第三章10 第三皇子ティモシー・ド・レピュセーズ(私も彼を知りたい)
いつの間にか翼廊にまで来ていた。先ほどシャルルリエルと出会った翼廊とは反対側。ロズリーヌがロズアトリスとして大聖堂で業務を行う際に使用する翼廊だったので、少し焦った。けれどきっと、ティモシーは最近までロズアトリスの婚約者だったから、無意識にこちら側へ来てしまったのだろうと解釈した。
「……今日お呼びしたのは、こちらをお渡ししたかったからです」
徐にティモシーが懐から出した書類を広げた。
婚約証明書だ。ロズアトリスとティモシーも婚約した際に同等の書類にサインをしている。
(婚約解消してからこんなにも短い間に、それも同じ人と婚約証明書を再び書くことになるのか)
なんだか不思議な気分だった。けれど胸の底から何か、期待に似たようなものがほわりと生まれたような気がする。七歳の時にロズアトリスとして婚約証明書を見たときには感じなかったのに。
「それからこんなものもあります」
ロズリーヌが鑑賞に浸りながら婚約証明書を見ていると、婚約証明書の下から婚約誓約書が出てきた。婚約をする際に様々な条件を明記して、誤解のないようにするためのものだ。こちらはロズアトリスとティモシーの婚約の際には無かったものだが、王侯貴族の婚約には付き物だと聞いたことがある。
「そのどちらにもサインをすれば良いのですね?」
断る理由はないので、ロズリーヌは淡々と答えた。そもそも、皇族の申し出を伯爵が断れる訳がない。
しかしロズリーヌが快諾したにも関わらず、ティモシーはすぐに返事をせず、しばらく黙っていた。
そして突然。
ビリビリビリッ
婚約証明書と婚約誓約書を破いたのだった。
「何を!?」
「私がつい一ヵ月ほど前まで婚約していたのはご存じですよね?」
驚いたロズリーヌを遮るように、ティモシーは言った。ロズリーヌが口を噤んで遠慮がちに頷くと、続ける。
「恋や愛、ましてや結婚なんて何も分からない子どものころに、私は婚約証明書にサインをしました。その紙切れ一枚がある限り、私はずっと、何があろうがなかろうが、その方の未来の夫であり、その方は私の未来の妻でした。……だからでしょうか。私たちは……私は、その契約に甘んじて、お互いのことを何も知らずに、約十年も過ごしてしまったのです」
ロズリーヌ――ロズアトリスはハッとした。
「ロズリーヌ殿。婚約しましょうと言っておいて申し訳ないのですが、私はもう少しこの関係を続けたい。会うたびに違う一面を見せる貴方を、婚約者という立場に縛られず、もっと知りたい」
真摯な瞳に胸を射貫かれた。
確かに、ロズアトリスは十年もティモシーの婚約者だったのに、彼に意地悪なところがあることも、子どもたちのためにお菓子を忍ばせていることも知らなかった。彼の言う通り、何があろうといずれは結婚するからと、彼のことを知ろうとしていなかった。彼のことを疎かにしていたのだ。
(私も彼を知りたい)
ロズアトリスもまた、ティモシーのことを強く知りたいと思った。空白の十年を取り戻す贖罪に――いや。単純に、彼への興味があった。
(そもそも彼はどうして私と婚約しようと言い出したのか?)
婚約者だったときは疑問にも思わなかったことが気になり始める。
(利益のためだけなら、私のことが知りたいからと言って婚約証明書や婚約誓約書を破るだろうか?)
信じ込ませるためのパフォーマンスなのかもしれないけれど、そうではないかもしれない。そうでないのなら、一体全体ティモシーは何を思って書類を破いたのだろうか。
(分からない。知りたい)
気がついたらロズアトリス――ロズリーヌは頷いていた。
「私も貴方を知りたいです」
途端、花が綻ぶようにティモシーが笑った。
「良かった。ではまず、いつも通りの自分でいるために、敬語はやめましょう。それから私のことはティムと愛称で呼んで欲しい。貴方のことはローズと呼んでも?」
「構わないですけれど、殿下に敬語を使わず愛称で呼ぶのは不敬ではありませんか?」
「これからお互いのことを知ろうと言うのに、不敬も何もない。どうしても気になるのなら、二人でいるとき、二人で話すときだけでも」
「では、そのように」
ティモシーは満足そうに一つ頷いて、話を変える。
「この後の予定は? よければ食事を一緒にどうだろう、ローズ」
早速敬語を排し、愛称を使ってくるので、ロズリーヌも遠慮なくいつも通り答える。
「すまない、この後は用事があるのだ」
スカートの裏から懐中時計を出して確認すると、じきに正午になる時刻だった。正午にはロズアトリスとして昼の祈りに参加しなければならないので、ティモシーとはここでお別れだ。
「では別の日に。食事をしながら聞きたいことがあったのだけれど、またにするよ」
「聞きたいこと?」
思わずロズリーヌは聞き返した。ティモシーの様子から甘さが抜け、真面目な態度になったような気がしたからだ。
ティモシーは少しだけ考えるような素振りを見せてから口を開く。
「ローズ、貴族や商家を狙った宝石強盗事件を調査しているだろう?」
ロズリーヌは唖然とした。
「どうしてそれを……」
少なくとも公にはせず、調査をしていたはずなのに。
「私は結構情報通なんだ。特に王都で起こっていることはほとんど把握していると言っても過言ではないかもしれない」
「それは貴方が皇族だから? それとも貴方だから?」
「どちらも、かな。とにかく、これだけは言っておこう。危ない目にあいたくないのなら、宝石強盗事件には首を突っ込まないことだ」
ロズリーヌが声を出そうとすると、大聖堂の鐘が鳴った。
リン ゴーン リン ゴーン リン ゴーン
正午の十五分前を示す鐘だ。さすがにそろそろ切り上げなければ、昼の祈りに間に合わない。
仕方なく、ロズリーヌは用意していた言葉を呑み込み、別の言葉を言うことにした。
「気を付ける。それより、すまない。正午に予定があるので、このあたりでお暇しても?」
「あぁ、予定があると言っていたね。忙しいのに今日はありがとう。また手紙を書くよ」
「私も返事を書く。では!」
余韻に浸る間もなく、ティモシーとはその場で別れた。
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