ペトリコール
氷雨
1 出会い
彼女がそこにいるのは決まって水曜日だった。
僕は学校終わりの道すがら、毎日その河川敷を通って予備校に向かうのが日課だった。向かう先はともかく、川面が夕暮れに照らされて、辺り一面をオレンジ色に彩る景色を横目に自転車を走らせるのは、そんなに嫌いではなかった。
ただ思い返してみると、彼女を見かける日はそんな夕焼けも厚い雲に覆われて、今にも雨が降り出しそうな空模様の日が多かったように思う。
いつも「ペトリコール」の匂いがしていたから。
最初に彼女を見かけたのは、僕が高2だった頃の秋くらいだと思う。正確な日付まではさすがに覚えていないけれど、ぽつりぽつりと小さな雨粒が空から滑り落ち始めていたことは覚えている。僕はその日、たまたま傘を持っていなかった。
朝の天気予報では降水確率10%だったはずなのに、昇降口を出る際に天を見上げると、機嫌を損ねた赤ん坊のように今にも泣き出しそうな曇天だった。
大きくため息を吐きながら自転車を漕ぎ出してまもなく、タイミングを見計らったかのように小さな雨粒が頬を掠めるようになった。
早くしないと本降りになるかもしれない。
気持ちペダルを回す足に力を込め、いつものようにその河川敷を通り過ぎようとした時――どこまでも透き通りそうな凛とした歌声が僕の耳に届いた。
自転車を止めて道路から草の茂る河川敷を見下ろすと、長い髪の少女が一人佇んでいた。見覚えのないセーラー服は、隣接する市内の高校のものだろうか。
背格好からは僕と同年代に見えたが、それも本当の所は分からない。
歌っている曲には聞き覚えがあった。90年代に流行ったJポップだ。
彼女の声に耳を傾けている何分かの間、雨足は強まらなかったが特に弱くもならなかった。ぽつりぽつりと宙を舞う雨粒は、まるで彼女の歌声に合わせてリズムを刻んでいるように思えた。もちろんそんなのは僕の錯覚に過ぎない。
雨粒を気に留める様子もなく曲を歌い終えると、不意に彼女が振り返った。
気の強さを表すように少しだけつり上がった目が、睨むように僕を見る。
盗み聞きしたつもりはないけれど、何となく居心地の悪さを感じた僕は、彼女から目を逸らして再び自転車のペダルを踏み込んだ。
こんなところで立ち止まっている場合ではなかった。これ以上雨足が強まっても、僕にはそれを遮る術がない。濡れネズミになるより他ないのだ。
後になって気付いたが、彼女も傘を持っていなかった。
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