彼のウワサ 12
小学3年生の頃、
相手は3年生で同じクラスになった同級生。
長い黒髪が美しく、背も高くて大人びた可憐な少女だった。
彼女の気を引きたくて、雄正はゴミ捨てを代わったり一緒のグループで遊んだりと子どもなりに様々な策を講じ、その成果というべきか彼女とはそれなりに良い仲になることができた。
しかしその年の年末、彼女は転校することになった。親の転勤に伴う引越が理由だと言っていた。彼女の最後の登校日、雄正は帰り道で1週間かけて彼女への想いを綴った手紙を渡し
「また会おうね、なっちゃん」
そう言って彼女―――
中学進学にあたり、雄正は小学生から続けてきた剣道に本腰を入れて取り組むために剣道の強豪で知られる中高一貫の男子校に入学した。
男所帯で女っ気皆無という環境の中、いつも想うのは小学生の時に恋した少女のことだった。結局別れ際に渡した手紙の返事は返ってくることはなく当時はそれなりに傷ついたのだが、この頃にもなればそんな出来事も幼少期の淡く美しい思い出として昇華されていた。―――そう思っていた。
その後スポーツ推薦で大学に進学したはいいものの、雄正はアキレス腱断裂を理由に一心不乱に打ち込み続けてきた剣道を捨て、無気力に日々を過ごしていた。現状に焦りを覚えつつも、どうしたらいいのか分からないもどかしさに苦しみながら毎日を無為に過ごしていた彼だったが、入学からしばらくして大学である女性と出会う。
彼女に巡り合えたのはまさしく運命だと思った。
美しい黒髪にスラっと高い身長。まさしく小学生の時に憧れた初恋の彼女があのまま大きくなれば、このように成長しただろうと思える姿だった。雄正は一目見ただけでその女性の虜になった。
雄正はすぐさま行動を起こした。彼女の後を追って同じ授業を受け、まずは名前や学部を知ることに成功。彼女の名は
付き合い始めてすぐに雄正は菜瑞に「なっちゃん」と呼ばせて欲しいという申し入れをし、菜瑞は抵抗なくそれを受け入れた。菜瑞にとっては他愛もないことだったが、雄正にとってのそれは過去の初恋を疑似的に追体験するための行為であり、ある意味では菜瑞への不義理でもあった。彼女と初恋の人を重ねて見ることには罪悪感があったものの、それ以上にあの頃の恋が叶ったような錯覚に雄正は夢見心地になっていた。
・・・・・・・・・・
そして今、雄正は菜瑞から別れを切り出され、彼女と大喧嘩をしている。いや、喧嘩なんて生易しいものではない。竹刀で生身の人間を全力で打ち据えるなど、一歩間違えれば命にも関わる暴力行為だ。
(何で…こんなことしてるんだろ…)
すぐに止めるべきだ。そう思っていても尚、雄正はそれを止められない。止めてしまえば、自分の罪———俺が彼女自身を見ず、別の女性の影を追っていたという指摘―――を認めることになると感じているからだ。
(そんなこと…そんなことは…)
そう心の中で否定しながら、雄正は沢渡目がけて竹刀を振り下ろす。しかし何故か菜瑞は沢渡の前に立ちふさがり、手に持った鉄パイプで振り下ろされる竹刀を受け止める。打ち込みの衝撃に彼女は目を引き結び、歯を食いしばりながらも必死に耐えていた。これで打ち込みを防がれるのは3度目だ。
(何で、そこまで…)
雄正には、何故彼女が体を張ってまで沢渡を庇うのかが理解できなかった。自分とは別れると宣言していたし、ひょっとすると沢渡に気があるからそんなことを言い出したのだろうか…?
(そんな…そんなこと、あるもんか…!!)
更に沢渡への怒りを燃やす雄正だったが、立ち合いにおいて彼は極めて冷静だった。
一旦は菜瑞を障害と認めた雄正は、脳内で素早く彼女を無力化する策をまとめ上げ実行に移す。彼女が呼吸を整える隙を突いて素早く踏み込み、竹刀を下から切り上げる形で持っている鉄パイプを弾き飛ばす。そのままの態勢で、剣道の要領で胴での体当たりを行い彼女を突き飛ばした。
(ゴメン、なっちゃん)
アスファルトに尻餅をつき痛ましげな表情を浮かべる彼女へ内心謝りつつ、雄正はついに無防備になった沢渡への眼前へ立つ。短い悲鳴を上げながら後退りをする沢渡へ、今度こそはと竹刀を上段に思い切り掲げる。
「ダメぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
しかしそこでまたしても菜瑞が立ち上がり突っ込んでくる。雄正は両腕を高く上げ無防備になった横っ腹へダイブされ、彼女に押し倒されるような状態で2人横倒しになってしまった。雄正はすぐに上から覆い被さる菜瑞を跳ね除けようとするが、彼女は雄正を抑えこもうと必死に組み付いてくる。
「くっ…は、離して、なっちゃん!!」
「だっ、ダメ! 雄正! もうこんなこと止めなさい!」
必死に雄正を抑え込もうとする菜瑞だったが、体格も筋力も上の雄正には抗えず、すぐに引き剥がされ突き飛ばされる。雄正は沢渡の隣に尻餅をつき再度痛みに顔を歪める彼女に気を揉みつつも
「どうして…俺はなっちゃんのために、沢渡をやっつけようとしているだけなのに…なんでわかってくれないんだ…」
幾度となく邪魔をされ苛立っていたからか、思わずそんな言葉が口を突いて出た。
彼女からの答えはないが、そんなことは今の彼にとってはどうでも良かった。
「でも…これでやっと…やっと沢渡に天誅を…なっちゃんも…後になればわかってくれるはず…」
ようやく彼に天誅を。これでなっちゃんももう一度自分を見てくれるはず。
そんな妄執に囚われた雄正は、今度こそはと沢渡に向けて渾身の力で竹刀を振り下ろすが―――
「……っ!! は―――!!」
「っ!?」
菜瑞はまたも勢いよく立ち合ったかと思うと、雄正と沢渡の間に立ちふさがった。度重なる菜瑞との格闘に疲労が溜まり判断力が低下していた雄正は、咄嗟に振り下ろした竹刀を止めることが出来なかった。そうして勢いを殺さず全力で振り下ろされた竹刀は
「…ったあぁぁぁぁぁ!?」
菜瑞が防御のために頭上で交差させていた腕にクリーンヒットした。周囲に竹刀のパァンという乾いた打撃音と菜瑞の悲鳴が合わさって響き渡る。雄正は打ち込みのノックバックで上半身を反らせながら後退しつつ、彼女が目の端に涙を浮かべながら苦悶の表情を浮かべる光景を呆然としながら眺めていた。
(俺…俺が…なっちゃんを…)
事ここに至って、雄正は事態の重大さと自分の愚かさを自覚した。
彼女を傷つけてしまった。
俺はなんてことをしてしまったのか。
俺は…何のために、こんなことをしているのか。
疑念、悲哀、後悔…様々な感情が脳内に渦巻くなか、菜瑞の身を案じ彼女へ視線を向けた雄正が見たのは
(…ははは、すごいな、なっちゃんは)
痛みで動けなくなっていてもおかしくないはずの菜瑞が、歯を食いしばりながら決死の形相でこちらへ力強く踏み込んでくる姿だった。その勢いのまま、菜瑞は右腕を思いっ切り振りかぶって―――
「らあああああああああっ!!!」
雄正の顔面目がけ、渾身の右ストレートを放った。
「ごっ…!!」
放たれた拳は狙い通り雄正の左頬を捉え、撃ち抜く。
雄正はくぐもった悲鳴を上げながら、態勢を崩して半回転しながら後方へと倒れていく。
「あっ!? ダメッ!!」
地面へと倒れていく最中、彼女がそう叫んだのが聞こえた。何がダメなんだろうと思った直後、雄正は側頭部に強い衝撃を受け「ごっふ!?」と短い悲鳴を上げながらその場で仰向けに倒れ込んだ。何が起こったか分からないまま、急速に意識が遠ざかっていくのを感じる。
(…なっ、ちゃん…ご、め…)
遠のいていく意識の中、伝えようとした想いは言葉にならず消えていった。
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