嗣きよつぐはどこか穏やかな表情で追っていた。


(感情とリンクしてるんだろうな、彼女が今どう思っているのかとかが大まかにだけと伝わってくるような気がする……)


「とりあえず、あんたに見せたい場所がある」


「見せたい場所?」


「ああ……そこがアタシの本来向かいたい場所で――あんたを連れて行きたい場所さ」


 どこから湧いてくるのかはわからないが、リーシャの自信ある表情と口角の上がり方に、清嗣きよつぐは何度目か分からぬ高揚感を得る。

 ああ、きっとまたリーシャから何か未知の出会いと引き合わせてくれるのでは……そういう得体のしれない考えが巡り始めていた。

 そんな清嗣きよつぐを他所に、リーシャは異種族たちの喧騒けんそう雑踏ざったの中に消えていく。

 それを慌てて街へ来たばかりの非力な人間の男が付いて行くという妙な構図がエクリプスタウンで見られるようになる……。


◆◆◆


 街を進むにつれて、賑わいから少しずつ離れた静かな場所に二人の足は向かっていた。

 道の先に現れたのは――かつて栄光を誇っていたであろう荒廃した建造物だった。

 見上げんばかりに大きくそびえ立つ巨大な館のような建物には僅かな名残りともいえる装飾が残りつつも、外壁は苔に覆われ窓ガラスは所々割れている。

 ここまで初見ながらも廃墟はいきょである建物を見て、「寂しい」と感じることはそうはあるまい。


「……ここは?」


 清嗣きよつぐが立ち止まり、目の前の建物を見上げながら呟く。

 リーシャは振り返りざま肩越しに軽く笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。


「ここが、あんたの力が必要な場所だよ」


「……どういう意味だ?」


 その言葉に、思わず清嗣きよつぐ眉間みけんが深くなる。

 目の前の廃墟が自分とどう関係するのか、まったく理解も想像もできなかったからだ。


「ルミナリア――かつて、ここがホテルだった場所の名前だよ」

……」

「なんでも聞いた話じゃ、かつて人間と異種族が共存共栄できる未来を謳って建てられた夢のような場所だったそうだ」


 リーシャの言葉には、どこか感慨深さが滲んでいた。

 彼女は建物のひび割れたタイルを指差しながら、その歴史を語り始める。


「象徴的って……さっきの調和の塔ってのがそうなんじゃないのか?」


「ありゃ、街そのものの歴史を象徴するって意味だ」


「じゃあ、この建物は?」


「異種族と人間との融和――共存共栄の象徴だ。ようは別枠の小規模なモデルケースだと思え」


「……共存共栄の象徴、か」


「異種族と人間が共に肩を並べて暮らし、働き、客と従業員たちが同じ空間内で笑い合う姿があったそうだ。アタシも聞いた話だからな、現物を一度はお目にかかりたかったよ」


 そんな夢のような場所……どこか名残惜しそうに小さく呟くリーシャに、清嗣きよつぐは思い至る。

 見たことがないものの、聞いただけで感情移入できてしまうということは、つまりそれだけ熱量のある語りを直に聞いたということに他ならないのでは?


「――でもな、時代は移り変わる。今じゃ見ての通り、ただの廃墟はいきょって有様だ」


 清嗣きよつぐは静かにその言葉を聞きながら、目の前の建物を見上げた。

 朽ちた鉄骨が剥き出しになり、建物全体がかつての輝きを完全に失っている。

 それでも、彼には何かが残っているように思えた。


「……ルミナリア」


 その名を口にした瞬間、


「少し周りを見てくるから、あんたはゆっくりしてろ」


 そう言い残し、リーシャはその場を颯爽さっそうと離れていく。

 その足取りは軽く、通いなれた場所故の足取りの確かさがあった。

 残された清嗣きよつぐは、ひび割れたタイルの上に一人立ち尽くす。

 風が吹き抜け、リーシャが譲ってくれた急ごしらえのシャツの袖が静かに揺れる。

 彼の目は自然と、廃墟となったホテルの全貌ぜんぼうを追っていた。

 剥がれ落ちた塗装とそう、草に覆われた床、窓枠の歪み。

 どれもが、かつての栄華が完全に過去のものとなったことを物語っている。


「ここに……俺が必要だっていうのか?」


 独り言のように呟いたその声が、廃墟はいきょの静寂の中に響いた。

 そして、ふと背後から聞こえた足音がその静けさを破る。

 振り返ると、そこには一人の女性の影が映っていた。

 清嗣きよつぐは息を飲み、その人物を見つめる。


 彼の目の前に現れたその女性――その姿が、これから始まる新たな物語の予兆となるとは、この時まだ知らなかった。

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