第1話「合法的トビ方」

-verse 1-

カーテンの隙間から差し込む朝の光は、いつもどこか冷たく感じる。

縁禅まつりは眠たい目をこすりながら、ぼんやりと部屋の壁を見つめた。

自室のテレビから流れるニュースの音、冷蔵庫のモーター音、

街のざわめき。

どれもまつりの頭の中をかき乱して、集中できなかった。

机の上には学校の宿題が積まれている。

その隣には、開きっぱなしのノートパソコン。

画面の明かりが、彼女の瞳をぼんやりと照らしていた。

まつりは深いため息をついて、椅子にもたれかかる。


今日も、何も変わらんのやろな。

でももうすぐ、私はここから出ていく。


-verse 2-

家の中はいつもどこか重たくて、息が詰まりそうだった。

姉のまつりが居なくなってから、その空気はますます変わってしまった。


朝。まだ鳥の声もない。

縁禅ひまりはリビングのダイニングテーブルでくつろぎ、

いつも通りトーストをかじる。


静かすぎる、この家が嫌いだった。

でももっと嫌いだったのは、ここが「ちゃんとした家」として

回っていること。

姉は、それが我慢ならなかったんだと思う。

きっと正しい空気に噛み合わない何かをずっと感じていた。

しかしひまりは、それを責めることも理解することもできなかった。

もう何日も姉とはまともに話していない。

お互いの部屋を隔てる壁が、日に日に厚くなっている。

「行ってきます」と声をかけても、返事はない。


私は高校に向かいながら、まつり姉ちゃんの名前を心の中で

何度も呼んだ。

呼べば呼ぶほど、遠ざかる気がした。

でも分かってた。

あの人が、どこかに飛び立つ準備をしていたこと。

縁禅家にいてはいけない人。この街の地図から、はみ出してしまう音楽。

それが、まつり姉ちゃんだった。

私はまだ、飛べない。それが悔しくて、少しだけ誇らしい。


-verse 3-

こんな朝に飛び出すのって、夜に逃げるよりずっと静かやな。

まつりは耳にイヤホンをいれながらそう思った。


イヤホンさえしとけば、世界の声は遮れると思ってた。

でも、自分の心の声までは消されへんかった。


どこ行くかは決めてへん。でも、「戻らん場所」なら、

どこでもいいって思った。


イヤホンからは音楽は流れていない。

まつりはもう音を聴いていない。

ただ、耳に何かを詰めていないと不安になるだけだった。

交差点の信号が青になっても、彼女はその場で立ち尽くしていた。

背中のリュックの中には、財布と携帯と、夜中にこっそりプリントアウトした地図。


ここから先は、私が選んだ道や。


電車に乗るのは、これが初めてだった。

切符の買い方も、改札の通り方も、ネットで予習した。

でも実際のホームは動画よりずっと広くて、冷たかった。

まつりはリュックのストラップを強く握った。

改札を抜けた時点で、もう「戻る」って選択肢は無くなっていた。

車内には朝の通勤ラッシュに向かう人たちが立ち並んでいた。

スーツの男性、制服の学生、携帯を見つめる女の子。

誰もが黙って、どこかに向かっていた。


私だけが、向かう先を知らん。


座席には座らず、まつりはドアの傍に立った。

窓に映る自分の顔が、いつもより大人びて見えた。

イヤホンはつけていない。けれど、何かが聞こえる音がした。

ガタン、ゴトン。

車輪の音が、心臓とシンクロしていた。


-verse 4-

放課後の図書室は、空気が止まったみたいに静かだった。

ひまりは、誰も使っていない閲覧室の端っこに座っていた。

広げた本は開いたまま。

でも、文字は頭に入ってこなかった。

窓の外では運動部の掛け声が響いている。

笑い声、ボールが跳ねる音、風がカーテンを揺らす音。

ひまりの世界だけが、どこか別の場所にあった。

姉が家を出てから、もう一週間が経った。

どこに行ったのか、誰にも分からない。手がかりも、足跡もない。

ただ「不在」という気配だけが毎日少しずつ、濃くなっていった。

怒ってない。悲しんでもいない。

ただ何かが欠けたまま、時間だけが進んでいく。

ひまりは席を立ち、何も借りずに図書館を出る。

昇降口までの廊下、光の角度が変わっていく。

夕方の空気が頬に触れたとき、ひまりは不意に立ち止まった。


まつりは、ちゃんと音のある場所にたどり着けたんかな。


-verse 5-

なんば駅の改札を抜けた瞬間、まつりは少し立ち止まった。

空気が変わっていた。

湿った埃のにおい、焼けたアスファルトの残り香。

風が吹き抜けるたびに、どこかで紙ゴミが舞っていた。

駅前の広場にはベンチが並んでいたけど、誰も座っていなかった。

地図を取り出すことはしなかった。

自分の足に任せて、まつりは人混みを避けるように裏道へ入った。


雑居ビルが連なる通り。どれも古びていて、外壁はくすんで剥がれていた。

シャッターに描かれた落書きは、誰にも読まれた形跡がない。

音が、無い。

こんなにビルが詰まっているのに、車の音も、音楽も、

人の声すら聞こえてこなかった。


まるで、世界が息を止めてるみたいや。


そのとき、どこかのビルの隙間から「何か」が鳴った。

カスッ、というノイズ。

まつりは振り返った。誰もいない。でも、何かが確かにそこにあった。

リュックの中に手を入れて、ぐしゃぐしゃになった地図を握った。

まつりは、音のする方へ歩き出した。


-verse 6-

まつりは歩いていた。

歩いているというより、さまよっていた。

地図に印をつけた場所には、何もなかった。

灰色のビル、錆びた自販機、誰もいないベンチ。

「ここや」と思ったはずの場所に、看板すらない。


違う。ここじゃない。

…でも、じゃあどこなん?


時計を見る気にもならなかった。

携帯のバッテリーは朝から減りっぱなしで、もう残りわずか。

充電器は忘れてきてしまった。

交差点の角に立ち尽くす。

人の流れの中で、誰とも目が合わない。

イヤホンをしているわけでもないのに、誰も声をかけてこない。

まつりは自分が透明になったみたいな気がした。

ビルとビルの隙間から、風が吹き抜ける。

紙くずが宙に舞う。

それを見上げながら、まつりは立ち止まった。


家出って、こういうことなん?


空も高くない。足元も安定しない。

でもどこかで、世界だけが前に進んでいる気がした。

まつりは、動けなくなった。足だけが地面に縫いつけられたみたいに。


こんなはずちゃうかったのに。

大阪って、人情の街なんちゃうん…?


そのつぶやきすら、自分の胸の奥にしか届かなかった。

彼女は、とうとうくたびれてしゃがみ込んでしまった。


−––––バシャッ。

その時突然、まつりの顔に水がかかった。

「何すんねんっ…!?」

びしょ濡れになった前髪を手で払う。

驚いて見上げると、そこに「誰か」が立っていた。

「なんや、生きてるやん」

黒いTシャツ、鮮やかな金髪。年齢は分からない。

けれど、その人はまつりの顔を真っ直ぐに見つめていた。


ただ、そこにいた。

睨むことも、逃げることもできず、ただ世界が、一瞬だけ

「音を取り戻した」ような気がした。

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