さよなら またね、また あした

七緒ナナオ

第1話 さよなら、またね

『さよなら、またね』


 と、楢原ヒナタが笑顔で手を振って別れを告げたのは、三ヶ月前。寒い冬の風が残るころ。ぼくの明日は突然壊れた。


 別れの挨拶を交わした楢原ヒナタが、その翌日。突然学校を休みはじめたから。


 もしかして、ぼくのせい? 黒い罪悪感を抱えたまま、ぼくの時間はその日を境に止まったまま。


 約束をしなくたってやって来る明日は、もう、ない。変わらない明日なんて、きっとない。


 随分と昔に五月の大型連休は消滅し、春はたったの二週間。恵みの雨は豪雨となって、目覚めの季節を洗い流してゆく。


 さいあくだ。足首まで浸水してる。こんなの、臨時休校レベルだろ。


 心の中で悪態を吐きながら、ぼくは下駄箱の前でぐっしょり濡れた靴下を脱ぎ捨てた。鞄からビニール袋を取り出して、中に入っている乾いたタオルと替えの靴下と入れ替えるように、濡れた靴下を放り込む。


 冷えた足をタオルで拭いていると、ふ、と影が差した。ん? とうとう豪雨で停電か? 目を細めて顔を上げた。その先に。


「……おはよ」


 控えめな声の主を見て、ぼくは一瞬、呼吸を忘れた。


 ——楢原ヒナタだ。


 楢原ヒナタが、今、ぼくの目の前に。嘘。今、ぼくに挨拶した?


 淡いクリーム色のカーディガン。白いシャツと、深緑色のスカート。すっと伸びた細い指先。黒目がちな双眸は、長いまつ毛に縁取られている。腰まで伸びた艶やかな黒髪が、サラリと揺れた。


 なにもかも、寸分違わず記憶LifeLogの中にあるままだ。


 いや、違う。ほんの一瞬。瞬きほどの間だけ、楢原ヒナタの黒い瞳が、機械のレンズみたいに収縮したみたいに光った気がする。


 なんだ? と浮かぶ疑問は、楢原ヒナタに掻き消された。


「久しぶり。……なんか、思ったより懐かしいな」


 続けて遠慮がちに呟かれた言葉に、とうとうぼくは言葉を発することができなくなった。カァ、と頬が熱くなる。頭の中は大混乱。濡れた鞄を前抱きしながら、コクコクと無言で頷くだけ。乙女かよ。


 楢原ヒナタは、無様な姿を晒すぼくを気にするようでもなく、にこり、と微笑んだ。かわいい。楢原ヒナタの周りだけ、星が飛び散っている。


 あー、駄目。もう、なにも考えられない。


 一日に一回、寝ているときに自動実行される記憶の最適化がはじまったわけじゃないのに、頭の中が真っ白に塗り潰されてゆく。


「高等部二学年って、二階でいいんだよね?」


「あっ、うん」


 ぴたりと閉じていた喉をこじ開けて、ようやく出た言葉がそれ。自分のぽんこつ振りに辟易する。


 でも仕方がない。ぼくは奥手で紳士だから。嘘。ただ臆病なだけ。


「緊張するなぁ。みんな、変わらない? 二十人のまま?」


 楢原ヒナタの問いかけに、ぼくは静かに頷いた。


 楢原ヒナタとぼくは、小学生の頃からの付き合いだ。付き合いと言っても、ぼくらが通う国立静嶺れいせい学苑は小中高一貫教育で、少子化もあって一学年に一クラスしかない。同じ学苑に通う以上、違うクラスになり得ない。


 楢原ヒナタとぼくを含めて二十人。小学生の時から変わらないクラスメイトは、女子の方が三人多い。


「……転校していったやつも、編入してきたやつもいないよ」


「そっか。ありがとー」


 ふふ、と小さく笑って、楢原ヒナタがスチール製の下駄箱に手を置いた。乾いた革靴がしまわれたそこは、楢原ヒナタの下駄箱か。


 楢原ヒナタがその白い手で、細い指で、リズムを取るように爪を打ち付ける。トントン、トン。


 それは、楢原ヒナタの癖だった。あ、懐かしいリズム。じんわりと心臓付近があたたかくなる。無意識に頬がほころんだ。


 でも、突然。トントントン、トン——Beeeeeeeeeeep!!


 まるで警告音のよう。いや、違う。現実として機械的なビープ音が鳴っている。ぼくのLifeLogが一瞬、チカリと記憶同期エラーを吐いてビープ音を叫び出す。


「やだ、何!?」「なんでエラーが同期してるの!?」


 LifeLogが異常を告げたのは、ぼくだけじゃなかった。


 びしょ濡れのまま玄関に駆け込んできた生徒たちが、一斉にこめかみを抑えて叫びはじめた。


 ぼくらの頭蓋骨の外側、こめかみの辺りに埋め込まれた小さなチップ——LifeLog。


 情報過多な社会を生き抜くために必須なそれは、小学生になる前に誰もが皆、移植する。


「リセットタップ、何回だっけ?」「二回だよ、二回!」


 周りで響くビープ音が次第に小さくなってゆく。


 ぼくも彼らに習って、自分のこめかみを二回叩く。トン、トン。一秒置いて、もう一回。


 トン、と追加で叩いてLifeLogのエラーを携帯端末へ送る。後でどんなエラーコードが吐かれたのか、確認したいから。エラーに限らず、コードはぼくのいい遊び相手だ。


 ビープ音はまだ鳴り止まない。——Beeeeeeeeeeep!!


 楢原ヒナタは、慌てもせずに貼り付けたような笑みを浮かべて突っ立っている。その姿に、あれ、と首を傾げて問いかける。


「君のLifeLog、更新してる?」


「ごめん。久しぶりの登校で同期がズレたのかも」


 楢原ヒナタは焦点を失った目でそう言うと、細く白い指でこめかみの辺りをトン、トンと叩く。ティロン。クリアな音が一度だけ鳴ってビープ音が止まった。


 LifeLogは、その名の通り、生活する上での記憶を永遠に保存してくれる。


 たとえば、小学生のころ。バグでエラーを吐き続けるようになったペットロボットを直すぼくに『カナウって、機械の心が分かるんだね』と笑ってくれたあの瞬間だって、完璧で鮮やかに再現することだってできる。


 でも、だ。


 三ヶ月前、楢原ヒナタとはじめて一生分か、ってくらい話した直後。あの日の夜、ぼくははじめてLifeLogの記憶の最適化をオフにした。


 LifeLogは時々勝手に記憶の整理をして、覚えていたい記憶を出会っても欠けることがあるから。


「どうしたの、行かないの?」


 楢原ヒナタの目が微笑みの形に柔らかく弧を描くその向こう。まつ毛の奥の黒い瞳が、どうにも無機質にきらめいた。


 けれど、それはほんの一瞬。すぐに有機的な潤みが満ちて、ぼくがずっと見つめ続けてきた楢原ヒナタが戻ってくる。


「あっ……行く。行くよ」


 今のは、気のせいだ。……気のせい、だよな?


 戸惑いを隠すように顔を伏せた。ぎゅっとつむった目蓋の裏側に、ぼくのLifeLogから呼び出した三ヶ月前に見た楢原ヒナタの笑顔を映し出す。


 大丈夫、大丈夫。楢原ヒナタは変わっていない。でも、もし、今、目の前で笑っている楢原ヒナタが、ぼくのLifeLogが見せた幻だったら?


 ぼくにとって楢原ヒナタは、約束しなくても来る明日と同じ存在だ。そこにいて、当たり前。でもそんな当たり前を、ぼくは三ヶ月の間、失っていたんだ。


 ゆっくり目を開いたぼくは、先をゆく楢原ヒナタの後ろ姿と跳ねる黒髪を見つめながら、拳を握る。


 楢原ヒナタが三ヶ月も学校を休んだのは、なぜなのか。理由と原因に、ぼくが関係しているのなら。ぼくには真実を暴く権利がある。


 楢原ヒナタの秘密を突き止める。それは、とても甘美で、夢見心地のような響きで、ぼくの柔らかな心臓をあっさりと射抜いたのだ。




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