3-6

 歌音に連れられて病院に向かっていた。

 近づいてくるにつれて、僕の期待はむしろ不安へと変わっていた。


 言葉で聞いた時にはまだ現実感がなかったのだろう。こうして病院にたどり着くと、詩音は入院しているという現実が追いついてきていた。


 昨日まで普通に一緒にいた詩音は現実にはずっと入院していた。そんな普通ならあり得ない事態が、僕の感覚を狂わせていたのかもしれない。


 詩音に会いたい。でもこの先にいる詩音は僕の知っている詩音ではないのかもしれない。

 三〇七号室と書かれた部屋に『文月詩音』と書かれた名札が張られていた。


 確かにこの部屋に詩音がいるのだろう。

 歌音は何も言わずに部屋の中に入っていく。


 ベッドが置かれていた。

 その中に誰かが眠っている。


 たくさんのコードや点滴がたくさん伸びている。

 隣には何かを図る機械が置かれていた。


「良かった。いまはちょうど安定しているみたいです」


 歌音の言葉に僕の心臓がばくばくと音を立てて鼓動していた。

 詩音がそこにいる。確かにそこにいるんだ。


 なのに足が動かなかった。詩音が七年前から入院しているという事実に、僕は胸が強く締め付けられて、地面に張り付いたかのように足が動かなかった。


「拓海さん」


 歌音が僕を呼ぶ声に、やっと僕は足が動き出していた。


「詩音……」


 眠っている彼女の名前を呼ぶ。

 そこにいる彼女は、本当に眠っているだけのように見えた。


 だけど彼女は僕には気が付かない。名前を呼んでも奇跡が起きて目覚めたりはしない。

 歌音とそっくりで、でもやっぱり彼女の背は小さくて。手足も折れそうなほどに細い。僕と出会っていた時の詩音よりも、ずっと細くて今にも壊れそうだった。


 入院して眠っているだけだから、双子の姉である歌音と比べて体が大きくならなかったのかもしれない。筋肉も衰えてしまっているのだろう。どこかまだ幼さを残した風貌に、僕はいつの間にか涙を流していた。


「詩音、僕だよ。拓海だよ」


 詩音へと声をかける。だけど詩音は何も答えない。

 ただ今は眠るようにして目をつむっている。


 会えば何とかなるかもしれない。何かが起きるかもしれない。

 微かに期待していた奇跡は、でも何も起こらなかった。


「詩音……目を開けて。僕と約束したじゃないか。もういちどデートしてくれるって。ちゃんと約束を守ってほしい」


 詩音の隣で告げた言葉は、だけど誰にも届いていなかった。

 歌音も何も言わずに詩音だけをじっと見つめていた。


「詩音。僕だよ。詩音。目を覚ましてほしい」


 詩音へと話しかけるけれど、詩音は苦しむ様子も悲しむ様子もなく、ただただ眠っているだけだ。


「やっぱり簡単には奇跡なんて起きませんね」


 歌音は寂しそうに告げていた。

 たぶん期待はしていたとしても、本当に起きるとまでは思っていなかったのだろう。どこか諦めが含まれた言葉に、僕は悔しく思う。


 奇跡を起こしたい。詩音を目覚めさせたい。

 そう願うものの、何をすればいいのかはわからなかった。


「ごめん」

「いいんですよ。本当に起きるなんて思っていませんでしたし。もしかしたらって、それくらいで」


 歌音も少しだけ涙ぐんでいた。

 奇跡が起こせないことが悔しくてたまらなかった。


 詩音ともういちど話したかった。詩音ともういちど笑いたかった。

 この願いはもう叶わないのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。きっと何か方法がある。きっとあるはずだ。心の中で願うものの、方法は見つけられない。


 僕は何も言えずに詩音をじっと見つめていた。


「拓海さん、ありがとうございました。詩音も来てくれて喜んでいると思います」


 頭を下げる歌音に、でも僕は返す言葉を持ち合わせていなかった。


 詩音は本当に喜んでいるのだろうか。詩音は本当は僕を恨んでいるんじゃないだろうか。

 僕がクジラ岩に行こうなんていかなければ、詩音は怪我をすることは無かった。僕といなければ、こんな風に入院することは無かった。僕のせいで詩音の七年間を失わせてしまったのじゃないだろうか。


 僕は強く目をつむる。

 同時に声が響いた。


「あら、歌音も来ていたのね」


 その声に僕は目を開ける。

 四〇代くらいの気品のある女性が部屋の中にやってきていた。詩音と歌音の母だろうか。


「あ。お母さん。うん。あと」


 歌音はちらりと僕へと視線を送る。僕のことを何と説明するか悩んでいたのかもしれない。


「友達の拓海くん」

「……初めまして。新島拓海と言います」


「初めまして。歌音の母です。詩音のお見舞いにきてくださったのかしら。ありがとね」


 歌音の母は優しい笑顔で僕に笑いかけてくれていた。

 でも僕はその笑顔に胸の中が痛む。


 目の前にいる僕が、詩音がこうして意識を失う事態を招いたのだと知ったらどう思うだろうか。それを隠したまま接しているのは違うのではないだろうか。


 僕は詩音の家族とは会った事が無い。それどころか詩音の祖母の家がどこにあるのか、詩音はどんな家族環境なのか、そういったことは何も知らなかった。


 詩音がこの街の病院に入院していただなんて知らなかったけれど、七年もずっと忘れたまま過ごしてきた僕は恨まれたとしても当然だと思った。


「あの。詩音は……詩音さんは七年前から意識がないと伺いましたが」

「ええ。そうなの」


 ゆるやかに寂しげに微笑む歌音の母は、やはり詩音のことで胸を痛めているのだろう。

 そんな人に黙ったままでいることなんて出来ないと思った。


「……僕のせいなんです」

「貴方のせいって、どういうことかしら?」


 歌音の母は驚いた様子で僕の顔をまっすぐに見つめていた。


「七年前、事故があった時に詩音と一緒にいたのは僕なんです」

「まぁ」


 僕の言葉に歌音の母は何か考え込んでいるようで、口元に手を当てている。思ってもいない言葉に声を失っているかのようだった。


「あのとき、地震で揺れて詩音が崖の上で転んで。僕は助けようとしたけど、助けられなくて。僕も一緒に落ちてしまって。だから。僕があんなところに行こうなんて言わなければ、僕がちゃんと助けられていたら。詩音は怪我をしないで、意識を失わずに済んだんです。本当にすみません。僕のせいなんです」


 僕は深々と頭を下げる。そうしたからって、詩音が戻ってくる訳では無いけれど、僕は頭を下げずにはいられなかった。


 でも彼女は、僕を無言で抱きしめていた。

 驚いて顔を上げる。


 優しい顔をして、僕をまっすぐに見つめていた。


「貴方もずっと苦しんでいたのね。気が付かなくてごめんなさい。でも貴方が気に病むことでは無いのよ」

「で、でも僕がちゃんと出来ていたなら」


 言いかけた僕の口に、彼女は指先を当てる。


「そんなことを言うなら、責任は大人の私にあるわ。ちゃんと詩音を見ていなかったから、事故にあってしまったのだし。貴方はまだあの時小学生だったのでしょう。そんなことを気に病む必要はないの。ごめんなさいね。貴方のことを知らなかったものですから」


 彼女は僕を抱きしめながら、優しい言葉を残していた。


「あのときけっこう大きな地震があって、そのせいで海に落ちてしまったのでしょう。それなら貴方には何の責任もない。地震で混乱していた時に、たまたま近くにいた人に救われて。こうして詩音が生きていてくれただけでも奇跡みたいなものだもの。あれから長く時間が経ったけれど、貴方がこうしてここにきてくれて。詩音と会ってくれて、そんな奇跡が重なっただけでも、本当に嬉しいわ」


 歌音の母は僕の慰めるかのように、ゆっくりと僕の頭をなでていた。


「う……うう…………」


 僕は思わず声を漏らす。

 僕は七年間、詩音のことを忘れていた。苦しむことすらせずに、つい最近になってやっと思い出しただけだ。


 詩音の母はきっとずっと苦しんでいただろう。いまこうして平気な風にしていても、本当は娘のことを思って辛い想いをしているのだろう。


 それでも僕のことを許してくれて、僕を慰めようとしてくれている。

 なんて優しい人なのだろう。その優しさが、でも僕にとっては胸の中の痛みとして残る。


 いっそ罵ってくれた方が救われたかもしれない。恨まれているという事実は、きっと僕は仕方ないと言い訳して、そのまま受け入れてしまっていただろう。


 だけど彼女の優しさが、今は僕の後悔を増していく。

 詩音が命は助かったことも、僕がこうしてここにこられたのも、確かに奇跡なのかもしれない。だけどその奇跡では足りなかった。僕の罪滅ぼしは終わらない。


「詩音も貴方がこうして来てくれたことをきっと喜んでいるわ」


 詩音の母の言葉は、僕を責めるものではなかった。

 本心から僕がここにいることを喜んでくれているようだった。


 だからこそ、僕は詩音の母に何かを返したいと思った。

 奇跡を起こしたかった。


 でも何をすればいいのかもわからない。僕はごく普通の高校生で、医者でも超能力者でもない。僕に出来ることなんて、何もないのかもしれない。


 それでも何か出来ることがあるはすだ。僕にしか出来ない何かが、きっと。

 詩音はどうして僕の前にもういちど現れたのだろう。詩音が現れたことも、歌音がその姿を夢で見たことも奇跡という他にはなかった。だとしたら何が奇跡を起こしたのだろう。


 もう一つ僕は奇跡を起こせるだろうか。


「また……きてもいいですか?」

「もちろん。詩音もきっと喜ぶもの」


 詩音の母は僕から離れると、詩音の方をじっと見つめていた。

 その瞳が優しさと同時に寂しさを伴っていて、母の愛情を感じて僕は息を飲み込む。


 僕には母はもういない。でも詩音には母がいる。

 だけど僕は意識がある。でも詩音には意識がない。


 僕の半分を詩音にわけることが出来たらいいのにと思う。


「すみません。ありがとうございます」


「でも」


 礼を言う僕に、詩音の母は静かな声で告げていた。


「昨日、詩音の容態が急激に悪くなったの。今は持ち直していて安定しているみたいだけれど、いつまた同じようなことが起きるかわからない。だから、出来れば近いうちにきてあげてちょうだいね……いつまで今のままでいられるか、わからないから」


 はっきりとは言わなかったけれど、詩音がいつまでも生きていられるのかわからないと、そういう意味なのだろう。


「わかりました……」


 僕はうなずくと、詩音の方へと顔を向ける。

 やっぱり眠っているだけにしか見えなかった。


 白雪姫であれば、王子様のキスで目覚めるのだけれど、詩音は白雪姫でもなければ、僕は王子様でもない。眠り続けている彼女の目を覚ますには、キス以外の何かを見つけるしかない。


 奇跡を起こす以外に、詩音が目を覚ます方法はないのだろう。

 僕にはそのやり方はわからなかった。

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