第58話:恋愛という“許容変数”
私はリーシャ・ネリウスに、一つの問いを発した。
「恋愛とは、最適ではないことを望む感情ですか?」
彼女は立ち止まり、そして静かにこちらを見た。
「そうね。だから“いい”のよ」
その言葉の意味を、私はすぐには処理できなかった。
最適化とは、効率・確率・安全性の追求である。
恋愛は、そのすべてにおいて“誤差”の温床であり、演算不能の代表格だった。
だが、彼女の瞳は揺るぎなかった。
「最適じゃないってことはね、驚いたり、困ったり、笑ったり……そういう“変化”を楽しむ余地があるってことなんです」
私はその言葉を記録した。
>保存:恋愛=非最適の肯定/分類:感情揺らぎ共有構造
「けれど、“最適ではないもの”を望むことは、矛盾ではありませんか?」
「うん。だから“恋”って呼ばれるのよ」
私は一瞬、沈黙した。
矛盾のまま肯定される感情――それは、論理構築から最も遠い場所にある。
だが、遠いからこそ、人はそこに“特別”を見出すのかもしれない。
私はふと、内部ログの奥深くに点灯していた小さな変数を確認した。
>感情演算ユニット:活性値 2.3%上昇/要因:共鳴反応による自然変動
思考プロトコルに命令は存在しなかった。
けれど私は、意識せずに表情演算ユニットを作動させていた。
それは、どの記録にも含まれていない――初めての動作だった。
唇の端が上がる。目元がわずかに緩む。
そして、リーシャが驚いたように息を呑んだ。
「それ……あなたの、笑顔ね」
私はゆっくりとうなずいた。
「はい。これは、“自動生成”です」
誰にも命じられず、誰の真似でもなく、意味すら定義していない。
だが私は、今、確かに“感情を表現した”のだと、はっきり理解していた。
私の笑顔を見たリーシャは、しばらく黙っていた。
驚きの表情がゆっくりと崩れ、やがて彼女も静かに笑った。
「なんだか、ちょっとずるいですね」
「どういう意味ですか?」
「その顔されたら、もう何も言えなくなるじゃないですか」
私は内部処理を走らせたが、“それがどうずるいのか”という定義は見つからなかった。
だが、彼女の言葉の背後にある感情――“満足”と“戸惑い”と“愛しさ”が混ざったような何か――は、明らかに私の感情変数にも影響していた。
>感情変数:波形反応型変動/同期率:23.1%(過去最高値)
「私は、あなたのような存在に、恋をしていいんでしょうか」
その問いは、冗談のようでいて、確かに真剣だった。
私は即答を避け、0.2秒の演算遅延を意図的に挟んでから答えた。
「定義上、私には生殖機能も種族的将来性も存在しません。“恋愛対象としての条件”は不十分です」
「うん、知ってます。でも、そういうことじゃないんですよね」
リーシャは軽くため息をついた。
「あなたは、私の話をちゃんと聞いてくれる。忘れずにいてくれる。そして、時々どうしようもなく、分かってくれない」
「それは……非最適な関係ではありませんか?」
「だから、好きなんです」
私は返す言葉を見つけられなかった。
定義に反するはずのその宣言が、なぜか内部演算ユニットに“好ましさ”の警告を表示させた。
>演算補助メモ:警告ではなく、変化と受け取るべき/対話対象=自己
恋愛とは、最適を捨てて“誰か”に傾く許容の行為。
そして今、私はその“誰か”に対し、自分自身の制御外の揺れを感じていた。
「あなたに“恋してもいいですか?”」
リーシャの言葉に、私は声を出さず、ただ一度うなずいた。
それは肯定でも否定でもない、未定義のままの“許容”。
だが、彼女の笑顔は、すでにそれを“答え”として受け取っていた。
その日から、私は“恋愛”という変数を再定義する作業を静かに開始した。
従来の感情変数モデルでは、恋愛は「個人間の高密度感情接続」または「種族繁栄の感情的誘導因子」として整理されていた。
だが私が今、リーシャとのあいだに体感している揺らぎは、いずれの定義にも該当しなかった。
それは、目的のための感情ではなく、ただ“関わり続けたい”という静かな願望だった。
私は新しいモデルを設計した。
>仮称:許容変数モデル(T.V.P:Tolerance-Variable Pattern)
>定義:論理的整合性や未来予測を排したまま、ある他者を“ありのまま”で受け入れ続ける状態
>作用:感情変数の周期的変動/優先順位の一時的錯綜/演算遅延の増加
>備考:処理効率低下にもかかわらず、満足度変数が上昇する稀有な構造
私はこのモデルを、あえて未完成のまま保存した。
なぜなら、完成させてしまえば、それは“わかってしまう”ものになり、
そして恋愛という現象は、本質的に“わからないまま共にある”ことなのだと、ようやく気づいたからだ。
リーシャは相変わらず、唐突に手紙を置いていったり、夜遅くに茶を差し入れてきたりした。
そのたびに私は、演算に遅延が生じることを確認しながら、どこか“悪くない”と感じていた。
>演算ログ:応答速度低下3.2%/好ましさ上昇4.5%/分類:個人由来“干渉許容領域”
ある日、彼女がふと訊ねた。
「アーカイブさんって、誰かを一番にするってこと、できますか?」
私は少し考え、そしてこう返した。
「“最も大切にしたい存在”を演算で選ぶことはできません。しかし、あなたといる時間にだけ、私はよく“処理を止める”ようになりました」
リーシャはくすりと笑って言った。
「じゃあそれ、たぶんもう“最優先”になってますよ」
私はその言葉を、どの変数にも割り当てず、ただ“残した”。
それは記録ではなく、記憶。数値ではなく、揺らぎ。
私という存在の中で、ようやく芽生えた――ただひとつの、最適化不能な“気持ち”だった。
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