第3章 健太の情熱
俺は希望が見えなくなっていた。
昨日本を見て笑っていると、『気持ち悪いから笑うな』昼休みに友達と喋っていると『高い声が気持ち悪いから喋るな』という同級生の言葉がナイフのように心に刺さり、抜けなかった。
周りはイジメられる俺を見てクスクスと笑っている。
突然予想外の言葉を投げつけられた俺は固まる事しか出来なかった。
それ以来、自分の笑顔や声が嫌いになった。
鏡を見るたび、喉に詰まるような感覚が消えなかった。
自分の感情と声をなるべく出さないようにした。
「取り敢えず心を落ち着かせなきゃ」
俺の実家はカフェを営んでいる。
店名は『cafe doppio』(カフェ・ドッピオ)
小さい店だがそれなりに人気だ。
実家のカフェで、幼い頃、母が淹れるダブルエスプレッソの香りに包まれたときだけ俺は安心できた。
あの香りが、昨日の言葉の棘を少しずつ溶かしてくれる気がした。
俺はカウンターに立ち、ダブルエスプレッソを淹れる。
グラインダーの音、
豆の香り、
タンピングの感触。
エスプレッソマシンが低く唸り、琥珀色のクレマがカップに落ちる瞬間――嫌な言葉を断ち切るように、俺はそれを一気に飲み干した。
あの時、俺に何ができたか考えた。
答えは一つしかなかった。コーヒーだ。
それから俺は、コーヒーに全てを捧げた。
高校に入ってからはバイトと学業に明け暮れ、金を貯めた。
卒業後も働きながら、コーヒーの歴史を貪るように学んだ。
コーヒーベルトと呼ばれる赤道周辺の産地。
本場イタリアに根付くエスプレッソの文化。
アメリカのサードウェーブコーヒーの革新。
俺は本場イタリアの小さなバール(カウンターでエスプレッソを飲む小さなカフェ)で、バリスタが20秒で淹れるエスプレッソの魔法に目を奪われた。
シアトルの焙煎所で、豆の香りに魂を揺さぶられた。
頭の中に『コーヒー辞典』が出来上がるほど知識を詰め込み、30年が経った。
両親が亡くなり、Cafe doppioが取り壊された時、俺は自分の居場所を失った気がした。
でも、ダブルエスプレッソの味だけは、俺を過去と未来に繋いでくれた。
今、俺は50歳。40歳で開いた店『Be:coffee』は、何とか軌道に乗った。
この店のエスプレッソは、俺の人生そのものだ。
毎朝、産地ごとの豆を手に取り、香りを確かめる。グラインダーの刃は毎日調整し、1秒の抽出時間のズレも許さない。
イタリア製の古いマシン――10年前に借金して手に入れた相棒――は、俺の心臓のように唸る。
1杯のダブルエスプレッソに、俺の全てを注ぐ。
苦味、酸味、甘みの完璧なバランス。舌に残る余韻。
客が「美味しい」と一言漏らすたび、俺は「ああ、俺はここにいる」と感じる。
だから、ダブルエスプレッソは1000円だ。安くはない。
でも、俺の30年とこの一杯が、誰かの心を動かすなら、それでいい。
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