異世界バーバー・シフル=カルヴィン
巖嶌 聖
第1話
丘の街道の上から見下ろす街は、かなりの大きさだった。
城壁に囲まれた、色とりどりの屋根が見える。枝分かれした大きな川が城壁内を通ており、水路として活用されているようだ。城壁の上と、街の所々に見える高い塔の天辺には、大きなバリスタのような兵器が何台か並べられており、外敵の侵入に備えている。それは地上の敵ではなく、空からの敵に対する備えのようだ。街を襲うような魔物は多くはないと聞いてはいるが、それでも備えるに越したことはないということだろうか。あまりこちらの世界では人同士の戦争がないと聞いてはいるが、これだけの防備を見ると不安になってくる。
「よ、ようやく、たどり着けた……」
ここにたどり着くまでに、道に迷い、落石に遭い、崖に落ち、川に流され、魔物に食われそうになり、ひもじさで死ぬ思いをした。もし、力をもらっていなかったら、また死んでいたところである。
なだらかな丘を下り、街道に合流できた。もう、迷うことない。もう一つくらい力をもらっておけばよかった。少なくとも平均的な人間らしい方向感覚くらいは、体を作り直したときに一緒にボーナスとして付けておいてほしいものだ。
街の門前まで来たとき、一抹の不安が心をよぎる。
門には衛兵が待機しており、街に入る者と出る者を監視している。検問をしているわけではなさそうだが、今の自分の身なりで入ることができるかどうか不安になってきた。ただ、ここでまごまごしていても仕方がない。勇気をもって踏み出し、門を通り中に入ろうとする者たちに紛れるように進んだ。
「そこの御仁! お待ちください!」
心配した通り、衛兵に呼び止められる。運が悪い。いや、衛兵が優秀だと言うことは良いことだ。素知らぬ振りして通り過ぎようとしたが、横まで来て呼びかけられてはそうもいかない。
「わ、わたしでしょうか」
「はい!」
酷い目にあわされるかも知れないと少し身構えたが、若い衛兵の態度は、不審者に対するそれとは違った。
「どちらかのお屋敷に逗留中の方でしょうか。もし、よろしければ、護衛をおつけいたします」
一体何が起こっているのか混乱したが、少し考えて理解できた。
貴族と勘違いされたのだ。年齢は三十半ば(だと思う。もしかしたら若返っているかも)。身なりは清潔で、ベストに白いシャツ、丈夫な紺のパンツの出来はかなり良い。荷物も持たず、門の外から来たこの男を、街に逗留中で、気まぐれに外に遊びにでも出た、貴族のバカとでも思われたようだ。
「いえ、私は貴族ではありませんので……」
「貴族ではない……。では、商家の方ですか。失礼ですがお名前を伺っても?」
完全に怪しまれた。ここは貴族だと偽ってでも切り抜けるべきだったか、とも考えたが、これから暮らすであろう街の衛兵に嘘をつくのは、後々、厄介ごとになる可能性がある。
「私は……」
前の名前を名乗ろうとして、踏みとどまった。もう自分は別人なのだ。
「シフル・カルヴィンです。衛兵さん。旅の途中で荷物をすべて失ってしまいまして、身分を証明できるものを持ち合わせていません。その……、アンクシア・オズマンという方が身元を保証してくれるのですが……」
これは嘘ではない。崖に落ちたときに荷物のほとんどを失ってしまった。
アンクシア・オズマンはこの街に来たら訪ねろと言われた人物だ。街の名家であるから知らぬ者はいないと聞いている。
「アンクシア・オズマン……。聞いたことあるか?」
「さぁ……」
若い衛兵が同僚に訊ねたが、聞いたことがないらしい。
(おいおいおい! どうなってんだよ! 全然話が違うじゃないか⁉)
シフルは頭の中で神を罵った。順風満帆の世界で暮らせると聞いていたのに、始めから苦難ばかりである。
「カルヴィン氏、荷物を失ったと言うことは、長旅をされてきたのですか」
「えっ。ええ、まあ……」
「では、なぜ服に汚れが一切ないのです」
どんどん怪しまれている。衛兵の疑問ももっともだ。川の濁流でかなりの距離を流されたのに、服も破れておらず、体には傷一つないことは、シフル自身も不思議なことだった。
返答に窮しているいると、衛兵は剣の柄に手を掛けた。
「申し訳ないが。あなたを拘束させてもらう。抵抗はしないでいただきたい」
シフルは手を上げた。シフルには戦う気など全くない。いや、戦う術を全く持たない。武器を持ったことのない綺麗な手の平を見せて、おとなしく従うことをアピールした。
外壁門近くにある衛兵詰所の狭い部屋に、シフルは押し込められていた。
手錠を掛けられ椅子に体を固定される。しばらくの間、二人の兵に睨まれながらそこで過ごした。見張りの兵は抜刀しており、シフルはその刃のきらめきに恐怖した。こうして刃物を向けられるなど、初めての体験だ。股間の当たりの筋が、キュッと絞まるのを感じた。
(な……なぜ、抜刀したまま……)
何も言わず何もできず、落ち込んでいると、扉が開けられ、さっきの若い衛兵に伴われて、何やらジャラジャラと多くの宝石をまとった老人が現れた。髭と眉毛でほとんど顔は見えないが、シフルを見つめる目は鋭く輝いている。
「こやつが魔物? 大人しく待っとるじゃないか。そうは見えんがな」
「エーギルさま、そう言わずにしっかり検査してください」
エーギルと呼ばれた老人は、やれやれと向かいの席に腰を下ろした。
「言葉はわかるな。少しじっとしておれよ。あんたが人間なら、痛くはないから」
シフルに手を翳して、何やらブツブツと唱え始める。シフルの周りに小さな火の玉が灯り、体の周りを人魂のようにゆらゆらと飛び回る。魔法、いや、確か人が使うのは、魔術だと聞いていた。その辺りはこの世界では常識であるので、間違えると厄介になると教わった。魔法は魔物が使うものなのだ。
不思議な人魂はしばらくすると消え、シフルには何も変化がない。身構えていた衛兵たちがホッとしたように溜息をついて、剣をしまった。シフルも試練を乗り越えたことを知り、緊張が少し解ける。エーギルはシフルの目をしっかりと見据えた。
「ふむ。少なくとも魔物ではないな。で、おぬしは何者じゃ。どうしてこの街に来た」
「私は、商売のために来ました。アンクシア・オズマンという方をご存じありませんか」
エーギルは髭を撫で、何かを思い出しているようだ。
「オズマン、オズマン……。確か、王都にそのような御用商人がおったな。おぬし、街を間違えとるのではないか。ここはケルエレナの街じゃぞ」
「王都とは……、レナディアという名前ですか」
「そうじゃ」
その言葉にシフルは机に頭を突っ伏した。シフルはレンディナの街を目指していた。どうやら川に流され、明後日の方向にたどり着いたようだ。神のせいにしてしまいたいが、生前からシフルは新しい場所に行くときは、一度は道に迷ってしまう。今回もその呪いが発動したようだ。
「まぁ、なんというか、お気の毒さまじゃな……。これからどうするつもりかな? 商売を始めるにしても当てはあるのか」
シフルは顔を上げて、老人の目を見た。こうなれば泣き落とししかない。涙ながらに訴える。
「その……何か救済処置とかは……」
「そんなものはない。まぁ、売る物があるなら、通り向こうの噴水のある広場で勝手にするんじゃな。盗みはするなよ」
エーギルは立ち上がると、さっさと部屋を出ていこうとする。若い衛兵が彼を呼び止める。
「えっと、彼は解放してしまっても?」
「そんなもんはしらん。ま、害のなさそうな男だ、とだけ言っておくわい」
面倒事はご免だとでも言うように、そそくさと去っていったエーギルの背中を見送った。衛兵たちに視線を送るが、みな明後日の方向を向く。何とか希望を探そうと、シフルは言葉を絞り出した。
「レナディアの街には、どう行けば良いのでしょうか……」
若い衛兵が口ごもりながら答えた。
「馬車に乗れば、早くて三週間、歩きであればふた月程度でしょうか。まずは北のコリンデルカの街を目指して、東に迂回して、海岸沿いに進めば着きます。かなり路銀が必要でしょうが……」
「参考までに、どれほど路銀があれば……」
「どうでしょう。いや、ちょっと想像ができませんね。宿代、食事代、諸々の装備品。百シルバークレス。いえ、三百……金貨三枚があれば、安全に旅をできるでしょうか。魔物が出ても生き延びれる自信があるならば、傭兵は節約して進めますが、おすすめはできません。馬車は欲しいし、護衛代を考えると……。キャラバンや、旅の冒険者に同行するのが一番安く済むかとは思いますが、そう都合の良い隊がいるかどうか」
クレスとはこの国の通貨の単位である。
(えと、一クレスが最小金額で、一万クレスで一シルバークレス……。百シルバーで一ゴールドクレスだから……。金貨二枚で、一般市民の年収と同じくらいだったか……)
シフルは頭を抱えた。必要最低限の知識として、神に教わったことだったが、その知識を恨めしく思った。この街で仕事を探して、一から貯めるには、大きすぎる金額である。日々の出費を考えれば、何年この街で働くことになるか……。
凶悪な魔物が存在するこの世界では、一般人の観光旅行などは、ほとんど行われない。護衛を雇う充分な資金力を持つ者か、自らの身を自らで守る実力のある者だけが、世界を見て回ることができる。そのため、街の近くにあるような小さな村々は存在するものの、少し郊外になると人の住まない空白地帯があり、大きな街と街の間に無人地帯が生まれてしまう。旅籠街などの中間地点を埋めるような場所は、ほとんど存在しなかった。
絶望した表情で天井を見上げていると、髭を生やし放題にした年配の兵が言う。
「悪いがこれ以上、ここであんたを置いておく理由がない。俺たちも他に仕事があるのでな。ベルゼン、外まで案内してやれ」
とりあえずは魔物でなく、危険な人物でもないと判断されたらしい。ベルゼンと呼ばれた若い衛兵がシフルの拘束を外して立たせ、外に出るように促した。年配の兵がその背中に声を掛ける。
「そろそろガラクタ倉庫の整理をしなきゃいかん。何個か物がなくなっていたとしても誰も気にせんだろう」
シフルは何の話かと思った。ベルゼンは頷くと、シフルの背中を軽く押し、歩くのを促した。短い廊下を行く途中で、ベルゼンは手錠の鍵を置くついでに、別の鍵を持ってきた。
「あんまりこういうことはすべきじゃないのですが……。ついてきてください」
ボーっとしたまま案内されたシフルは、詰所の裏手に連れてこられた。城壁が聳え立ち、このボロ屋は日がほとんど当たらないようである。
「ここは押収品が集まられている倉庫です。と言っても、目ぼしい物はほとんどありません。処分に困る大きな物や、ほとんど価値がない物が一時的に保管され、処分を待っているのです。兵たちの中にも、たまに持ち帰る者がいるくらいですが、ほとんど誰も咎められることはありません。持ち主が不明ですから……。何個か、持っていかれてはどうですか」
絶望の中にあったシフルは、兵士たちのやさしさに触れて、涙が溢れてきた。良い大人が情けないと思われるかもしれないが、堪えることができず、シフルはベンゼルの手を取った。
「ありがとう……。ありがとう……」
「良いのですよ。とはいえ、役立つものがあるかどうか……」
あまり迷惑をかけるわけにもいかないと、シフルは涙をぬぐった。ほとんど咎めがないとは言っていたが、横領には違いない。速やかに物を選ぶ必要がある。意外にも、倉庫の中はある程度の掃除がされており、埃をかぶっている物は少なかった。ただ、ところ狭しと積み重ねられた家具やら箱やらから、物を見つけ出すのは一苦労である。
(必要な物……。そうだ。少なくとも全部失くしたわけじゃない。まだ、自分にはこれがある)
シフルは胸に手を当てると、その感触を確かめた。服の中に隠しておいた最低限の仕事道具だけが、今の全財産である。
「これと、これと、これを貰っても良いですか」
「そんな物で良いのですか。もっと価値のあるものが……」
「あ、あとこれと……。運ぶためにこのロープも……」
「構いませんが……」
シフルの選んだのは、丈夫そうな樫のスツールと、古びて少しカビついている革製のマント、
これ以上、細々した物を貰っても、持ち運ぶのに苦労する。それに今は宿もない。あまり価値のある物を持ち歩くのは危険だと判断した。
「それで商売ができるものなのですか」
ベルゼンが不安気に訊いてくるが、シフルは頷いた。マントは羽織り、スツールを上下逆さにして、その脚の間に板とボウルを収めると、それをロープで巻いて、手で持てるようにする。ナイフと羽箒をその隙間に差し込んで、シフルは立ち上がる。
「本当にありがとうございます。この御恩は一生忘れません。えっと、ベルゼンさま……でよろしいですか」
「ははは、ベルゼンと呼んでください。それに生涯の恩は、ケルン隊長に報いるべきですね。私はただ案内しただけですから」
ケルンとは先ほどの年配の兵士のことだ。シフルは心の中で礼を言った。今は何もできないが、必ず礼を返すことを心に誓う。
ベルゼンにつき従って、大きな通りに出ると、先ほどの通った外壁門の内側である。今更ではあるが、道行く人々はみな痩せており、着ている物も清潔とは言えない。これでは自分の格好が浮いているように見えるのは仕方がないことだ。
「この通りを真っすぐ行くと、噴水のある広場があります。その辺りならば、宿を見つけることもできるはずです。広場は通り道さえ開けておけば、店を出しても良いとされていますので、頑張ってください」
さすがに宿を取るための金もないとは言えなかった。ベルゼンは服の中に銀貨の一枚でも仕込んであると思っているようだ。財布のほかに予備の金を持っておくことは、最低限の知恵である。こちらに来る前に、路銀は肌身離さず持っているように忠告を受けたのに、鞄にしまったまま川の底である。自分の浅はかさを呪うが、学びを得たとして前向きに考えた。
「ありがとう、ベルゼン。では、私はこれで」
何事も成せば成るである。ここで足踏みしているつもりはない。
「その、カルヴィン氏」
ベルゼンが遠慮がちに訊ねてくるので、シフルも「シフルと呼んでください」と言った。
「では、シフル。これは興味本位なのですが、どのような商売をなされるつもりなのですか」
「バーバーを開きたいと思っています」
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