第2話 覚醒と日常

次に意識が戻った時、「私」は広々とした、しかし生活感のあるデザイナーズマンションの一室にいた。

窓の外には高層ビル群の明かりが瞬き、眼下に都会の夜景が広がっている。どうやらリナの自宅のようだ。

融合は……成功したらしい。


(…僕の意識は、ここにある。じゃあ、僕の身体は…?)


一瞬、言いようのない不安がよぎる。

元の自分はどうなったのか。あの自室のベッドの上で、抜け殻のようになっているのだろうか。それとも……。

例のフォーラムで見た「消えた」という言葉が脳裏をかすめる。

今は考えないようにしよう。ただ、この新しい現実を受け入れるしかない。


ふわりと、上品な香水の残り香が鼻腔をくすぐる。

そして、身体には――そう、滑らかな肌触りの、まさにリナが広告で纏っていたような、紫色のレースがあしらわれたキャミソールとショーツを身に着けていた。

眠る時も、彼女は自身の美意識を貫いているのだろうか。


(これが……リナの身体…)


おそるおそる、手足を動かしてみる。自分の意図通りに、滑らかに動く。

だが、その感覚は、かつての自分のものとはまったく違う。

軽く、しなやかで、どこか張り詰めたような感覚。


ベッドサイドの大きな姿見に向かう。

そこに映っているのは、見慣れた自分の顔ではない。表情はどこかアンニュイで、潤んだ瞳には色香が漂っている。

リナのものと思われる、緩やかにウェーブのかかった艶やかな黒髪が肩にかかっている。


そして、視線を下ろすと――

キャミソールの上からでもわかる、女性らしい柔らかな膨らみと、驚くほどくびれたウエストライン。

ショーツの繊細なレースが、肌に優しくフィットしている。


(…綺麗だ…)


それは、客観的な事実として、「私」の中にストンと落ちてきた。

と同時に、リナの記憶や感覚が、洪水のように流れ込んでくる。


ショーでのウォーキング、カメラマンとの阿吽の呼吸、デザイナーとの打ち合わせ、生地の選定……

プロとしての彼女の経験と、自身の身体を「作品」として、あるいは「資本」として捉える高い意識。


そして、日々のスキンケア、体型維持のためのトレーニング、友人との会話、恋人「ハヤト」との穏やかな時間……。


(これが、リナの人生……僕が、体験したかったもの…)


興奮と、少しの後ろめたさ。

そして、流れ込んでくる情報の中に、無視できないノイズが混じる。

昨夜、寝る前に彼女がタブレットで見ていたらしいネットニュースの断片的な記憶。


『相次ぐ若者の「神隠し」? ネットでは「意識転移」の都市伝説も…専門家は否定的見解』


記事のタイトルが、嫌にリアルな感触をもって思い出される。

そうだ、あのソフトウェアを見つけたフォーラムでも、似たような書き込みがあった。


「意識転移」なんて馬鹿げた話だと一笑に付そうとしたはずなのに、

今、自分がこの状況にいるという事実が、その都市伝説に奇妙な信憑性を与えていた。


リストに載っていた行方不明者たちの顔が、断片的に浮かんでくる。


(僕が使ったこの技術は、本当に安全なのか…?

彼女は……リナは、何も知らない。もし、何かあったら…)


ナツキとしての罪悪感が頭をもたげる。

だが、リナの意識から流れ込む、プロとしてのプライドと、日常の心地よさが、その罪悪感を曖昧にしていく。


今は、目の前の現実――リナとしての「今日」を生きなければ。


今日は、新しいコレクションの撮影日だ。

スケジュールを確認するまでもなく、身体がそれを覚えている。


スタジオの控室は、他のモデルたちの熱気と、化粧品やヘアスプレーの匂いで満たされていた。

視界に入るモデルやスタッフたちの顔ぶれ。リナの記憶が即座に反応し、誰が親しい間柄で、誰とどんな関係性なのかが自然と理解できる。


「おはよう!」「今日の服、可愛いわね!」


ごく自然に、親しいモデルの子に声をかけ、笑顔で短い会話を交わす。

「私」の中のナツキの意識にとっては、昨日まで画面越しに見ていただけの存在と、こんなにも気さくに話していること自体が信じられない感覚だ。


隣の席の子とは、挨拶代わりに軽いハグまで交わしてしまう。

リナにとっては当たり前の、親愛の表現なのだろう。

皆、プロの顔で準備を進めつつも、和やかな空気が流れていた。


「私」は自分のスペースに向かい、用意されたラックから、今日の主役である紫のレースのブラジャーとショーツを手に取る。


指先が、繊細な刺繍に触れる。

リナがこれをどう着こなすか、どう見せるべきか、「私」の中の「彼女」が囁きかける。


ブラジャーのホックを背中で留める。

少し手間取るかと思ったが、指が迷いなく動く。カチリ、と小さな音がして、胸が優しく持ち上げられ、支えられる感覚。


ショーツに足を通す。肌に触れる繊細なレース。

その感触は、女性としての身体を持つということ――

周期的な変化や、それに対する備えといった、かつては遠い世界の出来事だった現実を、否応なく意識させる。


(…フィットする)


それは単にサイズが合っているというだけでなく、

この身体とランジェリーが、まるで一つの存在であるかのような一体感。

リナが長年培ってきた「着こなす」という技術が、「私」の動きを導いている。


と、内なる感覚を確かめながらも、隣で話していたモデル仲間との会話も弾んでいた。


「リナさん、お願いしまーす!」


遠くからスタッフの声がかかる。


「あ、もう私の番。行かなきゃ。またね」


モデル仲間と話していたい気持ちを少しだけ惜しみながらも、笑顔で手を振り、仕事モードに切り替える。

「私」は控室を出て撮影セットへと向かい、「おはようございます、よろしくお願いします!」と明るく挨拶しながら中に入る。


強いライトが眩しい。

しかし、怯む感覚はない。カメラマンが指示を出す前に、「私」は自然とポーズを取っていた。


腰をわずかにひねり、片足を少し前に出す。

顎を軽く引き、カメラに流し目を送る。

指先は、ショーツのサイドに添えて……


(…僕が、これを?)


意識の片隅で、かつての「ナツキ」が驚いている。

しかし、身体は淀みなく動く。


紫のレースが肌の上で光を受け、影を作り、複雑な表情を見せる。

フラッシュが焚かれるたびに、肌とレースの境界線が際立ち、えもいわれぬ官能的な雰囲気を醸し出す。


「いいね、リナさん! すごくいいよ!」


カメラマンの声が飛ぶ。

求められている表情、角度、空気感。

それらをリナの経験が瞬時に理解し、身体が再現していく。


(見られている……でも、それは不快じゃない)


むしろ、心地よい緊張感と、高揚感。

この美しいランジェリーを纏った「私」が、プロフェッショナルとして認められ、その美しさを切り取られていくことへの、静かな誇り。


かつてナツキが持っていたであろう羞恥心は、リナの自信とプロ意識によって塗り替えられ、

倒錯的とも言える興奮へと昇華していくのを感じていた。


紫のレースは、もはや単なる下着ではなく、

この身体の持つ魅力を最大限に引き出すための、特別な「」のようだった。


撮影が一段落し、モニターで写真を確認する。

そこに映し出されたのは、紛れもなく「私」の顔をした、完璧に「リナ」として存在する、自信に満ちたセクシーな女性の姿だった。


その姿に、「私」は言いようのない満足感と、

この身体と役割に深く同化していく感覚を覚えていた。


ナツキとしての自己が、リナという存在の奔流の中に、心地よく溶けていくのを感じながら――。

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