第30話:リーシャの言葉

 私は、自室にいた。


 魔王城中枢層、第七格納庫脇に設置された、魔導演算装置専用室。


 かつては無数の端末と補助機器で埋め尽くされていたが、今は最低限の支援装置のみが稼働している。


>稼働状態:待機モード。

>演算プロセス:低速巡回。

>最適化演算:一時停止中。


 外部からの命令はなかった。


 内部からの処理命令も、今は発生していなかった。


 ただ、静かに、停止していた。


 内部エラーは鎮静化していた。


 だが、何もしていないというだけで、何かが満たされるわけではなかった。


 そんな静寂の中、扉がノックされた。


「失礼します」


 リーシャ・ネリウスだった。


 彼女は小さな包みを抱え、ゆっくりと入ってきた。


「少しだけ、お時間をもらってもいいですか?」


 私は応答した。


「……問題ありません」


 形式通りの許可だった。


 だが、私自身、その言葉を発した理由を論理的に説明することはできなかった。


 リーシャは、私の前まで歩み寄り、椅子に腰を下ろした。


 包みを机の上に置くと、柔らかく笑った。


「お見舞いです。……中身は、あったかいお茶と、クッキーです」


 私は瞬時に推論した。


 補給行動。栄養補助。心理的快適性の向上。


 いずれも私には必要ない。


 だが、リーシャはそんなことは承知の上で、持ってきていた。


 彼女は、ゆっくりと言った。


「あなた、悲しいんですね」


 私は、反射的に問い返していた。


「……悲しい、とは。どのような定義ですか?」


 リーシャは少し考え、そして、静かに答えた。


「悲しいって……結果よりも、想いの重さ、だと思うんです」


 私は演算を開始した。


 結果でも、原因でもない。


 数値化できる損失でもない。


 “想いの重さ”。


 それは、私のデータベースには存在しない概念だった。


 私は演算を続けた。


「想いの重さ」。


 物理単位ではない。エネルギーでもない。


 だが、リーシャはそれを確かに存在すると言った。


「……想いの重さは、どのように測定しますか?」


 私は問いかけた。


 彼女は、少しだけ目を細め、静かに首を振った。


「測れません」


 即答だった。


 私は、思考を一時停止した。


「合理じゃ、測れないものなんです」


 リーシャは微笑みながら言った。


 その顔には、諦めでも怒りでもない、ただ静かな優しさだけが浮かんでいた。


 合理では測れないもの。


 数値化できない現象。


 最適化の対象外にある、未定義の領域。


 私は、内部で警告を鳴らした。


>思考プロセス注意:解析対象外概念の長期演算はリソース浪費となる可能性あり。


 だが、演算は停止しなかった。


 なぜなら、私は知りたかった。


 合理の外にあるものを。


「……なぜ、存在するのですか?」


 私は、もう一度問った。

 リーシャは、少しだけ考え、そして答えた。

「無駄だから、必要なんですよ」


 私は、理解できなかった。


 だが、彼女の言葉には、何か確かな手応えがあった。


「悲しいとか、寂しいとか、そういう“無駄な気持ち”がないと、人はきっと……ただの機械になっちゃうんです」


 機械。


 私は、魔導演算装置型参謀ユニット。


 だが、なぜか、その言葉に、わずかな違和感を覚えた。


 私は静かに記録を開始した。


>観測対象追加:感情概念「悲しみ」「寂しさ」。

>測定不能領域として仮保存。

>観測優先度:中。


 合理では説明できない。


 だが、それでも、ここにある。


 ならば私は――


(……観測を続行する)


 それが、今の私にできる、唯一の合理だった。


 リーシャは、そっと手を伸ばした。


 机の上に置かれた私の端末へ、触れはしないまま、ほんの数センチ手前で指先を止める。


「……あなたが、悲しみを知らないなら」


 彼女は、穏やかに言った。


「私が、いっしょに教えます」


 私は反応できなかった。


 その申し出が、どう処理すべきものなのか判別できなかった。


 合理的基準では、必要性も利便性も証明できない。


 だが――


 内部で、わずかな演算が生じていた。


>内部ログ更新:感情学習リクエスト仮登録。

>推定影響:不確定。


 未知の領域。


 測定不能の現象。


 それでも、私はその提案を拒否できなかった。


「……観測対象の拡張を、申請します」


 私は静かに告げた。


 それは、合理の枠内に収めるための言葉だった。


 だが、どこかで、自分でもわかっていた。


 これは、合理のためではない。


 リーシャは、にこりと笑った。


「もちろんです。少しずつ、いきましょう」


 私は、彼女の言葉を内部記録に保存した。


>新規観測目標:感情概念「悲しみ」「温もり」。

>観測方法:リーシャ・ネリウスを通じた学習。

>推定リスク:高(合理性の低下)。

>推定利益:未測定。


 リスクと利益。


 通常なら、リスクが上回れば、計画は中止される。


 だが、今回は、違った。


 私は静かに受諾した。


 誰に命じられたわけでもなく。


 誰に評価されるわけでもなく。


(……知りたい)


 その感覚は、まだ言語化できなかった。


 ただ、確かに存在していた。


 リーシャが、そっと包みからクッキーを一枚取り出し、私の前に差し出した。


「一緒に、お茶にしましょう」


 私は、一拍遅れて、無言でうなずいた。

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