ニ・ロク・ニ
――262の法則
『いかなる組織も、2割の人間が優秀な働きを、6割の人間が普通の働きを、2割の人間がよくない働きをするという法則。また、アリやハチなどの集団でも同様の現象が確認される。』
1
足元の砂利道には、あくせく働く蟻の群れが列をなしていた。そしてそれをなぞるように僕たち人間も列をなし、規則正しく同じ道を歩いている。大学一時限目の朝は、そんな光景に頭を悩ませるばかりである。
最寄駅からすぐそばに架かる橋を渡り、そこら中に店舗を広げている内の一つであるコンビニの角を曲がると、そこにはもう立ち並ぶマンションたちとそれに沿うように歩く学生の群れしかない。カフェ通りの近くのおしゃれな街の一角にあるとばかり思っていた憧れの大学とは程遠いこの光景も、二年と歩き続けていくうちに慣れてしまっていた。
五階建てのクリーム色のアパート、レンガ造りの小洒落たパン屋、古びたどこにでもあるようなマンション、それらが続く道なりの先には、廃墟と化した小屋がある。ガラス扉で中の様子が見えるが、鉄でできた机と椅子、簡易的な棚と応接で使うだろう丸椅子以外目立ったものはない。ここまで現状のまま放置されている場所もそうはないのではないだろうか。入学時期の前後にはその珍しさからスマホで写真を撮る学生も多かったが、さすがに今の時期にはいないようだ。
関心を示す僕だけが、その古びた場所を眺めている。
ここが、かつての交番……。
時代遅れとなったその影を見つめていると、向かい風が首筋辺りを刺激してきた。
冬を迎える目前の十一月の風は、酷く体を震わせた。
「昭和、平成、令和史を読み解いていくにあたって、さしずめ難解なのが警察組織と刑罰制度と言えるでしょう」
耳をくすぐる様な教授の声には、最前列に座り講義を講義として捉えられている学生しか反応を示していない。目の前の席に座る学生たちは、腕につけたスマートウォッチについて話している。最新機種のそれは、標準の時計機能、マネー機能、通信機能に加えて、高性能のフロントカメラが搭載されており、GPSによる周辺検索機能も大幅に進化している、そう今朝のニュースで見た。学生はその機能を誇らしげに見せるように、遠くの黒板を撮影し、その小さな画面を拡大して友人に見せている。スマホにも満たないその画面からは、かなり鮮明な板書が見てとれた。
二〇三〇年、日本に革命が起きた。日本政府は全国合同中継を通じ、日本から犯罪を撲滅することに至ったと宣言したのだ。世界有数の平和国として知られる日本が、遂に本当の意味での平和を手に入れた。
これと同時に、日本は改元から十一年で「令和」という元号の役目を終わらせ、新たに「革明」という元号を定めた。
革命により明けた国、そう意味されたこの元号は次第に浸透していき、気づけばもう革明三〇年の年となっている。
この犯罪撲滅宣言、そして革明の時代の始まりと共に、この国は大きく変化した。
まず、あらゆる警察機関が廃止された。警視庁、警察庁、果ては小さな交番まで、全ての機関の機能はストップし、職員は散り散りに他の国家機関に移動していった。これが俗に言う、警察解散である。
丁寧に板書されたその文章は、図書館で何度も読み尽くした内容であったから、余計やる気を削いでいく。
「ここ、期末試験に出るからな」
教授の一際大きく放った言葉も、教室の数名にしか響いていない。相変わらず前の席の学生達は、ああだこうだと最新端末の議論に熱を燃やしていた。全く講義に耳を貸さない彼らの声は、その割に随分とうるさい。きっとこういった奴が、あの時代で警察のお世話になっていたんだろう。
僕は小さなため息と共に、右ポケットからスマートフォンを取り出した。辺りを見回すと、八割方がスマートウォッチに乗り換えている。少し浮いた自分が、若干惨めにも思えた。
「悪い、遅れたわ。今講義どんな感じ?」
忙しなく教室へと入ってきたケンは、季節外れに流している大粒の汗を緑色のハンカチで拭っている。
「今期末試験で出る範囲を言い終わったところ」
「おいマジかよ。じゃあ頼むわ、歴史博士」
「僕に頼るのはいいけど、ちゃんと飯おごれよ」
「釣れないこと言うなって。大体、お前ユイには普通にノート見せてるじゃねえか」
「そりゃ、友達だからな」
「おい、俺は友達じゃないってか」
「……男は別料金だよ」
机に置かれた彼のハンカチをプレゼントした彼女は、教室には来ていなかった。
ケンはなんだよと呟きながら、目の前の黒板を目を細めて見つめている。昨日は彼女であるユイの家に泊まると言っていた。襟足の少し伸びた彼の髪から、微かにシャボンの香りがする。
ケンは凝視したがわからなかったようで、苦い顔をしながらスマートフォンで黒板を撮っていた。
講義が終わると、ケンは足早に教室を出ていった。ユイがカレー作ったんだってよ、という彼の笑顔が、やけに憎たらしい。
食堂で一番安い日替わりカレーを食べた後にふとメールを確認すると、三限の講義が休講だという知らせが来ていた。
「なんだよ」
誰もいない校内のベンチで、僕の声だけがぽつりと響いた。
「少し、よろしいですか」
うわっ、という声とともに、僕はベンチから立ち上がる。ジャケットにパンツ、ネクタイ、全てが黒く彩られた中で一際目立つ白いワイシャツ。葬儀に参列した後のような出で立ちのその男は、僕の大声などなかったかのように、にこやかにたたずんでいた。
「だ、誰ですか」
「タナカと申します」
「は、はあ……」
タナカだと名乗るその男は、相も変わらず微笑んでいた。不気味そうに見つめる僕の表情に何かを察したのか、彼は懐から一通の封筒を取り出した。
「ああ、失礼いたしました。あなたにこれを」
「手紙……ですか?」
「いいえ、通達書です」
通達書という言葉に単位のことかとビクつきながら、手渡された封筒を開封した。白い書類が一枚、きれいに折りたたまれている。それを恐る恐る開くと、一番上には予想と反した言葉が綴られていた。
「殺人通達書……」
「ええ、そうです。あなたに殺人通達が下されました。本日はそのご連絡に伺った次第でございます」
目の前のタナカは、そんな言葉を発してもなお穏やかな笑顔を浮かべている。言葉にピンと来ないまま、その書類を僕は読み進めた。
殺人通達書
貴殿には、国家特別条例二六二条の元、極秘での殺人命令を通達する。
殺人命令という時代離れした言葉に、体が震えだす。革明という名で時代を紡ぐこの国で、殺し? しかも僕が?
「いや、なんですかこれ」
「殺人通達書、と申しましたが……」
「何で僕が殺人、人を殺さなきゃいけないんですか」
「そう仰いましても。私は国から派遣された配達人ですので、詳しいことまでは」
「いや、そんな……」
目の前の配達人は、やはり何も言ってはこない。笑みだけ浮かべる彼を背に、僕はもう一度その書類を読み進めた。殺人期限、実行法、実行場所、箇条書きされたそれらの最後に記されていたのは殺人ターゲットだった。その名前を見て、僕はにこやかにたたずむタナカを睨みつけた。
「おい、何でこいつなんだ」
「ですから、私にはわかりかねます……」
記された殺人ターゲットの名前は、ケンだった。
何で僕がケンを殺さなければならない。何でケンが殺人ターゲットにならなければならない。何でこんな無意味なことをする必要がある。頭の中で巡る様々な思考を遮るように、タナカは僕に告げた。
「とにかく、あなたには殺人をしていただきます」
夕暮れ過ぎのアパートは、酷く物寂しく感じられる。あのまま呆然と帰り道を歩き、一人アパートの隅で殺人通達書を眺めていた。殺す? 僕がケンを? 想像できなかったし、したくもなかった。
「大体、何で僕なんだ」
役立たずの配達人は、結局何で僕なのかも、何でケンなのかも教えてはくれずに帰ってしまった。手に握られたままの殺人通達書には、確かに僕の名前があり、ケンの名前がある。その事実だけは、確かだった。
いや、でもこんなことが本当にあるのだろうか。
思えば、あの配達人を名乗るタナカは、名刺も渡さなかったし、部署も何も名乗らなかった。国家直々の通達にかかわることならば、それくらいはあるのではないか。
「もしかして、あいつのいたずらか」
ケンは日頃から、変ないたずらをすることがあった。スマホを勝手に弄り怪しいサイトを開いたままにしておどかしたり、わざと手の込んだ掲示書類の写真を送り僕が単位を落としたと思わせたり。そんなことをする奴だから、今回のこともやりかねないだろう。
だが、いくらなんでもいたずらの度を過ぎている。湧き出た怒りを抑え込みながら、文句を言おうとケンに電話を掛ける。ワンコール、ツーコール、スリーコール手前のところで、電話は取られた。
「おう、どうした」
「どうしたじゃねえよ、流石にやりすぎだぞ」
「あ、もしかしてもうバレちゃった?」
おどけた声でケンは笑った。電話越しにどうしたのとユイの声が聞こえる。どうやら夕食も彼女の手料理らしい。
「バレちゃった、じゃねえよ。ほんとビビったんだからな」
「ごめんごめん。講義聞いてたら思いついちゃったからついよ。でもそんなに怒ることじゃないだろ」
ごめんで済むなら警察はいらないんだよ、なんて昔の文句の言い方が思い浮かぶ。それほど、ケンの反省のなさに憤りを感じていた。
「何言ってんだよ。流石にやりすぎなんだよ。人まで使って」
「人? 何言ってんだ」
へらへらと笑う彼の笑い声が脳に響く。僕と彼の温度差が、その声から伝わってきた。
「まあ、でも手が込んでたろう。今回のは」
「いや、まあな……」
「流石に気合入れて書いたからな。不幸の手紙」
「は?」
間抜けな声が、口から漏れる。ケンは、傑作だったろうと笑っていた。理解が追い付かないままその会話を聞いていると、遠くからユイの出来たよという声が聞こえ、そのままケンは飯だからと電話を切った。
頭の整理が追い付かないまま、外の空気を吸おうと玄関を開けた。ドアを閉めようとしたその時に、ポストに一通の手紙が刺さっていた。
何かが繋がるような感覚を抱きながら、その封を開ける。中には、さっきと同じように一通の手紙が入っていた。
「不幸の……手紙……」
筆跡をばれないように変えて書いたその手紙には、昔流行った不幸の手紙と同じような内容の文章が綴られていた。ケンが笑って語っていたいたずらとは、このことだったのだ。
「じゃあ、あれは」
握られた不幸の手紙。それよりもおそらく何十倍もの不幸が僕にはのしかかっている。その確信とともに、まだ受け入れきれない現実と、想像しがたい光景が頭の中を巡っていく。
けれど、間違いない。
いたずらでも、脅かしでもなく、僕の元に届けられた殺人の通達は、間違いなく、現実なのだ。
2
「で、不幸の手紙は送ったか?」
能天気に顔を覗き込むケンに、そんなわけないだろと軽く返した。
あの日、僕に渡された一通の通達書は、やはり何度見返しても目の前の彼の殺人命令に変わりなかった。
隣の席に座るケンは興味を失ったのか、欠伸を大きくしたかと思えば、鞄から取り出したメロンパンを頬張り始めた。ほのかな甘い香りとともに、崩れ落ちていく欠片たちが、季節外れの粉雪のように見える。
講義中なのにそこまで堂々とパンを頬張る姿は、もう一年のころから見慣れていた。一瞥する教授達が誰も注意しないのは、時代の風習というよりも、彼の人徳ではないかといつ見ても感じてしまう。
「そういえば、ユイは?」
「ああ、あいつか。知るかよ」
目に見えて機嫌が悪くなったケンに、僕は少し驚いていた。彼がユイの話をするときは、決まって笑顔だった。
「どうした。何かあったのか」
「いや、別に」
「でも、いつもと雰囲気違うぞ」
僕の問いかけに耳を傾けることなく、彼はスマホをいじりだした。画面に映るサイトはいつも見ないニュース記事で、下にスクロールし、上にスクロールしを繰り返している。
「おい、ケン」
「なんだよ、うるせーな」
肩に乗せた僕の手を弾き飛ばし、教室に響き渡る声でケンは怒りを剝き出しにした。教室の学生たちは講義中とは打って変わり、現状を理解しようと努めるようにその状況を見つめており、自分の場を遮られた教授は淡々と静かにと注意した。僕はその状況に啞然としながら、ごめんとだけケンに言った。
わりい、そう小さな声でケンは返した。
過去にケンと喧嘩したことは、一度しかない。
あれは、一年生の秋頃だった。
付き合い始めて三か月、世の中でもよく起こるといわれる倦怠期。それがケンとユイの間に起ったのは、ちょうど同じ時期だった。きっかけは些細なことだった。ケンがその時期テニスサークルに所属していて、ユイとの時間をあまりとれていなかった。そのことが二人に小さなほころびを生み、やがて大きな喧嘩に発展していったのだ。
彼らか喧嘩していることを知ったのは、ユイからの電話だった。ユイは自分のことを責めていた。自分の言い方がいけなかったんじゃないかとか、もっと自分が我慢できればよかったんじゃないかとか。けれども、僕はそうは思わなかった。付き合いたてなのにあまり連絡が取れなければ、誰だって不安になる。それに、ケンの言い方が攻撃的なのは高校から知っていた。きつい言葉を浴びせてユイを傷つけるケンの姿を想像すると、余計許せなかった。
「そんな些細なことで、そこまで怒らなくてもいいだろ」
「うるせえ、大体お前には関係ないだろ」
「そんなことはない。ユイは大切な友達だ」
「恋人同士の話に首を突っ込むのは、友達のすることじゃねえんだよ」
売り言葉に買い言葉で、気づけば僕とケンは声を荒らげながら口喧嘩を繰り広げていた。お互いが思い思いの言葉をぶつけ合い、通りすがりの学生たちはそれを異様な光景として見つめていた。結局騒ぎに気付いたユイが駆け付けたことで、僕たちの争いは終結したが、ケンとユイの仲が直るまで、僕とケンがまともに会話することはなかった。
講義が終わると、僕は荷物を片手に教室をすぐに飛び出した。ケンは教室で固まっており、そのまま椅子から立つこともなく、僕が出ていく様子を呆然と眺めていた。
ケンが僕に向かって怒鳴るなんて、あの日の喧嘩以来だった。ケンはいつも明るく、調子のいい奴だ。滅多なことでは怒らない。そんな彼が、あんな逆切れに近い形で怒ってきたことが、驚きだった。
僕は教室を抜けてから、あてもなく構内を彷徨った。二限終わり、ケンと学食に行くはずだったのに、あんな雰囲気の中では行けるはずもない。
講義もないし、大人しく駅まで帰るか。そう思い歩き出すと、茶色いロングコートの見慣れた後姿を見つけた。
「ユイ」
「ああ、久しぶりだね」
ユイは振り向きざまに、眩しい笑顔を見せた。
学年が上がってから、僕はケンに遠慮して極力三人で会うようにし、特にユイと二人で講義が被ることがないよう避けていた。だからケンからユイの話を聞くことはあっても、こうして直接ユイと会うことはほとんどなく、久しぶりの再会だった。
「どうしたの? ケンから今日は二人で学食行くって聞いてたけど」
「まあ、ちょっと予定が変わってね……」
ユイに講義室での出来事は言わないほうがいいような気がした。彼女は優しすぎるから、話してしまうと自分の責任だと感じかねない。無駄に詮索してしまったのは僕だし、必要以上に怒ったのはケンだ。彼女が悪いわけではないのに、あえて彼女を困らせる必要はないだろう。
「それより、元気だった?」
「え? 何よ急に」
「いや、しばらく会ってなかったからさ。最近どうなのかなと思って」
ユイは、なんだか親戚のおじさんみたいだねと言って、そっと微笑んだ。コートの袖をさすりながら、彼女は言葉を選んでいる。
「まあ、元気だよ」
「まあって。なんかあった?」
「いや、別に大したことじゃないの。昨日ちょっとだけケンと喧嘩しちゃって」
「やっぱり、そうだったんだ」
「やっぱりって、ケン何か言ってたの。もしかして今日のことも私のせいなんじゃ」
「いや、そうじゃないよ。なんとなくケンの様子がおかしなと思っただけ」
彼女は焦ると、早口になって言葉をまくしたてる癖がある。僕がやっぱりといった瞬間、彼女の喋るスピードが早くなっていて、慌てて僕は取り繕った。ユイはそっかと言いながら、またコートの袖をさすっていた。
やはりそうだ。彼女はいつも、自分のことを責めてしまうのだ。
最初にユイと会ったのは、大学一年のオールラウンドサークルの新歓コンパだった。
あの時は大学も入りたてで、まともに喋れるのはケンくらいだった。友人を作ることに必死になっていた僕は、柄にもなくそのサークルのコンパに参加した。
コンパにはいかにもこれから大学で活躍していくだろう人間や、すぐに大学生というブランドに染まり上がりそうな人間で溢れていた。そんな輪の中に入れず、僕は一人端の席で残された料理達を見つめていた。
そんな僕の席に近づいてきたのが、ユイだった。
彼女は周りの女の子とは違い、大人しそうで、弱そうで、儚かった。
なんか私も居づらくて、とユイは僕に話しかけた。彼女も僕と同じように、何かを変えようと違う畑に飛び込んでしまった一人だった。僕たちは周りの盛り上がりをよそに、二人淡々と話し、静かに盛り上がった。
それからサークルの方には一度も行かなかったが、ユイとは頻繁に会うようになった。学部も同じだったユイとは受ける講義も結構かぶっていて、自然と僕はケンだけでなくユイとも講義を一緒に受けるようになった。
ユイは、関われば関わるほど魅力的な人だった。落ち着いていておとなしそうだが、話すと明るくよく笑う子だった。ケンのくだらない冗談にも涙が出るんじゃないかってくらい笑い、僕の他愛のない話に対しても、優しく微笑みながら聞いてくれた。
僕は彼女のそんな笑顔に癒され、惹かれ、気づけば彼女のことが好きになっていた。
そしてその思いを伝えることが叶うことはなく、数か月後にケンとユイは付き合い始めた。
ユイとケンが付き合っていると知ったのは、他でもないユイからだった。忘れもしない七月の夏、僕は彼女に告白した。その時気まずそうな顔をしながら、彼女は打ち明けたのだ。
「ごめんね。もっと早く言おうと思ってたんだけど。夏休み入る直前の試験終わりに驚かせようってケンちゃんが言って」
「そうだったんだ。全然気づかなかったよ」
「ごめん」
「いや、ユイが謝ることじゃないし」
「いやでも、もっと早く言ってたらこんなことには……」
「いいんだよ。僕も友達として応援するから」
「うん……。ありがとう」
彼女は気まずそうな顔を浮かべながら、駆け足でその場を去った。
立ち去る前に言ったごめんねという彼女の一言が、僕は忘れられなかった。
何とかユイのことをなだめて学校を出るときには、既に午後二時を過ぎていた。ユイは終始自分が悪いんだと言っていたが、理由を聞くとケンが子供じみているようにも感じられた。
喧嘩の理由は、要するに嫉妬だ。ユイが高校時代の集まりで帰りが遅かったこと、その集まりに男が何人もいたこと、それがケンにとって気に障ったらしい。私が言ってなかったのが悪いから、そう彼女は言っていたが、だとしても講義室でのあの様子はおかしい。ケンがユイのことを溺愛している分、束縛しすぎているように感じられた。いろいろ思うことを彼女に話しても、ケンちゃんが私のことを大切に思ってくれているってことだから、と片付けられてしまった。
こういうちょっとした騒動に出遭うたびに、警察がいればなんてことを少し思ったりするが、彼らの場合はその範疇でもないだろう。
結局、彼女たちは何も変わらず良い恋人同士で、喧嘩もすぐに終わることだろう。しかしそうなると、益々あの通達書通りに動く意味がない。結局、僕が何故ケンを殺す必要があるのだろうか。そんなことを考えていると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「お久しぶりですね」
相変わらずのスーツ姿の男は、僕に通達書を渡してきたタナカだった。
「ど、どうも……」
「その後、いかがお過ごしでしょう」
「いかがって、まあ普通に」
「殺人は、まだ行ってないんですか」
「いや、あんたね……。なんで僕が、あいつを殺さなきゃならないんですか」
僕のその一言に、タナカは奇妙な微笑みで返す。あの時もそうだったが、やはりこの人は気味が悪い。
「まあ、急に殺人を行えと言っても、それは簡単に鵜呑みにできる事柄ではございませんでしょう」
「わかってるじゃないですか」
「なので、そこに関する補足をしに本日は参りました」
タナカはそういうと、そっと鞄からタブレット端末を取り出した。スマートウォッチの栄えるこの時代で物珍しいと眺めていると、タナカはよろしいでしょうかと呟いた。
「殺人通達書についてですが、目的は一つでございます」
「はい」
「反乱分子の排除です」
「は?」
思いもよらぬタナカの一言に、動揺を隠せなかった。彼の言う殺人通達書はもちろん、僕が手渡されたものだ。すなわち反乱分子とは、ケンの事となる。
「ケンが、反乱分子だっていうんですか」
「はい。そもそも殺人通達書とは、昨今の時代においてイレギュラーに生まれてしまった反乱分子を排除するための極秘の国家プロジェクトで……」
「いやいや、そうじゃなくて。だからって何でケンが反乱分子なんてことになってるんですか。あいつは乱暴で訳のわからないことするようなことあるけど、殺されるようなことする奴じゃないですよ」
「それはですね……。一言でいうと、その乱暴さの度が過ぎてしまったからです」
タナカはそう言うと、手に持っているタブレット端末を操作し、一つの動画を再生した。
「これは、極秘のルートで入手した録画映像です。この動画を見ていただければ、お分かりいただけると思います」
タブレットに映し出される動画は、誰かの暮らすワンルームだった。小綺麗に整理されたその部屋には、誰も映っていない。しばらくすると、ドアの開く音が流れ、口論をする男女が部屋に入ってきた。
その男女は、紛れもない、ケンとユイだった。
口論の内容は、さっきユイに聞いた話の通りだった。ということは、きっとこれは昨日の夜の動画なのだろう。
口論は、彼女から聞いて想像していたもの以上で、かなり激しいものだった。ケンは怒りに任せて罵声を彼女に浴びせ、彼女は反抗しながらもいたたまれない表情を見せている。そしてケンは、彼女の掴む腕を強引に引きはがした。力に圧された彼女は盛大にバランスを崩し、部屋の真ん中にあるダイニングテーブルにぶつかり倒れた。
「どうでしょうか」
「いや、確かにケンがやりすぎてることはわかりますけど。でもそれだけで殺すって」
「甘いですね」
タナカは表情を緩めずに、そう呟いた。笑わない彼の顔はいつにも増して緊迫感があり、思わず体が固まる。
「大切な人に向けて暴力行為を働く。しかも愛する人に向けて、です。こうした憎悪の感情を暴力行為として働かせる人間が行き着く果てを、歴史好きのあなたならご存じのはずでしょう」
「それは……」
平成の中盤、確かそれくらいの時期に「ホスト連続殺人事件」というものがあった。ホスト通いをしていた常連客の女性が、彼女がいると知ったホスト達を次々と殺害していった事件。総被害者数は十六人にも及ぶ、平成ホストキラー事件とも呼ばれた事件。おそらくタナカは、このことを指して言っているのだろう。しかし彼女の歪んだ愛と、ケンの愛は全く違うはずだ。彼が、ユイを殺すなんてことは考えられない。
「それでも、僕にはケンがそうなるとは思えません」
「なるほど、そうですか。あなたが実行することが、最適だと思うのですが」
「あなた、やっぱり全て知ってるんじゃありませんか。何で僕なんですか。何でケンなんですか」
タナカは、それはどうでしょう、と答え、また同じ笑みを浮かべて。
「では、また参ります」
やはり僕は殺人通達書の実行などしない。彼の後姿を見送りながら、そう決意した。
3
タナカが現れた翌日、僕は講義もないのに大学に来ていた。
僕が実行するのが最適、そう彼は言っていた。僕がケンを殺すことがベストだと、ふざけるな。僕は親友を、絶対に殺さない。
あの晩、ケンとユイのあの動画、そして殺人通達書についてずっと考えていた。その結果、僕は一つの結論を導き出した。要は、ケンを更生させればいいのだ。平成の時代の刑事司法制度でもそうだった。悪い行いをした者がいれば罰し、刑務所で更生させる。ケンはまだユイを殺したわけではないのだし、それが筋のはずだ。
とにかく、僕はケンの行いを正すことで、僕なりの彼への罰を執行する。
十一月の構内はやけに閑散としている。前期を経て大学のシステムに慣れきった一年生は、次第に大学に来なくなる。三限の時間ということもあって、外に突っ立っているのは僕くらいだった。
三号館の三階。ケンはここで今講義を受けている。三号館の入り口で待っていれば、いずれケンと会えるはずだと思い、僕は入り口の壁に背中をもたれ立っていた。
ケンが訪れたのは、僕が思っていたよりも数十分早かった。上着を抱えて驚いている彼を、僕はじっと見つめる。
「こんなところでどうしたんだよ」
「お前こそ、講義どうした。まだやってるだろ」
「お前には関係ないだろ」
ケンはむっとした顔を見せ、目も合わさず歩き出した。僕はその背中に引っ付くようについていく。
「悪かったよ、昨日はイライラしたりして。そのことだろ」
「いや、そうじゃなくて。お前、ユイと喧嘩したんだって」
「ユイに聞いたのか。あいつまた余計なことを」
「いや、僕が聞き出したんだ。ユイは悪くない」
ケンは不機嫌な顔のまま、歩き続けている。速度が徐々に速くなって、僕もそれに合わせて歩き続けていく。
「とにかく、これ以上喧嘩するな。ユイも不安そうにしてたしさ。もっと二人仲良く……」
僕はそういいながら、ケンの肩を掴んだ。するとケンは、その手を強く跳ね除けると、うるさいな、と叫んだ。
「だから、お前には関係ないだろ」
ケンはそのまま、それ以上は何も言わずに去っていった。
以前の喧嘩の時もそうだった。関係ない。だがそんなことはないだろう。
お前がユイを幸せにしなかったら、僕があの日抱いた胸の痛みはどうなるんだ。
結局、ケンは聞く耳を持たなかった。彼はどこか横暴なところがある。不幸の手紙のこともそうだ。僕がどう思うかのかなど考えもしていない。あいつが横で楽しんでいる中で、僕はひとしきり深い溜息をつくことも多くあった。あいつのそういうところには、うんざりしつつある。
あれから長いこと考えていた。どうすればケンを止められるのか、どうすることがベストなのか、考え抜いた末に、心苦しい決断を下すことにした。
ユイの住むアパートは、ケンと彼女が付き合い始めてしばらくした頃に入ったことがあった。僕が遠慮する中で、その言葉を遮りながら、いいから三人で楽しもうぜ、とケンが言ってきた。僕の気持ちを察しないケンの様子と、彼に笑顔を向けるユイの姿が、今でも脳裏に強く焼き付いている。
「どうしたの、急に呼び出したりして」
夕方過ぎ、メールの通り近くのコンビニにやってきた彼女は、不思議そうにそう言った。
「大事な話があるんだ」
「もしかして、この前話したこと? それならもう大丈夫だから、心配しないでも」
「そんなはずないだろ」
不安を抱えこんだ僕の思いが、声を一際大きくさせる。中のコンビニにいる店員や客は、それに気が付いたのか、様子を気にするように覗き込んでいた。
「ケンとうまくいってないんじゃないの」
「そんなことない。私たち仲良しだよ?」
「嘘だ。ケンは不機嫌だったし、ユイだって不安そうな顔してたじゃないか」
「それは……」
ユイはまた不安げな顔をして、下を向いた。
「ケンに暴力振るわれてるんじゃないか」
「何でそんなこと」
「だって、あの時ずっと腕をさすってただろ」
久しぶりに会ったあの日、彼女は何度もコートの裾をさすっていた。あのビデオの映像で机にぶつけた腕を、不安そうに。
「よく、気づいたね……」
「なあ、教えてくれよ。僕たち親友だろ」
「実はあの日、押し倒されて腕にあざが出来て。今日も口論になったときに突き飛ばされて同じところを……」
「今日もって」
驚きだった。ケンの暴力は映像の時一度きりじゃなかった。しかも、明確な悪意を持って。僕はそれを聞いて、もうこうするしかないと、彼女の傷ついてない方の腕を強く握った。
「ユイ、お願いだよ。ケンと距離をとろう」
昔なら、警察に相談するという手もあったはずだ。しかし、そんな場所はもうない。僕が、ユイを守るしかない。
「どうして?」
「ケンも悪い奴じゃないけど、今は頭に血が上ってユイに暴力を振るっちゃってるんだよ。一旦二人の距離を置けば、ケンも頭を冷やすって」
「ケンちゃんのこと、悪く言わないで」
強い口調で、ユイは僕の言葉に反抗する。いつものような明るさはなく、どこか怒っているような表情だった。
「私が悪いの。私がケンちゃんのこと考えないで行動してたから、怒らせちゃたの」
「そんなことないだろ」
「私が不安にさせちゃったからいけないの」
「いくら不安だからって、暴力を振るっていいなんてことにはならない。だから」
「ケンちゃんには……」
遮るように彼女は呟く。儚げなその姿を見て、感じつつあった苛立ちを抑え込み、僕は彼女の言葉を待った。
「ケンちゃんには、私しかいないの。私にも、ケンちゃんしかいない。だから、もう少し待ってよ」
「でも」
「大丈夫。また前みたいに戻るから」
ユイはそういって笑顔を見せると、ゆっくり家の方向に歩いて行った。
彼女の笑顔が、どこかいつもと違うように、歪んでいた。
ユイと話してから、もう一週間が経った。あれから何度もケンと会い、しかしケンはいつもお前には関係ない、しつこいぞと聞く耳を持たなかった。
これ以上、時間はなかった。もし仮にケンのユイへの暴力が止まず、ユイもケンと別れることもなく、僕もケンを殺さないままだったら。ケンの殺人通達書が他の誰かに渡り、知らぬうちに執行されてしまうかもしれない。それだけは、何としてでも避けたかった。
全く聞く耳を持たないあいつには、もうこれしかない。
僕は殺人通達書を持ち出して、ケンを呼び出した。
「お前、いい加減しつこいんだよ。何なんだよ一体」
ケンは不機嫌に頭を掻きながら、僕を睨みつけている。その姿にたまらず睨み返しながら、鞄から殺人通達書を取り出した。
「僕にこんなものが届いたんだ。殺人通達書。ケンを殺せって書いてある」
僕はケンに殺人通達書を見せた。
「お前を殺したくなんかないんだよ。だからお願いだ。もうユイに暴力なんか振るわないでくれ。お願いだから、元の二人の仲に戻ってくれ」
その瞬間、ケンは僕の顔をじっと見つめると、左頬を思い切り殴りつけた。重い一発に体はよろけ、道端に倒れこむ。
「お前、いい加減にしろよ。前から俺たちの仲に首突っ込んできて、今度はこんな書類まで作って嘘並べてよ。そんなに俺たちのことが気にくわないか」
「そんな風に思ってないよ。僕はただ、元通りの二人に戻ってほしいだけで……」
「嘘つけ、俺知ってるんだからな。お前がユイの事好きだったってこと。まだお前がユイのことを好きかは知らねえがな、これ以上かき回すようなら容赦しないからな」
そう言うと、ケンは走ってその場を去っていった。
どうして、お前がそんなことを言うんだ。僕がお前の事を救おうとここまでしているのに。それどころか、お前は邪魔者扱いをするのか。何で、何で何で何で何で何で何で……。
その瞬間、心を黒い何かが覆いだし、感情を一色に染めた。
この感情は、もしかして殺意なんじゃないか。僕はそんな邪推をする頭を思いっきり横に振った。
「余計なことをされては困ります。極秘案件と言ったはずですよ」
大学の校舎裏、いきなり僕の前に現れたタナカは、諭すようにそう言った。表情はいつものように柔らかく、優しく諭しているようにも見えれば、激しく嘲笑われているようにも見える。
「僕はケンも、ユイも救いたいんです。だから」
「あなたのお気持ちはよくわかりました。けれど、もうお分かりになったはずです。彼の実情を。そして、彼女の現状を見て」
声色を変えずに淡々と口にしながらも、彼の表情は徐々に重くなっていく。
「それに、殺人期限も近づいております」
「けれど殺すのは……。それでもあいつは、僕の大事な親友なんです」
「わかりました。ではもう一つだけ、動画をお見せしましょう」
そう言うとタナカは、いつものようにタブレット端末を取り出した。
「こちらとしても、殺さずに済むならそれに越したことはないんです。しかし、殺人通達書の対象になった殺人ターゲットに例外はありませんでした。彼もまた、ケースに沿った変化を見せています」
動画が再生される。前回通りのユイの部屋。前回のように、ケンはユイに向って激しく言葉を放っていた。委縮するユイを余所目に、ケンの勢いは止まず、そしてユイの一言をきっかけに、ケンは彼女を押し倒した。
想像以上だった。ケンは彼女の腹部めがけて思いっきり拳を振り下ろし、抵抗する彼女を強引に抑え込み、また殴ってを繰り返していた。
「お分かりいただけたでしょうか」
タナカの声が、静かに響く。
勝手なまま暴走しつづけるケン、ひたむきにケンしかいないと聞かないユイ。もう、彼女を救うには、これしかない。
殺人通達書の通りにしてやる。
ケンは、僕が始末する。
4
翌日の夜二十時、僕はケンのマンションの前にいた。
夜十九時以降、ターゲット自宅付近。通達所の条件にはそう書かれていた。
ユイの家から片道五分もないマンション。そんな近距離に住んでいるんだって話が盛り上がり、気づかぬ内に彼らは付き合い始めた。そして今、その関係性は壊れつつある。いや、ケンが壊している。
僕は自宅から持ってきた小さなバタフライナイフをポケットに忍び込ませ、彼が来るのを待っていた。刃渡り十五センチ程のそれは去年三人でバーベキューに行ったときに使ったものだ。犯罪という存在のないこの世界において、鋭く容易に木材すら切り刻めるそのナイフも、簡単に購入し、不自由なく持ち歩くことができる。
「何だよ、呼び出したりして」
訪れたケンは、開口一番不貞腐れながらそう言い放った。思えば、もうずいぶん無邪気な笑い顔を見ていない。それほどに、ことは重大なのだ。
「大事な話がある、だから呼んだんだ」
「大事な話ね。言っておくけど、ユイとは別れないからな。いくらお前があいつのことを好きでも、俺はあいつのことが好きだし、あいつだって俺のことが好きなんだから」
「好きな相手に、暴力なんて振るわない」
「あいつ、ほんと余計なことを」
ケンが舌打ちをすると、小さく道端に響き渡った。
「あいつが悪いんだよ。大体、そんなことお前には関係ないだろ」
「関係あるさ、僕は親友なんだから」
「親友だと思てるなら、これ以上俺達のことに首突っ込むなよ」
「違う」
「は?」
「親友は、もうユイだけだ」
口を広げたケンの表情は、なんとも間抜けなものだった。僕はポケットから取り出したバタフライナイフの刃をゆっくりと展開する。そこまでしたところで、ケンは状況を理解し顔を真っ白にして後ずさりしていった。
「お前、何してるのかわかってるのか。こんな時代に」
「殺人だよ。殺人通達書の命令に沿って、僕は君を殺すんだ」
「何わけわかんないこと言ってるんだよ。あんなつくりもの」
「本物だよ」
僕は微笑みケンの元にゆっくりと近づく。それに怯えたケンは、よろめいた足を必死に奮い起こしながら懸命に走りだした。彼の足は依然おぼつかなく、怯え腰にも見える姿になりながら逃げ惑っている。だがしかし、ケンの焦りは裏目に出て、勢いよく地面に転び倒れていった。その瞬間を見逃さず、僕は彼の体にのしかかり、じっとりとした笑みを浮かべた。
「やめて……やめてくれよ、なあ」
「死んでくれよ、ユイの為にな」
大きく振り上げたバタフライナイフをためらいなくケンの腹に突き刺す。怒りのこもりすぎたその刃は、思いのほかずっしりと奥まで貫通し鈍い感触を伝えた。そしてその瞬間、あふれ出る噴水の如く大量の血しぶきが舞い、僕の顔面を赤黒く染め上げた。その反面、彼の顔はどんどん真っ青になっていき、その光景に言い表せないような達成感と、深い快感がこの身を襲っていく。
ケンの意識が遠のいていくさなか、僕は思った。
僕は警察官に憧れていたんだ。
小さい頃に教科書で見た正義の人。その姿を、ずっと寂れた交番の跡地を見つめて、想像していたんだ。
これは、名誉の粛正なんだ。彼女を救うための粛正なんだ。愛した人を守るために、僕はケンを死刑にしたんだ。だから、ケンも、ユイだって、わかってくれるはずだ。
そして僕は、ユイのそばにいる、いつまでも。僕を取り締まる法律も、この世の中にはないのだから。
誇りと使命感を胸に、何十回とケンの胸にナイフを刺し続けた。そしてそのうち、ケンはそのまま何も言わぬ人形と化していた。真っ青な彼を見下ろし、緩まった顔のまま僕はゆっくりと立ち上がった。
「これで、ユイは救われ……」
その瞬間、大きな銃声が鳴り響いた。腹部に大きな衝撃が伝わった感触。抑え込んだ手からは、先ほどまで見ていたのと同じ、赤黒く醜いそれが溢れ出していた。
あれ……なんで……
そんなことを感じながら、足の力が抜けて崩れ落ちていく。倒れゆく最中、暗闇の中に男のような人影が、ぼんやりと視界に映り込む。
『平和のために』
朦朧としていく意識の中で、そんなセリフが聞こえた。
5
銃口からは煙が漏れていて、撃った後の余韻が残っている。引き金から離した人差し指は微かに震えているが、確かに任務を遂行した誇りと自信を感じられた。
目の前の男に近づく。放り投げられたバタフライナイフを蹴り飛ばし、男の首筋に手を当てる。大丈夫、間違いなく私は仕留めた。
少し重さが増したように感じられる拳銃を腰のホルスターに戻すと、黒いジャケットの胸ポケットから、アナログな折りたたみ式の携帯電話を取り出した。連絡用と渡されたその機器は、平成と呼ばれたあの時代ですら廃れたもので、慣れるのにはかなり苦労した。ひとつだけ登録されたその番号に電話をかけると、およそ二コールもしない内に繋がった。
「もしもし、タナカでございます」
「ああ、タナカさん。無事任務を遂行しました」
「そうですか、無事に。ご苦労様です」
「標的の被害者ですが、すでに死亡しています。もう少し早ければ、助けられたのに」
「そうですか」
淡々と話を進めるタナカの声は、妙に高い声をしている。会う時にはいつも笑顔を絶やさないので、親切さを感じさせる反面、事が事だけに重々しい影も感じられる。
彼が私の前に訪れてから早数ヶ月経つものの、やはりその不気味さは慣れない。
あの日も、そうだった。
あれは大学四年生の日のことだった。公務員試験の結果発表の日、ネットを通じて合否確認をした私の端末上には、合格とも不合格とも記されてなく、追加試験の実施とその日時の詳細が記されていた。
会場に到着すると、受験者は私以外に誰もいなかった。その代わり、並べられた机の先には数人の担当者達が座っており、その迫力に圧倒される。
「お座りください」
「失礼致します」
「貴方は試験の結果も上々、いや完璧でした」
「ありがとうこざいます」
「ところで、何故公務員に?」
担当者達が私の方を一気に見つめる。気圧されながらも、私はその眼差しに向き合った。
「国家のもと、人々に貢献していく為です。私は……」
「定型文はいい。貴方の本当の意思を聞きたい。何故公務員に?」
穏やかな表情から一変し、厳しい表情が向けられる。その力強さに、本当のことを言わなければいけない気がした。
「国家の平和の、維持の為です。正直に言えば、犯罪がなくなった国家と言われてはいても、まだ平和の実現には至っていないと思えてなりません。ですから、私はより良い国家を創り出したい。だから……」
「わかった、結構」
突然遮られ、目の前の担当者達は顔を見合わせた。やってしまったか。そう思った直後に、一番端に座っていた若い男が、おもむろに口を開いた。表情はどこか晴れやかで、とこか明るい。
「貴方は試験の結果、公務員の内のある適性に当てはまりました。今回の面接の結果、是非貴方には、適性を活かしある部署で活躍していただきたいと思っております」
「適性、とは」
「国家の平和の維持を担う、その適性です」
「なるほど」
頬が少し緩む。なるべくその様子を見せないよう努め、男との話を進めた。
「その、部署とは一体何でしょうか」
「はい。部署は極秘裏に動く為、他には伏せていただきたいのですが。特殊事例処理部という部署です」
「特殊事例処理部、ですか」
聞いた覚えのない部署だった。
「国家から犯罪は消えましたが、やはり完璧な世界は完成しておりません。国家をいまだに信用しない者、危険思想を抱きかねない者、隠し持つ者、実行してしまう者。旧警察組織になお執着している者……。そんな人間は未だに存在しています。どこかで綻びが生まれれば、また元の様に犯罪の蔓延した国へと戻りかねない。あなたにはその部署で、それを防止する職務をしていただきたいと思っております」
「それは、具体的には」
男は、表情を変える。厳かな空気に包まれるその部屋で、男は私にその職務の内容を告げた。
「あなたには国家の維持の為、反乱分子とみられる市民を処分していただきます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます