苦いレモンの香り──この恋には、嘘がある
晴海凜/Sunny
1.プロローグ:静かな新生活の始まり
01 プロローグ:静かな新生活の始まり
#まえがき
人の頭の中には、大切な人の住む部屋がある。
その人にもう会えなくても、その人が私のことを覚えてなくても、勝手に住みついているのだ。
忘れようとしても無理。
だから私は、その人とともに生きていくことを決めた。
#本文
市役所を出ると、春の風が少し強く吹いた。
髪が頬にかかって、夕雨は手で払う。歩道には花びらが舞っていた。
通りがかりのポストに郵便物を入れる。
あの煩雑な手続きがようやく終わったと思うと、心のどこかが空っぽになったような気がした。
バスの窓から差し込む光が、夕雨の頬をやわらかく照らしていた。
役所での住所変更と保険証の手続きを終え、帰りの車内でふうと小さく息を吐く。
平日の午後。乗客はまばらで、車内はほとんど無音だった。
『戻ってきちゃったなあ……』
胸の内でつぶやいた言葉は、思った以上に重たく響いた。
鹿児島の空気は、兵庫のそれより湿り気がある。
遠くに見える桜島のシルエットは懐かしいのに、どこか他人のように見えた。
四年ぶりに戻ってきた故郷。
けれど、そこに「帰ってきた」と言えるほどの居場所はない気がしていた。
イヤホンを耳に差し込み、スマートフォンの画面を軽くタップする。
流れてきたのは、「雨雲と太陽」。
静かであたたかなイントロが、車内の静けさに溶け込む。
歌詞のひとつひとつが胸に触れ、重くなりかけた呼吸がすこしだけ軽くなる。
何もかも変わってしまったけれど、それでも、心のどこかに残る光のようなものに、そっと手を伸ばしたくなる。
スマートフォンの画面をのぞき込む。
未読の通知がいくつかたまっている。
ひとつ開くと、金髪の男性のアイコンで、柔らかな言葉で綴られたメッセージが表示された。
レモン「おつかれさま。混んでた?時間かかった?」
読みながら、夕雨の口元にわずかに笑みが浮かぶ。
「……そうでもなかったよ。でも、思ったより書くこと多くて、ちょっと疲れた。これで私も鹿児島県民だよ。笑」
画面にそうだけ入力して、送信した。
少し間をあけてからメッセージが返ってくる。
レモン『おかえり。ようこそ鹿児島へ。笑 じゃあ今日は、ちゃんと甘いもの食べてね』
夕雨は小さく笑った。
この優しさに何度助けられたか、もう数えきれない。
彼の言葉に従って、駅前の小さなカフェに向かう。
入店する前、ふと空を見上げた。
晴れてはいるけれど、どこか白っぽくて、遠くがかすんで見える。
まるで記憶の底を探るような空だった。
「ただいま、レモンくん」
声に出すと、胸の奥にじんわりと何かが滲んだ。
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