第35話 帝国の影

 ハーツカエ伯爵家当主、ドブロ・ハーツカエを一言で表現するなら、“俗物”という言葉が似合うだろう。


 貴族としての矜恃よりも、自らの利益と安全を重視するその様は、ある意味で人間らしくはある。


 故に、誰がこの立場だったとしても同じことをするだろうと、ドブロは己を正当化していた。


「よく来てくださりました、ルーク様」


 ニコニコと笑顔を浮かべながら、ドブロが屋敷に一人の男を招き入れる。


 見るからに高貴な人間だと分かる、白のスーツ姿。

 髪も香油でしっかりと固め、上から下まで土一つなく完璧に整えたその様は、とても長旅を終えた直後とは思えない。


 まるで自分こそが主とばかりに、応接室のソファにどかりと腰掛ける彼は、この国の人間ではなかった。


 ローンデル帝国の辺境を守る大貴族、ルーク・クルーガー辺境伯。

 ドブロにとっては宿敵であると同時に、商売上のお得意様でもある相手だ。


「どうやら、ストライダー家の排除に失敗したようですね」


「うぐ、そ、それは……」


 早速とばかりに入った本題に、ドブロは言葉を詰まらせる。


 ドブロのハーツカエ伯爵家は、ストライダー家が栄えようと潰れようと、本来であれば関係ない立場だ。


 しかし、ルークから王国内で頭角を現しつつあるストライダー家に痛手を負わせ、可能であれば家ごと潰して欲しいと頼まれ……今後の“更なる協力関係”を約束する代わりに、それを受領したのだ。


 コービンやレイゼのような“魔人”の戦力も、このためにルークの紹介によって得たものである。


「次こそは!! 次こそは必ず、あの家を潰してみせましょう。レーンベルク家が自滅してくれたのです、たかが貧乏伯爵家の一つ……!!」


「ふ、ふふふ。都合よく、ですか。そういうところがダメなのですよ、あなたは」


 突然の辛辣なダメ出しに、ドブロは面食らった。

 彼から見て、ルークという男は少し高慢なところはあっても、概ね紳士的な受け答えをしてきたからだ。


 それが突然、失望したとばかりに冷たい眼差しを送って来た。

 何が悪かったのかとオロオロするドブロに、ルークは淡々と語り出す。


「いいですか? この王国が国力を高めていく上で、大した新発明を生むでもなく新参の芽を摘み続けるレーンベルク家のやり方は、目の上のたんこぶでした。代わりとなる家が現れれば、即座に王家自ら鉈を振るうのは当然の流れ……都合が良いも何も、あって当然の事件です」


「な、なるほど……流石はルーク様、素晴らしい読みです」


 今は“貴族の常識”を語っているのであって、自分の見識を自慢しているわけではない。

 それすら理解出来ていないドブロに、ルークは盛大な溜息を吐いた。


「その程度だから、こうもあっさりネズミの侵入を許すのですよ」


 そう呟いた瞬間、ルークが指先から炎の魔法を天井へと放つ。


 何を、とドブロが叫ぶ間もなく着弾したそれは、天井の一角を吹き飛ばし……上から、黒狼獣人の少女、クロが降ってきた。


「な、なな、なんだお前はぁ!?」


「……くっ」


 クロが素早く魔法を使うと、応接室の中が数瞬、完全な暗闇に閉ざされる。


 半ばパニックになったドブロの目に再び光が戻った時、クロの姿は完全に消えていた。


「やれやれ……どこの手の者か知りませんが、あの間者の小娘を取り逃がせば、私とあなたの繋がりも露見してしまうでしょう。単なる貿易ビジネスというだけの情報しか掴まれていないのであればいいですが……それ以上、となると、我々の関係もこれまでになりますか」


「そ、そんな!?」


 ドブロとルークの繋がりは、何も貿易相手というだけではない。

 本来なら外国との取引を禁じられている資源や技術すらも、ルークを通じて帝国へ流していたドブロにとって、その情報が他家に渡るのはどうしても避けなければならないのだ。


 何としても、あの小娘をここで捕え、始末しなければ。


「すぐに追手を出さなければ!!」


「でしたら、これを兵士達に使うといいでしょう。例の薬の完成品……魔物の力を“安全に”人間が使うためのものです」


「おお、ついに出来たのですか!?」


 ルークが差し出した数本の薬瓶に、ドブロは目を見開く。


 ──人間に魔物の力を宿し、無双の力を得る。ただの一般人を、騎士すら超える怪物へと変貌させる薬だ。


 研究が終われば、辺境で燻っているドブロのような貴族ですら王国最強の軍勢を容易く揃えられる、という謳い文句で、実験に協力した代物である。


 ハーツカエ伯爵領にいる適当な罪人を、被検体として差し出すという形で。


「私とあなたは、既に運命共同体ですからね。この国を帝国の支配下に置くその日のために、協力は惜しみません」


 それもこれも、ルークの計画……帝国による、王国の征服という作戦に、功労者として名を連ねるために。


 王国の全てが支配された後も、自分だけは変わらずこの地を治め続け、甘い汁を吸うために。


 そうでもしなければ……国境沿いに位置する自分達は、ただ帝国に蹂躙されて終わるだけだと、ドブロは理解しているのだ。


 本来なら、帝国を警戒して軍備を整えるためにと王家から支払われている支援金を、私利私欲のために浪費するばかりの自分達に、強大な帝国軍を押し留める力などないのだから。


「ありがとうございます、ルーク様!! 今度こそ、必ずやご期待に応えてみせましょう!!」


 大急ぎで薬を抱え、部屋を後にするドブロ。

 それを笑顔で見送ったルークは、その眼差しを冷たいものへと変え……人知れず、その屋敷を後にした。


「まだ時期尚早ではあるが、潮時だな。コービンの研究データも十分集まったことだし……帝国へ引き上げるとしよう」

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