第四章10 闇の代表取締役ノア(さて、どう出るか)

 優秀な従者であるマルティーニとピエールから、複数の侵入者を確認し制圧済み、ということがロズリーヌには知らされていた。時刻はそろそろ深夜零時。これ以上何事もなければ、何者かの襲撃は犠牲者を出さずに乗り越えられたとみて良いだろう。念のため、使用人たちの寿命の確認は必須だが。


 ロズリーヌは灯りを落とした食堂の長い食卓につき、ピエールの最後の報告を待っていた。「お客様には全員お帰りいただきました」と言われれば、これで終わり。「お客様がいらっしゃいました」と言われれば、重要人物の御出座しだ。


 緊張感の蔓延する中。両開きの扉がノックされ、向こうから扉が開いた。


 扉の隙間から滑り込んできたピエールが恭しく礼をする。


「ローズ様。お客様がいらっしゃいました」


 ロズリーヌは気を引き締め、「通してくれ」と指示した。


 扉が大きく開け放たれ、お客様がやってくる。お客様は闇に溶ける黒いローブを深く被って顔を隠していた。それでも黒いローブが浮かび上がらせるシルエットから、念入りにボディメイクをしている男性だということは分かる。


 ピエールが席端の椅子を引くと、お客様は躊躇なく座った。


 食卓についた者だけを照らす燭台が、ロズリーヌの怪しくも艶めかしい笑みを橙色の灯りの中に浮かび上がらせる。


「お待ちしておりました。夜食を用意いたしましたので、よければ一緒にいかがですか?」


 ピエールが銀のワゴンに軽食を乗せて運んできて、来客、ロズリーヌの順に皿を置く。


「生ハムとチーズ~死への誘いを込めて~(プロシュート・チーズ・ア・ラ・モール)、どちらも自家製の毒入りです」


 殺意のある料理名を告げられ、お客様の顔が弾かれたように上がる。


「一緒にセルティーニュ産の赤ワインをどうぞ」


 ピエールがワイングラスに深紅の赤ワインを注いでも、お客様の視線はロズリーヌに固定されたまま。


「お気に召さないのであれば、手をつけなくて結構ですよ」


 ロズリーヌはふっと笑うと、生ハムとチーズを口に運び、たったいま注がれた赤ワインを一口飲んでみせた。


 挑戦? 脅し? いいや。この戦場に上がって来ないかと問うているだけだ。毒入りチーズと生ハムを食べれば、一時間は逃げられない。


(さて、どう出るか)


 赤ワインを堪能しながらじりじりと待つ。


 すると。お客様はフォークを手に取り、ロズリーヌがしてみせた様子をなぞってチーズと生ハムを食べ、赤ワインを飲み下した。


 瞬き後にロズリーヌの瞳が煌めき、お客様の胸の前に黄金の懐中時計が現われる。カチリと針が傾いて、ピエールがきっかり一時間【調合】してくれたことを確信し、ロズリーヌは安堵の笑みを浮かべた。


「良い話ができそうです。お名前をお聞きしても?」


「ノアです」


 ロズリーヌは赤い唇を弓なりに曲げた。


「やっとお会いできましたね」


「えぇ。貴方にお会いしたくて、居ても立っても居られず来てしまいました」


 中低音の男の声に畏れの震えはない。緊張をしているようにも感じられないのは、同じような場数を踏んでいるからだろうか。それとも毒はハッタリだと思っているか。ただ、いずれにせよ、隙が無い。彼のことを探るには、もう少し互いの緊張を解いて吐かせなければならないだろう。


 こちらが好意を持っているようなふりをすれば話しやすいかと、ロズリーヌは気安い様子で話をすることに決めた。


 ワインを一口飲んで、吐息と共に言葉を紡ぐ。


「嬉しいお言葉。続けて」


「まさか、喜んでもらえるとは思っていませんでした。どうして喜んでくださるのか教えてもらえますか?」


「貴方を待っていたの」


「待ち望んでいたと?」


「そうよ」


 ロズリーヌが頷くと、ノアは急に黙って何かを考えているような素振りを見せた。


(私が今夜襲われることを知っていたようなことを言ったから、疑問を感じている? どこで情報が漏れたのか考えているのだろうか?)


 ロズリーヌが襲撃者たちを向かい打てたのは【魔力】による特殊な能力のおかげなのだが、【聖力】を持つ人間と同じく【魔力】を持つ人間も少ないので思い至ることはほとんどないだろう。組織内部で情報漏洩を疑って自滅してくれればそれでも良いのだが――。


「そうならそうと言ってくだされば、もう少し雰囲気のある演出を考えたのに」


(何だ? もう少し雰囲気のある演出って、もっと酷い殺害計画でも立てるということか?)


 逡巡するロズリーヌが言葉を失っている間に。


「勿体ないですから、後日改めることにします」


 ノアは立ち上がってしまった。


「まっ!?」


 ロズリーヌは焦って椅子を引いた。


(ここで逃がすわけにはいかない! 宝石ドロボウの話をしないと!)


 彼を招き入れたのは宝石ドロボウの話をするためだ。ここでみすみす帰すわけにはいかない。それに。


「ちょっと待って! せめてデザートを召し上がって……」


「いえ、今宵はこれで。こんな夜遅くにお邪魔いたしました」


 ノアは構わず、デザートを運んできたピエールと入れ違いで食堂を出ていこうとする。


(デザートは解毒薬になっているのに!)


 ピエールの用意する食事は最初から最後まで楽しめるように作り込まれている。今回の食事は毒で始まり、解毒薬の入ったデザートでしめる予定だったのだ。デザートを食べてもらわなければ、チーズと生ハムに仕込まれていた毒が回って死んでしまう!


 食堂を出て行く彼の懐中時計に残された時間は五十分程度。


(駄目だ。彼を殺したくて毒を盛ったわけではない。ただ逃げられないようにしたかっただけ! 確実に向き合う時間を確保したかっただけだ!)


「ま、待て! 待ってくれ!」


 ロズリーヌはピエールが運んできたシャーベット入りの小さなグラスを引っ掴んで、ノアの後を追った。


 食堂を出るとノアはすでに玄関先にいて、屋敷の外へ出ようとしていた。


(どうする!? 訳を説明してシャーベットを食べてもらうか!? でも手の内をむやみに曝すのも避けたい! 無理矢理口に突っ込む!? でも!)


 混乱したロズリーヌは充分に考えることができなくなっていた。


「お忘れ物ですわよ!」


 考えることを放棄し、急いで薄い緑色のシャーベットを自分の口の中に放り込んだロズリーヌは、ノアに飛びついて両手で顔を挟むと唇を合わせた。


 冷たいシャーベットが互いの熱に溶かされて消えていく。こくりと喉を下す音が聞こえてきたから、きっと解毒薬を呑み込んでくれたのだろうと、ロズリーヌはほっとして閉じていた目を開けた。


「……」


 深く被っていたローブが外れ、ノアの顔が露わになっていた。


 闇にも映える艶やかな黒い長髪がフードから零れ落ち、顔の上半分は白くのっぺりとした仮面で隠されている。そして、たった今自分が口づけた形の良い唇からは、甘い香りのする吐息が漏れた。


「……忘れ物を届けてくださってありがとうございます」


 ノアは抱き着いていたロズリーヌをそっと地面に降ろしてくれた。それから「お返しです」とロズリーヌの額に軽く唇を落とした。


(え……なん……)


 ロズリーヌは額を押さえて固まった。


 あくまでも人助けのために解毒薬を口移しで飲ませたのとは訳が違う(ロズリーヌの解釈では)。場所は違っていても、キスはキス。


「夢の中でもお会いしましょう。ロズリーヌ・トリオール伯爵」


 ロズリーヌが放心している間に彼はフードを深くかぶり、優雅に一礼して、闇の中へと消えたのだった。

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