第5話 記録の谷
「下層に“記録の谷”と呼ばれる区域があるわ。正式には廃棄エリアD-9。
でも都市では、誰もそこを口にしない」
エルは端末に映る地図を指でなぞった。
「そこには、記録を持たない者や、名を剥奪された者たちが住んでる。
正式な市民じゃない、仮登録者の中でも……特に都市が“干渉を放棄した人間たち”」
「……ミオが、そこに?」
「わからない。でも、<MIO_S12>の記録が不安定化してるなら、あり得る。
名が弱くなった者は、自分から記録の谷へ落ちていくのよ」
エルの声は静かだった。
まるで、それがこの都市では“当たり前の出来事”であるかのように。
レイは頷いた。
「行こう。何かを見つけられる気がする」
⸻
旧エネルギー層。
人工重力制御の外縁を越えたその先に、“谷”はあった。
金属と配管がむき出しになった地盤。
スパークする制御盤。
光の届かない空間の奥で、かすかな焚き火が見えた。
人がいる。
生きている。
エルが声を潜めた。
「……ここは監視網の外よ。都市が意図的にアクセスしない“抜け道”。
だからこそ、名を失った者たちが集まってる」
足音を聞きつけて、何人かが姿を現す。
顔は痩せ、服は擦り切れていたが、瞳は確かに生の光を宿していた。
「……お前たち、都市の者か?」
低く、警戒に満ちた声。
「仮登録者だ」とレイが言うと、場の空気が少しだけ緩んだ。
「なら……まあ、いい。仮登録者はこっち側に来ることも多い」
「こっち側?」
「都市に馴染めなかった連中のことさ。
名前が薄れ、権限を失い、いずれは存在すら忘れられる」
「……記録を持たない者たち」
エルが呟いた言葉に、男はうなずいた。
「俺たちは、この都市じゃ“誰でもない”」
⸻
谷の奥に進むと、一人の女が壁際に座っていた。
手には端末ではなく、ノートを持っていた。
紙に、無数の文字列が書き込まれている。
「……それ、何?」
レイが訊くと、女はペンを止めずに答えた。
「“自分の名前”よ。忘れないように、毎日書いてるの」
その文字列は乱雑だった。
どれが本名なのか、どれが創作なのか、もう本人にもわからないのかもしれない。
エルが小さく呟いた。
「記録が完全に消えると、脳の中の“名前”も曖昧になっていく。
都市の中枢が、無意識の中にまで“認識抹消”を流し込んでくるのよ」
レイの心に冷たい風が吹いた。
ふと、ノートの片隅に目を落とすと、見覚えのある文字列があった。
<MIO_S12>
「……っ、これ!」
「見覚えがあるの?」
女が顔を上げる。
「誰かがここに残していった名前。私も、何度か口にしたわ。
“私、ミオって言うのかもしれない”って、そう言ってた女の子がいた」
「それって……いつ?」
「三週間くらい前。しばらくここにいたけど、ある日、何も言わずに出ていった。
名前を忘れる前に、誰かに伝えたかったんじゃない?」
⸻
そのときだった。
谷の天井が、わずかに鳴いた。
きぃ……と、鉄が軋むような、濡れたような音。
「……隠れろ」
男たちが一斉に灯りを消し、身を低くした。
そして現れたのは――**人のような“それ”**だった。
天井の管路から、逆さまに現れた“人物”。
全身を漆黒の布のような何かで覆い、
顔だけが真っ白な仮面に覆われていた。
目も口もなく、ただ光沢だけがあるその顔面。
動くたびに、関節のない腕と脚が“なめらかに曲がる”。
「……あれが、エレイザー……?」
レイが声を潜めて訊くと、エルが微かに頷いた。
「記録を失いかけている者のもとへ現れる、“抹消の確認者”。
正式名称:記録末端監査端末体・人型演算体――コード
谷の住人たちは言葉を発さず、ただ息を潜めていた。
エレイザーは音を立てずに歩く。
視線が交差した瞬間、まるで“頭の奥を覗かれる”ような感覚が走った。
(……やばい。考えるな……)
レイは必死に意識を“白く”染める。
妹の名を、思い出さないように。
エレイザーの仮面が、一瞬、わずかにこちらを向いた。
だが何も言わず、ただそのまま――消えるように谷の奥へと去っていった。
沈黙が戻る。
谷の誰もが、まだ息を詰めたままだった。
⸻
その夜、谷にふたたび焚き火の灯が戻った。
レイは火を見つめながら、語った。
「……ミオはあの日、赫門に呑まれて、俺の前から消えた。
そして、見つけた。
ミオがこの世界に、この都市にいるかもしれない痕跡。」
「<MIO_S12>ね」
「確証はない。でも、あの名前を消させたくない。
俺がミオを見つけるまで......
誰かに知っていてほしい。
この世界に、“確かに存在している”と……」
その言葉に、ノートの女が静かに頷いた。
「記録じゃなくても、人の言葉で残された名前は、生きる。
この谷に、“ミオ”という名前が一つ刻まれた。
それで、少しは違うかもしれない」
火が揺れる。
その温もりは、都市の冷たい構造体では決して得られないものだった。
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