ディアマリアの瞳

橘むつみ

【1】白石真彩

第1話 赤い爪、沈黙のトイレ

あれを見た瞬間、心臓が止まった。

女子トイレの個室、そのドアの隙間から――赤い爪が、突き出ていた。


黒く光るピンヒールの右足。オープントウから覗く爪は小さくて、深い血の色をしていた。

それが『人の足』だと理解したとき、わたしはその場に崩れ落ちた。

腰が砕け、呼吸が止まり、声も出なかった。


何がどうなっているのか――けれど、直感だけは叫んでいた。

この中には『死んだ人間』がいる。

音のない個室。気配のないドアの向こう。


わたしは動けなかった。視線をそらしても、脳裏に焼きついた『あの足』が消えない。


助けなきゃ。でも、ドアを開けたくない。絶対に見たくない。

そしてわたしは、その扉を――

開けてしまった。





あえぎ声のように不規則な呼吸音だけが部屋の中に響き、わたしはようやく我に返った。


視界が揺れ、頭がぼやけていく中で、身体が不安定に揺れていることに気づく。

トイレに入るときは立っていたのに、今は何もできずに床に尻もちをついている。いや、正確には腰を抜かしていたのだろう。


不規則な呼吸が胸を押し上げ、脈は急加速し、血管が破裂しそうなほどの痛みを感じる。

動けず、声も上げられないわたしは、唯一できること――目を動かすことだけを試みた。

反射的に視線をそらし、またその足に戻す。ドアの隙間から見える、ふくらはぎから先だけ。生白くて、半ば青ざめていた。


誰かがトイレの中で倒れている。それだけは確信していた。

でもその時、なぜかどうしてもドアを開けて助けに行くことができなかった。

恐ろしいほどの尻込みが襲ってきて、心は嫌悪感でいっぱいだった。

もしかしたら、わたしはすでにその時、心の中で「死体」だと決めつけていたのかもしれない。


トイレの中は、静まり返っていた。呼吸音すら聞こえない。

その異常なまでの静けさが、全身に冷たい手を伸ばしてきた。


わたしは、もう一度その足を見つめながら、恐る恐るドアを開けようと決心した。

だがその直前、時間がゆっくりと引き延ばされたように感じ、またもや逃げたい気持ちが強く湧き上がった。

どうしても、この場から離れたくて仕方がなかった。

誰かが助けに来てくれる、そう信じたかった。


その後、何が起こったかは、はっきり覚えていない。

おそらくわたしはそのドアを開けて、一加を見つけたのだろう。

だが、今となってはそれさえもぼんやりとしか思い出せない。


目を覚ましたのは病院だった。

その日の午後九時近く、夕暮れの頃だと思う。時計を見ていなかったけれど、外はすっかり暗くなっていた。

お父さんとお母さんはまだそばにいて、わたしが目を覚ますのを待っていた。

わたしは食堂で買ってきた菓子パンを少し食べ、ようやく警察の事情聴取を受けることになった。


まだ心が落ち着かないという理由で、お父さんとお母さんは反対していたけれど、

わたしは意を決して話を聞くことにした。


部屋に入ってきたのは、二人組の刑事だった。

二人のうち、年長の方が静かに目を合わせた瞬間、何か不穏な空気が流れた。

彼の瞳の奥に、何かを隠しているような気配が感じられて、わたしはその一瞬で、何かがおかしいことに気づいた。


「では、最初に……」

刑事の声が静かに響く。その声が、わたしの胸に冷たいものを残す。


その冷たい感覚は、まるで予兆のようだった。

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