紅鸞囍 ―縁結びの瑞鳥は浮世で紅き糸を牽く―

白玖黎

序章 神都有霊――神都には神仙がいる

壱 縁結びの神仙と百花繚乱の庭


 中空を泳ぐ金色のこいに導かれ、紅鸞こうらんは蘭や麝香じゃこうにおう庭園に踏み入った。


 四季折々の花々がいっせいに、にしきを織りなすように咲く百花ひゃっか繚乱りょうらんの庭。

 紅梅だか桃花だか、梔子くちなしだか合歓ねむだか、文人ぶんじん墨客ぼっかくでなければ花を愛でるたちでもない紅鸞には知るよしもないが、この場所にあるからにはきっと情愛に縁のあるものに違いなかった。

 しかしながら、暦の上ではすでに春を迎えているとはいえ、まだまだ朝夕には冬の寒さも執念深く顔を出し、花といっても気の早い梅ややなぎほころび始めるばかりの時節だ。

 それでもここが時ならぬ花々の園たりうるのは、この宮観きゅうかんの主人のために花の女神たる百花ひゃっか仙子せんしが特別に咲かせたからだった。


 石畳いしだたみに降り積もった落花の絨毯じゅうたんたびに強まる暗香あんこうは、清しくもふわりと甘く、ぐ者を巨大な揺籃ゆりかごに揺られるような錯覚さっかくわせる。

 奥から雲のようにたなびく紫霞しかが流れてくれば、そこはもう神仙しんせんの領域だ。


「最後に来たのは数十年前だっけ……」


 やはり、何度訪れても慣れないものは慣れない。

 つい先ほどまで市井しせい喧騒けんそうのなかにいた紅鸞は、見知らぬ地に踏みこんだような居心地の悪さにぶるりと身を震わせる。

 すると、木立こだちのあいだから風神風伯ふうはく眷属けんぞくである風の精があたたかな薫風くんぷうを運び、紅鸞の体を優しく支えた。

 紅鸞の姿を認めると、翡翠ひすいの川でいこっていたつがいの鴛鴦おしどりは小川のせせらぎに唱和しょうわし、音もなく舞う銀蝶も五彩ごさいに輝く鱗粉りんぷんを散らして出迎えてくれる。


 ある日突然、自分宛てに届いた書状によって呼びつけられた紅鸞は、先方の目的もたくらみも何ひとつ知らなかったが、ここに来てようやくわかったことがあった。


 ――とにもかくにも、めちゃくちゃ歓迎されている。


 人の都に忽然こつぜんと現れる仙境せんきょう

 神都の宮観きゅうかんとはおよそそのようなものであり、現世にありながらもこの世とはどこか違う、まるで水珠すいじゅに映る逆さまの世界だ。

 人里に透明の水幕すいまくを張ったのは神々の手であり、そこでは神都の人々によって天地万物をつかさどる存在がまつられている。


 鯉は黄金のうろこきらめかせ、紅鸞を先導する。

 長い尾ひれが宙をすべると、たなびくかすみが糸を引くように連なり、まるで筆で墨絵すみえを描くようだった。

 道しるべをたどって朱塗りの三門をくぐれば、途端とたんに山脈を丸ごと朱で塗りつぶし、金箔きんぱくを貼りつけたような派手な正殿が視界に飛びこんでくる。


 いつ見ても天喜宮てんききゅうは神都屈指くっしの宮観の名に恥じぬ壮麗そうれいさだ。

 さながら皇宮こうきゅうのごとく立派な御殿が三方を囲むようにのきを連ね、かわら屋根の下で石造りの神獣仙禽せんきんが宮観全体を見守るように鎮座ちんざしている。

 中心の庭園では互いにみきからませた二本の大樹が上へ上へと枝を伸ばし、天を穿うがたんばかりだった。

 各々おのおのの枝からは良縁りょうえんの象徴である赤絹あかぎぬが垂れ下がり、人々がそれに向かって祈りを捧げている。


 天喜宮は京城みやこのなかに位置する宮観であり、参拝にやってきた人々でいつもにぎわっていた。

 縁結びの龍仙天喜てんきを祀っているということもあって、特に若人わこうどに人気らしい。

 正殿の前で線香を立てる人々を横目に、紅鸞は宮観の奥へそそくさと歩を進める。


 参拝者たちがみな質素な格好をしているなかで、燃えるように赤い紅鸞の衣装はかなり浮いていた。

 伸び切った髪はまとめられているものの、雑に撫でつけられた癖毛が雛鳥ひなどりの羽根のようにふわふわと宙を舞っている。

 黒目がちの目はくっきりとした杏仁アーモンド型で、顔立ちはあどけないが、きりりと凛々りりしい表情が触れればはじけてしまうような鳳仙花ほうせんかを思わせた。


 長い石のきざはしをのぼるにつれて、人々の姿もぞろぞろと増えていく。

 ここにいる全員が目指す目的地はただひとつ。紅鸞は多くの参拝者が集まる御殿の最奥をにらみつける。

 そこでは、身なりの良い女性三人がある人物を囲み、楽しそうに談笑をしていた。


「ねえ天公てんこう、これを見て!」


 女性のうちのひとりが両の手のひらを開き、隠していたものを見せる。


「裏庭でんできたの。きれいな花でしょう?」

「ええ、とても綺麗な百合ゆりの花ですね。美人、あなたの手のひらのなかで咲く花はより愛らしく見えます」

「でもこのお花、ちょっと形がくずれているわ。庭に捨ててしまいましょう、また新しいのを持って来させるから」

「ふふ、どうやらあなたの可憐かれんさの前ではどんな花も気恥ずかしくてしぼんでしまうようです。せっかくだから捨てるのではなく、花茶を作りましょう。百合の花には火照ほてりをしずめる作用がありますし、きっと見た目も華やかなお茶になりますよ」

「ええ、ずるーい。私もお花を摘んでくるわ! そうしたら私にも作ってくれるわよね、天公?」

「もちろんです。親愛なる美人のためならば」


 彼女たちが嬉々ききとして花を探しに行くと、その人物のもとにはすぐに別の参拝者がやってきて、笑顔で何かを受け取っては大切そうにふところのなかへしまいこんでいく。

 紅鸞は彼の周りに集う人だかりのせいでその場から動けずにいたが、黄金の鯉が人々の頭上を悠々ゆうゆうと泳いで御殿のなかへ入っていった。


 その人物は鯉の姿に気づくと、片手を高くかかげる。

 次の瞬間、彼の手のひらのなかへ飛びこんだ鯉は一通の書状の姿に戻っていた。

 ちょうど数日前に紅鸞のもとに届いたあの案内状である。

 そのとき、急に目の前の人混みが割れたかと思えば、中から一際ひときわ目を引く男が満面の笑みで歩み出てきた。


 目の覚めるような美丈夫びじょうぶだった。

 やわらかな笑みを浮かべる美貌びぼう神韻しんいん縹渺ひょうびょう君子くんし然とした所作と相まって、ともすれば霊妙れいみょうな香気すら立ち上ってくるようである。

 万年雪をまぶしたように白くきめ細かい肌や流れる川のような長髪は女性的ですらあり、老若ろうにゃく男女なんにょを惑わす不思議な色香がある。

 華奢きゃしゃ体躯たいくを包むのは金糸で刺繍ししゅうほどこされた装束しょうぞく

 腰に下げているのは、皓月こうげつの輝きをたたえる宝玉を埋めこんだ同心結どうしんむすび――月下げっか氷仙ひょうせんの証である。


「美人、お待ちしていましたよ。少し見ないうちにまた一段と魅力的になって……ほら、こちらへ。もっとよくあなたの顔を見せてください」


 世の女が聞けば卒倒そっとうしてしまいそうな甘い言葉だが、残念ながらこの手の美には慣れきっている彼女に効くはずもなく、紅鸞は差し伸ばされた手を容赦ようしゃなくはたき落とした。


「あなたは何ひとつ変わってないわね。顔も、性格も、その浮ついた態度も!」

「おやおや、手厳しいですね」

「さっきのは貴族のご令嬢でしょ? あんな風に近づいてくるやからには気をつけなさいっていつも言ってるじゃない。何かたくらんでいたらどうするのよ」

「そういうところは美人も相変わらずですね。心配してくれるのは嬉しいですが、僕は参拝者のみなさんにお守りを配っていただけですよ。それに、彼女たちは清らかな心の持ち主です……ただ、ほんの少しわがままなだけで。そうだ、美人にもひとつ差し上げます、僕のとっておきのうろこ入り」

「い、いらないってば……私だってあなたと同じ神仙なのよ」


 一度は押し返したが、男は手作りの小さな巾着きんちゃくを無理やり紅鸞のふところにねじこむと、満足そうにふわりと笑んだ。


 この人たらしの好色軽薄男は、人呼んで白皙はくせき柳眉りゅうびの天喜公子こうし

 天喜宮の主人こと縁結びの龍仙天喜であり、由緒ゆいしょある龍族の末子まっしであり、紅鸞の幼馴染おさななじみであった。

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