お犬参りの見届け人

弥生紗和

第1話 秋津多華子と犬のイチ

 お犬参りの主役は、犬である。


 主人の願い事が書かれた木札を首輪に括り付け、お参りをする犬のことを人々はとても大切にしたという伝説がある。時は大正時代。北の果て、青森にある湖にひっそりと佇む小さな祠があった。

 その祠を人々は「龍の祠」と呼んでいた。龍の祠は人が立ち入ることを禁じている。龍神は犬だけが祠に入ることを許した。そしていつの頃からか、人の代わりに犬にお参りをさせると願い事が叶うという噂が広まった。




 今日、お犬参りに出発する犬がここにいる。


 犬の名前は「イチ」と言う。ふわふわとした狐色の毛色を持つ大きな秋田犬だ。つぶらな瞳がじっと見上げるその先には、イチの主人である若い女が立っている。


 ここは帝都にある邸宅の庭である。それほど広いわけではないが、よく手入れされた立派な松の木があり、立派な和風建築が目を引く屋敷の周囲は塀で囲まれている。


「イチ、そろそろ行きましょうか」


 若い女はイチに微笑み、頭を撫でる。その首輪には、着物の端切れで作った巾着袋が括り付けられていた。巾着袋の中身は願い事が書かれた木札がある。他人に願い事を見せないよう、女が巾着袋を作ってそれを入れたのだ。

 女はまるで女学生のような袴姿の上に外套コートを羽織っていた。長い黒髪を耳の上で一つにまとめ、艶のある髪の束が後ろで揺れる。足元には頑丈そうな革のブーツを履いている。手元にはぎっしりと荷物が詰まった大きな手提げ鞄が一つ。


 イチに声を掛け、門に向かって歩き出そうとしたその時、彼女の後ろから声が飛んできた。


「あら、お出かけなの? 多華子たかこ姉さん」


 多華子が足を止めて振り返ると、そこには口元を歪めて笑っている彼女の従妹が立っていた。


「百合香。これからお犬参りへ行くところです」

「……あら、そう。私に挨拶もせずに、こそこそ出ていくってわけなのね?」

「百合香は忙しそうでしたから……」


 多華子の従妹、百合香は華やかな美人である。大きな百合の花が描かれた着物を身に着けた百合香は、多華子の格好を値踏みするようにじろじろと見ながら近寄って来た。


「まあ、多華子姉さんったらまるで女学生みたいな格好じゃない。せっかく出かけるのだから、もっとましな服を着たらどうかしら?」


 百合香はフンと鼻で笑う。多華子が「ましな服」を用意できないことを知っていて、彼女はそんな意地の悪いことを言った。多華子の袴はこの立派な屋敷で暮らす娘にしては質素なものだった。従妹の華やかな着物とはだいぶ大きな差がある。


「長旅ですし、汚れるといけませんから」

「あら、そう。多華子姉さんも物好きよね、お犬参りの為にわざわざ北の山奥まで行くなんて。私だったら絶対に御免だわ。そもそも人が住んでいるところなのかしら?」

 顔を歪め、馬鹿にしたように話す従妹に、多華子は眉をひそめた。

「そういう言い方は失礼ですよ」

「あら、私は思ったことを言っただけよ。私だったらカフェもない田舎に行くなんて耐えられないわ」


 その時、イチが不意に百合香に向かって唸った。前足を踏ん張り、歯をむき出して一声吠える。


「きゃあ、ちょっと! 何なのよこの犬!」

 百合香は目を吊り上げ、反射的に帯に差した扇子を取り出すと、イチに向かって扇子を振り下ろした。


 多華子は慌ててイチを庇うように体を抱き、百合香を睨むように見上げた。


「イチに暴力を振るうのはおやめくださいませ!」


 百合香は多華子の怒りに触れて少し怯んだが、すぐに気を取り直した。

「な、何よ。軽く払っただけじゃないの。その犬が私に吠えるからいけないのよ! それよりも私の大事な着物を、その汚い犬が汚したらどうしてくれるのよ! 今日はこれから新聞社が私の写真を撮りに来るんだから!」

「なら、その綺麗な着物が汚れないように早く中へ戻ったらどうです?」

 百合香の剣幕にも負けず、多華子は従妹に言い返した。

「何よ、これから旅に出るからって強気になっちゃって。私が気に入らないなら、このまま北の山奥で暮らしたらどうかしら? どうせあなたには帰る家もないんだから」


 多華子はぐっと言葉を飲みこんだ。多華子の両親は彼女が小さい頃に亡くなり、彼女の叔父夫婦が多華子の面倒を見ている。百合香は叔父夫婦の大切な一人娘と言うこともあり、この家で最も大切にされている。百合香が「今日は新聞社が写真を撮りに来る」と話したのは、彼女の縁談が進んでいるからだ。婚約発表に合わせて百合香の写真が新聞に載る予定なのである。


 多華子の父親は呉服屋を営んでいた。多華子の母は彼女が幼い頃に亡くなり、父は遺された多華子を大事にしていた。商売は順調だったが、ある日父は突然事故で亡くなった。父の商売を手伝っていた彼の弟、つまり百合香の父が代わりに店を引き継いだ。幼い多華子に店を任せるのは不可能だったからだ。叔父は店を引き継いでから、どんどん事業を大きくしていった。事業は成功し、叔父一家と共に大きな家に移り住んだが、それと同時に多華子の扱いは悪くなっていった。この家で常に優先されるのは百合香であった為、多華子は叔父一家からないがしろにされていた。


 それでも多華子は、我慢して暮らしていた。父を亡くした時まだ八歳だった彼女は、叔父夫婦に頼るしかなかったのだ。贅沢品は全て従妹の百合香のものだったが、それも仕方ないことだった。叔父夫婦は体裁を気にしていた為、表向きには大事な箱入り娘として多華子を育てているように見せかけていたが、その実情は全く逆である。日の当たらない小さな部屋に押し込められ、自由に外出を許されない。女学校には通わせてもらえたが、卒業後は自宅で掃除や洗濯などをさせられる暮らしだった。そんな多華子がお犬参りの為に家を離れる。それは彼女が二十歳になって初めての大きな決断であった。


「……もう行きます。人と待ち合わせをしていますから」


 多華子は百合香から目を逸らし、イチの頭を撫で、立ち上がった。


「あら、そう。なら早く行ってちょうだい。あなたのことが新聞記者に聞かれると面倒だもの」

 百合香は冷たく言い捨て、母屋に戻って行った。その後ろ姿を見送りながら、多華子は小さくため息をつく。


「さあ、今度こそ行きましょうか」


 多華子は気を取り直してイチに微笑み、一緒に歩き出した。立派な門をくぐり、屋敷の外へ出る。多華子の旅を見送る者は誰もいなかった。門の表札に掲げられた「秋津」の文字を多華子は物憂げな顔で見た。




 多華子は『日本橋』にやってきた。石造りの大きな橋には、二体の麒麟像が設置された照明灯がある。麒麟像のたもとに立ち、多華子は橋を通り抜けていく路面電車をただぼんやりと眺めていた。日本橋の先には、大きな百貨店の建物が見え、通りは朝から大勢の人々が行き交う。多華子は橋の上から眺めるこの光景が好きだ。近頃は景気も良く、街全体に活気があり、新しい店もどんどん増えている。この近くには秋津家が経営する店もある。


 何気なく橋の入り口に目を移すと、向こうから全速力で駆けて来る警官の姿が目に入った。

 警官は焦った顔で多華子の前に来ると肩で大きく息をした。相当長い距離を走って来たようで、頬に汗が流れ落ちる。一目で警官と分かる制服と帽子を被り、腰にサーベルを下げていて、制服と同じ色の黒い鞄を斜め掛けにしていた。


「……すみません! 遅れちゃいましたか!? これでもだいぶ急いだんですけどね。ついさっきスリを追いかけて派出所に引き渡したりしていたんで……そいつが妙に暴れたりするもんだから応援を呼んだり……」


 警官はごまかすように早口で多華子に捲し立てた。彼は多華子よりは少し年が上に見えるが、まだ若い。鼻筋が通っていて精悍な顔立ちをした男だ。


 多華子は警官の言い分を微笑みながらじっと聞いていた。話を聞き終わると黙って胸元から懐中時計を取り出し、警官にそれを見せる。


「時間ぴったりですね」


 時計を見た警官はホッとしたように笑顔を浮かべた。

「ああ! 間に合いましたか! 良かったー! 大事なお約束ですから、遅れちゃいけないと思って……いやあ良かった! あ、申し遅れました。俺は日本橋警察署の巡査、甲斐聡一かいそういちと申します!」

 甲斐聡一は背筋を伸ばし、多華子に向かって敬礼をした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る