ジーザス・エヴァーグリーン
アズミ
1
地元へと向かう新幹線に乗り、薄く鼠色に濁る東京の梅雨空が徐々に遠ざかっていく様を、窓越しに眺めていた。
向こうは晴れ模様で、気温は三〇度近くまで達する見込みらしかった。
ビル街を抜け、沿線には次第に若葉の萌えた緑が目に付くようになる。
私達が通っていた高校の制服の色に、よく似ている。あの頃はどうにも野暮ったいんだよなあなどと愚痴りながら着ていたものだったが、今となれば、その垢ぬけなさ、あどけなさは歳相応で決して悪くはなかったなと、微笑ましさすら覚えてしまう。
バッグの内ポケットの底から、封筒を取り出す。中には、妙に格式張った時候の挨拶から始まる、披露宴の招待状。あの頃の瀬里、それこそ、若葉色のセーラー服を着た瀬里がこれを読んで、一体何を思うのだろうか、と考える。
喜びはしないだろう、と思った。眉間に皺を寄せ、肘をつきながら文字を追い、適当なところで放り投げてはこんな月並みな挨拶なんて全然面白くない、と悪態を吐くはずだった。
当の瀬里から知らせを受け取ったのは、数ヶ月前の話だった。
職場から帰宅し、エントランスのポストを開けると、不動産屋のチラシ、水道会社のマグネット、カード会社の請求書に紛れて、一通の封筒に目が留まる。薄暗い廊下、僅かに灯る蛍光灯の下で目を凝らすと、瀬里からの便りだった。
封を開けて中の手紙を広げると、何事かが病的なまでにうやうやしい敬語で書き込まれ、周りを取り巻くは、上品な金の縁取り。
知り合いから届くうやうやしい手紙と言えば大抵冠婚葬祭くらいのものだが、縁取りが黒くない時点で、大方の察しは付くものだった。
「いっ」
思わず、しゃっくりのような情けない驚嘆を漏らす。
いつか来るとは分かっていたが、それにしても、ここまで早く踏み切られるとは、つゆほども思っていなかった。
泥のように鈍く粘ついた、得体の知れない興奮がたちまちに脳裏を侵攻し攪乱するようで、私はそれを振り払うかのように頭を二、三度振り、自分でも信じられないほど低く気障な声で、独り言つ。
「いや、まさか、そんな早くね」
部屋に入り、改めて手紙の内容を目で追った。やはりと言うか、彼女の手紙は入籍報告兼、結婚披露宴の招待状だった。
「拝啓、桃の花咲く季節を迎え、皆様におかれましてはますますご清栄のこととお慶び申し上げます――」
取って付けたような前文の後に、昨年秋に入籍した旨、披露宴の日程、式場の案内が続く。
昨年秋ということはつまり、結婚を済ませてから半年間、こうして手紙が届く今の今まで、私にそれを伝える気が無かった、ということだ。そうか、そんなものか、と思いながら、ご出席、ご欠席、どちらに丸を付けるべきか、しばし迷った。
思い返せば、随分の間、彼女の顔を見ていない。
私が上京する前、別れの言葉を交わした時が最後であれば、少なくとも三年と少しは経っているのか。もしかしたら、その決して短くはない歳月の中で、まったくの別人のようになっているかもしれないし、それとも、あの頃とそのままの瀬里が、ふわふわと笑っているかもしれなかった。
そのままでなくとも良い、せめて、ほんの一片でも面影が残っていれば、それに越したことはない――
ここまで考えたが、やがて意を決した私は、返信ハガキを取り出し、「ご出席」の上に不格好な丸を付け、「ご」に二重線を引っ張ったのだった。
長閑で変わり映えのない田園風景に眠気を誘われ、リクライニングのシートを倒し、浅い眠りの中で揺れる。
いつかの朧な記憶を、夢に見た。
あの頃の瀬里が、言った。今の私達には、思い上がる権利がある。
私は他の何物にもなれない、何物にも交わることはない特別な存在、そう思い上がる権利を持っている。歳を重ね、大人になるにつれ、人は普遍に埋没して、身動きが取れなくなる。誰かが笑うもので笑い、涙するもので涙し、怒るもので怒る。挙句、それこそが取るべき歳の取り方だとのたまう。
それならば私は、大人になりたくない。私は私であって、他の誰とも共有できない、崇高で無類な存在であると、勘違いし続けたい。
確か、そのようなことを瀬里は私に捲し立て、一息つくと
「まあ、無理だって分かってるんですけどね」
と言い、息混じりに小さく笑ったのだった。瀬里も私も、若緑色のセーラー服を身に纏っていた、あの頃の記憶だった。
私と瀬里は、地元の高校で出会った。
席が隣同士で、互いに知り合いも少なかった。せめて隣の人間とは、と仕方なく会話を続けていくうちに、なし崩し的に、校内ではいつも一緒に行動する間柄になってしまった。
瀬里は特に目を引くような何かしらを持ち合わせているわけでもない、小柄で素朴な少女だったが、一方で、あの「野暮ったい」制服を彼女が着るとどうだろう、明るく抜けた緑が可憐に映えて、仕方がなかった。
小さく華奢で流麗な曲線を持ち合わせた身体つきに、大きく僅かに釣り上がった目、全身から醸し出す印象は何とも幼げだったが、鼻筋はきりと通っており、時折後ろを振り返る時に見せる、鋭さに満ちた面持ちからは、狼狽にも似た感情を覚えるものだった。
そんな瀬里には、幼さと冷ややかさを併せ持つような若葉色の制服が確かにこの上無く似合っており、彼女自身も、それを誇りにしていた節があった。
「これが一番似合うのは多分、いや、絶対、絶対私なんだよね」
瀬里はしばしば、私の前に立っては右足のローファーの爪先を軸として、器用に一回転をしてみせた。どうも、この制服を誰よりも巧く着こなしていることに、並々ならぬ優越感を抱いているようだった。
「直は何かパッとしないんだよなあ。制服もだけど、やっぱ直そのものがイモなんだよね」
これは瀬里の口癖のようなもので、彼女は事ある毎私を引き合いに出しては辛辣なファッションチェックを下し、クスクスと涼しく笑うのだった。
今思い出しても中々酷い言われようだが、彼女の言葉に悪気が一切無いことは分かっていたし、何より、得意満面の笑みを零す瀬里を見ると、何故だろう、悪い気がしなかった。
こんな時、私は溜息を一つ吐き、優しく戒めるかのように、はいはいと彼女の頭を二、三度撫でてやれば良かった。
私と瀬里は、俗に言う凹凸コンビなるものに近しい存在だった。
小柄で色白な瀬里、背ばかり伸びて地黒でそばかすがまぶされた私、地元の名家に生まれた瀬里、とりたてて何の特徴も無い家に育った私、自尊心が人並み以上に強い瀬里、付和雷同を描いたような私――
何もかもが真反対で、共通の友人からも度々指摘された。性格がまるっきり違うのに、そんなに仲がいいなんて不思議だね。
私とて、その理由は分からなかった。お互い無いものを持ち合わせているから、それに惹かれ合っているかもしれないね、と月並みな言い訳に逃げることが常だったが、自分で口に出しておきながら、どうにも釈然としなかった。
「でも私と直って仲良しとか、そういう括りじゃないし」
と、瀬里は言う。
「自分で言うのもなんだけどさ、私が我儘を言う役で、直はそれをはいはいって言いながら受け入れる人って言うか、そういう図式が友情の前に成り立つ、っていうの?」
例え思っていたとしても、それを自分から言わないだろう。私は思ったが、それを何のやましさも無く口に出してしまうところは、彼女の愛嬌でもあった。
「じゃあ、何だと思う?」
私が問うと、瀬里はしばらく頬に手を当てて考えた後
「私っていうメインがあって、直はそれを引き立てる添え物、副菜、調味料、まあ、何でもいいや、そんな感じ」
と、平然と言ってのけた。こればかりは流石に私も面食らい、それ、他の子の前では言わない方がいいよと諫めると
「こんなこと、直にしか言わないから」
と返され、何の意図なのだろうか、べえと舌を出された。
私はいつものように彼女の頭を撫で、調味料も調味料なりに重宝されているのだなと考えると、妙におかしかった。
瀬里は、自分が他の誰とも異なる、一つと無い無類の存在であることを、誰よりも強く意識していた。
だから、彼女は若葉色のセーラー服が似合うことを常に誇りに思っていたし、自分がこれと決めた主張は、最後の最後まで覆すことを許さなかった。更に持ち前の気の強さもあり、交友関係は、あまり広い部類ではなかったはずだった。
そして彼女は、心を許した相手――私のことだが――に対してはとんでもなく我儘で、甘えたがりだった。彼女の我儘と言えば大体がこまごまとしたもので、やれそのジュース飲ませて、やれノート写させて、やれ暇潰しに付き合って――
私も私で、瀬里の我儘が発動される度、その内容やその日の気分如何に問わず
「はいはい」
と空返事をし、言われるがまま、彼女が望む通りにことを運ばせた。
都合の良い女が都合良くこき使われていると言われればそれまでだが、私は別段それを苦に思わず、瀬里にならば、それくらいの世話ならば、焼いても損にはならないだろうと思っていた。
「直さん! 頼りになる! 大恩人! 歩く神!」
時折彼女は私の肩を叩き、あどけなさが残る顔をぐいと私の方へ寄せながら、心にも無い雑な誉め言葉を何回か繰り返した後、屈託なく笑った。
それを見る毎に、何と調子が良い奴か、と私は思いながらも、これも悪くないかと、気を許してしまうのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます