参 捨てる仙あれば拾う仙あり
ここで否が応でもふり払うべきだったのかもしれないが、次いで耳が拾った弱々しい
「……あなたの気持ちはわかっています。僕としても無理を言っていることは承知の上です。ですが、
ときどき天喜はずるい、と紅鸞は思う。
お得意の口説きに失敗してしゅんとする彼はもはや龍というよりも
まだ幼かった頃の彼は生来の美しさだけが先立っていたが、龍族らしい威厳を身につけてからは見違えるほど立派な美丈夫になってしまったとばかり思っていた。
しかし、すっかり
それが幼い頃の泣き虫弱虫だった天喜を
優しくて
それに今の天喜は何をしていてもとにかく目立つのだ。
見目麗しい彼は楼閣の門をくぐる前から周囲の注目を集めていたが、今は四方八方から天喜を
これでは完全に
しかしながら、誤解を解くためにわざわざ説明して回るわけにもいかず、紅鸞はたっぷりと沈黙した後にしぶしぶ
「……今回の『神婚』が終わるまでの間だけよ、それで十分でしょ?」
「あなたの助力に感謝します、美人!」
これはあくまでも、今後の密やかな放浪生活を守るために引き受けたのだ。
終われば今度こそ見つからないどこか遠いところへ行って、縁結びからきっぱり足を洗う。神都にももう決して戻らない。
だから、今回だけ。この一回だけの辛抱だ。
紅鸞は自分にそう言い聞かせて、己の右手を包みこむように強く
「でも、急に
紅鸞は天喜の腰にちらりと目をやる。
二本の赤い糸で左右対称の輪を作り、余った糸を垂れ下げる形で編みこまれた
古くから良縁を象徴する同心結はれっきとした月下氷仙の証だ。当然のことながら、今の紅鸞は身につけていない。
「『神婚』が執り行われるのは
天喜は淡くぼんやりとした朱の光を抱く花鳥の
「人の世はもうすぐ
その視線の先にあったのは、年季の入った楼閣の壁に浮かび上がるひとつの影法師だ。
卓に突っ伏して情けなくもぞもぞと
「うう、どうして……ぼくは広い屋敷も、金子も持っているのに……どうして良い
紅鸞たちの卓から少し離れたところで、身なりのいい若い男が
「これで縁談も四回目だ……この世に良縁はあるはず……でも、縁結びの神様はどうしてぼくのもとに来てくださらないのだろう……」
「ここは神都。神様ならいつでもあなたのすぐそばにいますよ。当然、縁結びの神様も、ね」
気がつけば、向かいの席に座っていたはずの天喜がいなくなっている。
いつの間にかあの大量にあったきのこ料理もひとりで平らげてしまったらしい。
「あ、ちょっと……」
紅鸞はすぐにその背中を追いかけたが時すでに遅し。
泣き
「あなたは……?」
「僕は月下氷仙の天喜と申します。こちらの美人は僕の
媒酌、の言葉に男は白眼を
「ここで出会ったのも何かの縁。よろしければ、あなたの悩みを僕たちに聞かせてくださいませんか?」
天喜はまた蝶を誘う花のようにふわりと破顔すると、自然な会話の流れで男の素性と現在の状況を事細かに聞き出した。
男の名は
さすがに神都一の月下氷仙というだけあって、天喜の話術は側から見ていても舌を巻くほど見事だ。
父母はどのような人物なのか、今は何をしているのか、どのような縁談を望んでいるのか、己の知りたい情報を次々と引き出していく。
なかには「これまでに動物を救ったことはあるか」などという奇妙な質問もいくつかあったが、
天喜の
ひと通り彼のことを
「そうだ。先日、
「ほ、本当ですか!?」
洛氏が勢い余って身を乗り出すと、給仕をしていた宿屋の主人が奥からひょいと顔を
「天喜氷仙に縁
「ああ、よかった……本当によかった! 無事に縁談がまとまった
「ふふ、我々にとっては、ひとりでも多く良縁に恵まれることが何よりも喜ばしいことなのです。明日、ちょうど所用があって白家を訪ねるので、その折にあなたのことをご紹介しましょう。次の元宵に一緒に出かけて、お互いの相性を確かめてみてはいかがですか?」
「感謝します、天喜氷仙様! そうだ、それなら早速いい服を準備しないと!」
まるで草原を跳ねる
◆ ◇ ◆
この国において、男女の結婚の
旧記に「男女
ゆえに、月下氷仙は男仙女仙で一組になり、
探し出した相手同士に
翌朝、天喜とともに白家へ訪問することになった紅鸞は、前で彼が歩く
かつて月下氷仙として紅鸞が最後にあれを振りかざしたのももう数十年前だ。
縁結びも媒酌も、先代の『神婚』と同時に起こったある事件をきっかけに
それからは月老神君に与えられた大切な使命も無造作にうち捨てて、必死で何かから逃げるような
きっと、もう仙としての力もほとんど残っていない。
見る影もなく
紅鸞には
「ねえ、本当にこの道で合ってるの? どんどん
天喜の後について道を歩いているうちに、紅鸞はふと周囲の明かりが不自然なほど少なくなっていることに気づいた。
つい先ほど大きく整備された通りから少し脇道に入ったばかりだ。
このあたりの土地勘はもうないが、
それにもかかわらず、まるでこの世から人間だけがさっぱり消えてしまったかのように、出歩く人の子ひとり見当たらない。
「どうか安心してください、合っていますよ。白家の屋敷へ向かう前に少し寄りたいところがあるのです」
振り向きはせずに声だけで答えて、天喜は迷いなく前を進み続ける。
いつものようにやわらかく笑う気配はしたものの、彼の声はどこか糸を張り詰めたように緊張している。
いや、違う。どちらかというと、空気そのものが凍りついているような。
何度か角を曲がっているうちに、胸中で
天喜はある裏路地まで入ったところで、その場で
地面に向かってそれを
彼のすぐ後ろから覗きこむように首を伸ばしていた紅鸞は、そこにあったものの正体を見て
裏路地にぽつんと
「見てください、美人。百花の王はやはりいつ見ても気高く美しい。神都が牡丹の
天喜の言葉に
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