第七章  崩壊する世界



「男性保護法案、国会で可決」

「全国各地に男性保護施設の設置を加速」

「感染拡大から半年、世界の男性人口12%減少」

「健康な男性の社会的価値、急上昇」


ニュースの見出しが、世界の急激な変化を映し出していた。MSV-3.1(公式名称「MSS原因ウイルス」)のパンデミックから6ヶ月が経過し、社会は僕が想像もしていなかった方向へと変化していた。


「これからの男性は、国家の保護下に置かれます」


テレビでは女性の厚生労働大臣が記者会見を行っていた。


「感染拡大を防ぎ、男性の命を守るため、全国に特別保護施設を設置します。感染していない健康な男性は、安全確保のため、これらの施設で生活していただくことになります」


僕はテレビの前で呆然としていた。保護という名の隔離。まさか社会がこんな方向に進むとは。


「指定された男性は、各自治体からの通知に従って、最寄りの保護施設へ移動してください。必要な持ち物は最小限で構いません。施設内では全ての生活必需品が提供されます」


画面には「男性保護施設」と名付けられた大規模な建物の映像が流れていた。高い塀に囲まれ、警備が厳重な施設。まるで収容所のようだ。


「これは保護のためであり、強制ではありません。しかし、公衆衛生の観点から、指定された男性の方々の協力をお願いします」


大臣の言葉とは裏腹に、映像には警察官に連れられて施設に入る男性たちの姿があった。


この6ヶ月間で、世界は一変していた。最初の混乱と恐怖の段階を経て、社会は新たな秩序を形成し始めていた。女性が主導権を握り、残された健康な男性は「貴重な資源」として扱われるようになった。


「佐伯博士、お疲れさまです」


研究所の廊下で、若い女性研究員が僕に声をかけた。以前なら、こんな風に気軽に話しかけられることはなかっただろう。


「ああ、ありがとう」


僕は無理に微笑んだ。昇進していたのだ。「博士」と呼ばれるようになっていた。皮肉なことに、自分が作り出したウイルスの研究で。


研究室に入ると、篠原が待っていた。彼女も「篠原博士」として、チームの中核を担っていた。


「おはようございます」


彼女は公式な口調で挨拶した。周囲に人がいるときは、いつもこうだった。二人の秘密を知る者はいない。


「新しいデータが届いています」


彼女はモニターを指さした。そこには世界中のMSS感染状況と変異株の情報が表示されていた。


「MSS-V4の出現が確認されました。致死率が前世代より15%上昇しています」


「どの地域で?」


「ヨーロッパと北米で同時に。おそらく独立した変異です」


僕は暗い気持ちでデータを見つめた。ウイルスは予想を超えるスピードで変異を続け、次第に致死性を増していた。当初の予測では、死亡率は低く抑えられるはずだった。しかし現実は違った。


「解毒剤の進捗は?」


僕は小声で尋ねた。


「テスト段階です。現在のところ、MSS-V2までの株には効果がありますが、V3以降には効果が限定的…」


彼女の声も小さかった。解毒剤の開発は秘密裏に進められていた。公式には「治療薬」の研究として。


「時間との勝負だな」


その時、研究室のドアが開き、鶴見所長が入ってきた。彼はマスクと防護服を着用していた。最近では、健康な男性はこうした防護策を取るのが一般的になっていた。


「佐伯くん、篠原さん、ちょっといいかな」


所長の声は疲れていた。彼も軽度のMSS感染を経験したが、幸い回復していた。


「何でしょうか」


「政府から新たな指令だ。健康な男性研究者の保護施設への移動が決まった」


僕の心臓が跳ねた。


「保護施設…ですか?」


「ああ。君も対象だ、佐伯くん。ただ、重要研究に従事している者として、特別施設に移ることになる。研究は継続できる」


僕は言葉を失った。ついに自分も「保護」の名の下に、隔離されるのだ。


「いつからですか?」


篠原が尋ねた。彼女の声には心配が滲んでいた。


「明日から準備を始め、一週間以内に移動する。詳細は後ほど通達される」


所長は僕の肩に手を置いた。


「心配するな。特別研究施設だ。一般の保護所よりずっと条件は良い。それに…」


彼は少し間を置いた。


「男性研究者が減少している今、君の価値は非常に高い。優遇されるだろう」


所長が去った後、僕と篠原は無言で見つめ合った。


「どうしましょう…」


彼女の目には涙が浮かんでいた。


「仕方ない。従うしかないだろう」


「でも、解毒剤の研究は…」


「続けよう。どんな状況でも」


僕たちは作業に戻ったが、心ここにあらずだった。


---


その夜、僕のアパートには篠原が訪れていた。おそらく最後の夜になるだろう。明日からは「保護」のための準備が始まる。


「本当に保護施設に行くつもりですか?」


彼女はワイングラスを握りしめて尋ねた。


「選択肢はないよ。逃げれば、犯罪者として追われる」


「でも、あそこに入ったら…自由はなくなります」


「皮肉だな」


僕は窓の外の夜景を見つめた。


「僕たちが始めたことが、こんな結果になるとは」


「世界は変わりました…でも、私たちが望んだ方向とは違う形で」


彼女の言葉には後悔が滲んでいた。


最初の目的は何だったのか。僕にとっては、「透明人間」から脱却し、女性に振り向いてもらうこと。彼女にとっては、男性の攻撃性が抑えられた、より平和な社会を作ること。


しかし現実に生まれたのは、男性が「保護」という名目で自由を奪われ、「貴重な資源」として管理される世界だった。


「解毒剤を完成させなければ」


僕は決意を新たにした。「それが僕たちの責任だ」


「でも、施設に入ったら、自由に研究を進められるかどうか…」


「方法は考える。何としても」


その夜、僕たちは最後の時間を静かに過ごした。言葉よりも、互いの存在を確かめ合うように。


---


「特別研究保護施設」と名付けられた場所は、都心から離れた丘の上にあった。かつては大学の研究施設だったらしい建物が、高いフェンスと警備で囲まれていた。


「佐伯博士、こちらへどうぞ」


女性の職員が僕を案内した。建物の中は意外にも清潔で整然としていた。廊下には他の男性研究者たちの姿もあった。彼らも「保護」のために連れてこられたのだろう。


「こちらがあなたの個室です。研究室は共同で使用していただきますが、プライバシーは確保されています」


部屋に案内されると、そこは小さいながらも必要な設備が整っていた。ベッド、デスク、本棚、小さなキッチンスペース。窓からは中庭が見えたが、窓は半分だけ開くようになっていた。完全に開けることはできない構造だ。


「食事は共同ダイニングで提供されます。また、週に一度の健康診断が義務付けられています」


職員は淡々と説明を続けた。


「外部との連絡は制限されていますが、研究上必要な連絡は許可されます。また、女性の同僚との面会も、事前申請と承認があれば可能です」


「篠原博士との研究は続けられますか?」


「ええ、もちろん。彼女は外部からこの施設に通勤することになります。ただし、面会時間や場所には制限があります」


一通りの説明が終わり、職員が去った後、僕は窓から外を眺めた。高いフェンスの向こうに広がる世界。もう自由に歩くことのできない世界。


「これが僕の選んだ道の結末か…」


僕は独り言を呟いた。皮肉な運命だった。男性を減らそうとした張本人が、残された「貴重な」男性として保護される。そして、その「保護」が実質的な軟禁であることも。


その日の午後、共同研究室に案内された。そこには他の男性研究者たちがいた。ウイルス学、遺伝子工学、医学など、様々な分野の専門家たちだ。彼らも「保護」された人々だった。


「佐伯博士ですね。噂は聞いています」


年配の研究者が近づいてきた。


「MSSウイルスの研究で成果を上げている方だと」


「はい…」


僕は居心地の悪さを感じながら答えた。


「私は吉田と申します。免疫学が専門です。一緒に働けることを楽しみにしています」


他の研究者たちも次々と挨拶に来た。皆、表面上は穏やかだったが、目には諦めと不安が宿っていた。


夕食時、共同ダイニングに集まった男性たちの会話を聞いていると、この新しい世界の実態が見えてきた。


「東京の一般保護施設は酷いらしい。一部屋に10人以上が詰め込まれているという話だ」


「健康診断と称して、精子バンクへの提供を強制されるケースもあるそうだ」


「逃亡を試みた男性が射殺されたという噂もある」


「私たちはまだ恵まれている方だ。研究者という価値があるからね」


会話は暗く、重たかった。かつての誇り高い研究者たちが、今や「保護」という名の囚人となっていた。


食事を終え、個室に戻る途中、施設の窓から外を見ると、女性警備員たちが巡回していた。彼女たちの表情は厳しく、銃を携帯していた。「保護」が強制力を伴うものであることを如実に示していた。


部屋に戻ると、デスクの上に通信端末が置かれていた。限定された連絡先にしか繋がらない特別な装置だ。試しに篠原に連絡してみる。


「もしもし、篠原博士?」


「佐伯さん!大丈夫ですか?」


彼女の声には安堵と心配が混じっていた。


「ああ、予想よりは良い環境だよ。研究は続けられそうだ」


「よかった…私は明日から施設に通勤することになりました」


「知っている。でも、自由な会話は難しいかもしれない。監視されている可能性がある」


「わかっています。解毒剤の件は…」


「慎重に進めよう。コードネームで話すことにしよう」


二人は暗号めいた言い回しで会話を続けた。「プロジェクトR」として解毒剤の開発を指し、進捗状況を共有した。


通話を終えた後、僕はベッドに横たわった。天井を見つめながら、この数ヶ月の出来事を振り返る。


「オスベラシ」という狂気の計画が、まさか世界をこんな形で変えるとは。男性が減り、残された男性が「保護」される世界。しかし、それは僕が夢見たハーレムとは程遠い現実だった。


---


数週間が経過し、「特別研究保護施設」での生活にも少しずつ慣れていった。毎日、決まった時間に起床し、健康診断を受け、研究室で働く。篠原は週に3回、施設を訪れ、一緒に研究を続けた。


「MSS-V5の出現が確認されました」


ある日、篠原が持ってきた最新データを見ながら報告した。


「致死率がさらに上昇しています。世界の男性人口は現在、パンデミック前の75%程度まで減少」


僕は重い気持ちでデータを見つめた。世界の男性の4分の1が、既に失われたことになる。


「プロジェクトRの進捗は?」


篠原は小声で尋ねた。周囲には他の研究者もいるため、慎重に言葉を選んでいた。


「理論上は完成したが、実験が必要だ」


「サンプルは?」


「明日、準備ができる」


僕たちは解毒剤の開発をほぼ完成させていた。しかし、それを大規模に生産し、世界中に配布する方法がまだ見つからなかった。


夕方、外から騒がしい声が聞こえてきた。窓から見ると、施設の門前に女性たちの一団が集まっていた。


「健康な男性を社会に戻せ!」

「保護ではなく監禁だ!」

「人権侵害を止めろ!」


彼女たちはプラカードを掲げ、抗議活動を行っていた。しかし、すぐに警備員たちが現れ、彼女たちを排除し始めた。


「まだ抵抗している人たちがいるんだな…」


僕は呟いた。全ての女性が現状を受け入れているわけではない。抗議する声もあった。しかし、それは少数派だ。多くの女性は、新しい秩序を受け入れ、あるいは積極的に支持していた。


夕食時、共同ダイニングでは新たな噂が広がっていた。


「聞いたか?一般保護施設では、繁殖プログラムが始まったらしい」


「繁殖プログラム?」


「ああ。健康な男性と選ばれた女性との間に子どもを作らせるプログラムだ。人口維持のためらしいが…」


「まるで家畜のような扱いだな」


「それどころか、精神的に問題のある男性は『処分』されているという噂もある」


会話を聞きながら、僕は胃が痛くなるのを感じた。これは僕が望んだ世界ではない。まるで悪夢だ。


部屋に戻ると、通信端末が鳴っていた。篠原からだった。


「佐伯さん、急いで!重要なニュースです」


「何があった?」


「政府が新たな政策を発表しました。『男性保全計画』というものです」


「何だそれは?」


「残された健康な男性を『グレード』に分類し、それぞれ異なる処遇をするという計画です。A級は科学者や特殊技能者で、比較的自由が許されます。B級は一般的な技能を持つ者で、限定的な労働が許可されます。そしてC級は…」


彼女の声が詰まった。


「C級は?」


「『繁殖用』とされる男性です。健康状態と遺伝的特性だけで価値が決められ、他の権利はほぼ認められません」


僕は息を呑んだ。まさに人間の家畜化だ。


「そして、最も恐ろしいのはD級です」


「D級?」


「『処分対象』とされる男性です。重度の感染者や、社会的価値が低いと判断された者が分類されます」


「処分…」


言葉を失った。事態は想像を絶する方向に進んでいた。


「いつから実施される?」


「来月から段階的に。まず、一般保護施設から始まります」


「解毒剤…急がなければ」


「ええ、でも…」


彼女の声には迷いがあった。


「でも、何?」


「もし解毒剤が完成しても、それを配布する方法がありません。全ての施設は厳重に管理されています」


「何としても方法を見つけなければ」


通話を終えた後、僕は窓から夜空を見上げた。星々が冷たく輝いていた。


「僕が始めたことを、僕が終わらせる」


決意を新たにする一方で、恐ろしい現実も突きつけられていた。もはや「オスベラシ」は僕の手を離れ、独自の進化を遂げていた。世界は崩壊の淵にあり、人類社会は歪んだ形で再構築されつつあった。


そして僕は、その全ての原因を作った張本人として、「保護」という名の檻の中で、自分の罪と向き合い続けていた。

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