第二章06 悪女ロズリーヌ・トリオール【間】

「隙の無い人かと思ったが、話してみたら案外からかいがいのある人だったな」


 ティモシーは書類を用意しながらぼそりと呟いた。


 窓のないレンガ造りの壁を背景に、執務机に向かう姿は少々草臥れている。部屋は橙色の灯りがついているにも関わらず薄暗く、ダークブラウンで統一された家具は照らされている部分だけぼうっと赤く色づいて、まるで床から生えているようだった。


「本当に、あの悪女ロズリーヌと婚約なさるんですか?」


 短い黒髪の青年が明かりの元へ歩み出て来ると、右目のモノクルを時折直しつつ、執務机の上に積まれた書類の山を整理し始めた。


 彼の名はシリル・デュボワ。デュボワ侯爵の一人息子で、幼い頃からティモシーの護衛騎士及び小間使いを担っており、数少ない友人と認められた存在でもあった。


「……愛しの聖女ロズアトリス様に振られたからといって、自暴自棄にならなくても」


「振られていない!」


 シリルの鋭い指摘にティモシーは声を荒げたが、すぐに冷静になってトーンを落とした。


「婚約を解消しようと言われただけだ。それに自暴自棄にもなっていない。あくまでロズリーヌ殿とは婚約のみで、結婚まではしない。ロズアトリス様と結婚できないなら、私は一生独身でいい」


「婚約解消を言い渡されたというのは、世間一般では振られたと言うのですよ。それに勝手に一生独身を貫く男なんて、振った側からしたら重すぎて気持ち悪いです」


「気持ち悪い!?」


 ショックを受けた様子のティモシーは、肘をついて組んだ手を額に当てて、大きなため息を吐いた。


「ロズアトリス様……。貴方は私のそのようなところを見抜いておいでだったのですか。私では不服……役不足でしたか……」


 情けなくも鼻を啜る音がする。普段の自信あふれる彼からは想像もつかない弱弱しい姿だが、ロズアトリスが絡んだときの彼はこれが通常だ。故にシリルは全く動じなかった。


「清廉潔白なロズアトリス様に相応しくあるように、元来の意地の悪い性格を改心されてはや九年。美しいロズアトリス様に並び立てられるよう磨きをかけた外見も、ロズアトリス様をお守りするために鍛えた剣の腕前さえ水の泡。お可哀想に殿下。シリルはとても悲しいです」


「お前、ここぞとばかりに。面白がっているだろう。性格が悪い」


「従者は主の性格に似ると言いますからね」


 シリルがさらりと言い返すと、ティモシーは舌打ちした。シリルは「こわいこわい」と口では言いながら平然とした様子で、まとめあげた書類の束を抱え込んだ。


「とはいえ落ち込んで無気力になっていたのは一ヵ月くらいですか? 先日の夜会で突然、ロズリーヌ殿と婚約するために外堀から埋める計画を指示されたときは、驚きましたよ。精力的ないつもの殿下に戻られたようですが、どんな心境の変化が?」


 問いかけつつ、シリルは部屋を出て行こうと扉に手をかけている。


 ティモシーはたったいま出来上がったばかりの婚約誓約書を読み返しながら答えた。


「ロズアトリス様の婚約者でなくなり、直接彼女に助けを求められなくなっても、彼女を助けても良いのだと気づいたからだ。……ロズリーヌ殿の言葉で」


 シリルはふと悪女と囃されるロズリーヌ・トリオール伯爵が主人を触発した言葉を思い返した。良い言葉だったとはいえ、主人が愛しのロズアトリス以外の女性を気にするなんて、珍しいこともあるものだ。ひょっとして、と思わなくもない。


「それで、どうしてロズリーヌ殿と結婚なんて考えたんです?」


「彼女は悪女。例え私がロズアトリス様のためにこの世の中に反することをしようとも、身近なところにいる婚約者の彼女がすべて被ってくれると思わないか?」


 形の良い唇の片方だけを上げ、不敵に微笑む主人を見て、シリルは考えを改めた。幸せそうな笑みを浮かべて甘い言葉を紡ぐ唇はロズアトリスただ一人のもので、他の人間に対してはこんなものだ。


「本当に、意地の悪い人だ」


 シリルはやれやれと首を振って部屋を出た。


 部屋の中に自分しかいなくなると、ティモシーは途端に笑うのをやめて頬杖をついた。


「……どこか、似ている気がするのは、私の未練が深い所為か?」


 物憂げな表情をして、婚約証明書を見ながら、婚約誓約書を指で叩く。


 悪女ロズリーヌ・トリオール。十二歳で遅いデビュタントを迎えた彼女は社交界の新星だった。彼女の目の覚めるような美貌に惹きつけられた人々は、我先にと彼女に近付こうとしたが言葉一つであしらわれ、好意が憎悪に変わり、いつしか彼女を悪女と呼ぶようになった。そして彼女を養子にした老伯爵夫婦が女神の御許へ旅立ち、彼女が若くして伯爵位を継ぐと、彼女の悪評は加速した。


 だが、囁かれる悪評はすべて周囲の作り話だ。ロズリーヌ自身は気にしていないのか、それとも悪女と呼ばれることを自ら望んでいるのか、数々の逸話を訂正しようともしない。


(真逆の存在なのに、そういう周りの評価を気にしないところがあの方に似ている気がする。……私は何故彼女が気になっているのだろう)


 ティモシーはこめかみを押さえ、自身の頭の中を覗くように、暗闇を眺めながら思考するのだった。

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