第2話 アスセナ、婚約破棄される
「アスセナ。君との婚約は破棄させてもらうよ」
冷たく言い放ったのはホアン・アンバル。
国王の長男でこの国の王位継承者だ。
希有な金色の髪は正統なるアンバル王家の血を引くあかし。黙っていれば美形の部類に入るホアンだが、むくれた顔には幼さが残る。
「ホアン様……」
突然の婚約破棄を告げてきたホアンを、アスセナは驚きに固まりながらも気丈に見返した。
「……理由をお聞かせください」
まっすぐに伸びたアスセナの背に、月光を
やはり父に似た色の瞳はつぶらで美しく、ラピスラズリのきらめきを連想させる。
濁りのない透き通った視線を向けられて、ホアンはいじけたようにそっぽを向いた。
「だって君は全然僕を立ててくれないじゃないか!」
「え……?」
アスセナは絶句した。
「君は確かに少しばかり優秀かもしれないけれど、僕をさしおいて目立とうとするのはよくないよ」
「さしおいて……? 目立とうと……?」
困惑するアスセナの前に、ホアンは先日行われた試験の結果を突きつけた。
記された数字は、すべての科目においてアスセナの方が高い成績を修めていることを示している。
ホアンは忌々しそうに結果の紙を投げ捨てた。
「婚約者よりもいい点数を取るなんてどうかと思うよ。そんなことも配慮できないなんて本当に冷たいんだな。君はやはりあの"氷の参謀"の娘なんだね」
"氷の参謀"とはアスセナの父ラウルの異名である。
頭脳明晰で冷静沈着なラウルは、いつしか"氷の参謀"とあだ名されるようになっていた。
ホアンはアスセナが父のように、自身の有能さを鼻にかけ、知識をひけらかしていると非難した。
「僕の面目が丸潰れだ。思いやりのない君には失望した!」
さらにホアンが指摘したのは先日、国王の名代で他国からの使節団を接遇した際のことだった。
相手国のことをろくに勉強していなかったホアンが、質問にまともに答えられずにいたのを見かねて、アスセナが助け舟を出した。
事前に相手の文化を学んでいたアスセナは、言語まで
ホアンは「素晴らしい婚約者をお持ちでお幸せですね」と絶賛され、王国の体面は無事に保たれた。
……が、ホアンは密かに不満を抱いていたらしい。
「君の節度のないふるまいにはがっかりだ。僕よりも前に出ようとする婚約者なんて、もういらないよ」
「……」
身勝手な言い分に、アスセナはあ然とした。
ホアンは国王と王妃の唯一の子だ。結婚後なかなか子宝に恵まれなかった国王と王妃は、遅くに授かったホアンを溺愛している。
甘やかされて育ったホアンは、幼い頃は無邪気で愛らしい子供だったが、成長するに従ってわがままな面が目立つようになってきた。
アスセナを一目で気に入り、どうしても婚約したいと駄々をこねたのもホアンだ。
国王は愛息子の願いを受けて、ラウルを説き伏せ、アスセナを王子の婚約者に据えた。
国王はホアンのほしがるものは何でも与え、嫌がることは無理強いしなかったが、アスセナにはホアンを補佐すべく厳しい妃教育を完璧に修めることを求めた。
国王いわく「男はどんと大きく構えていればいいのだ! 足りない点は妃が支えればよかろう!」とのこと。
それほど強くアスセナを望んでおきながら、ホアンは今、飽きたおもちゃを捨てるかのように「もういらない」と突き放そうとしている。
アスセナは内心あきれながら、ホアンに向き合った。
「ホアン様。私たちの婚約は正式な手続きを経て王家とレジェス家の間に結ばれたもの。国王陛下や父に相談なく、ホアン様の独断で破棄なさって本当によろしいのですね」
「僕が嫌だと言ったら嫌なんだ! 僕は父上に叱られたことなんてない。僕の願いなら何でも聞いてくれるに決まってる!」
ホアンは断言し、アスセナは小さく息をついた。
「わかりました。婚約破棄を受け入れます」
「……は? 本当にいいのか!?」
アスセナが了承すると、ホアンはなぜか焦り出す。
「謝罪するなら今のうちだぞ! 二度と僕を蔑ろにしないと約束するなら許してやってもい……」
「いいえ、結構です」
アスセナは断言し、静かにうつむいた。
(……お父様に何と言えば……)
アスセナは早くに母のリリアナを亡くし、父一人子一人で暮らしてきた。
父は冷血と言われているが、実際はとても優しい人だ。一人娘のアスセナを育てるため、寝る間も惜しんで職務に励んでくれている。
だからアスセナも父の期待に応えたくて、厳しい妃教育に耐えてきたのだ。自分が評価されることで、大好きな父が褒められるのが嬉しかった。
それなのにその努力の結果、かえってホアンの不興を買ってしまったのだから、父に会わせる顔がないと思ってしまう。
ホアンに恋をしていたわけではない。だから彼との結婚が白紙になることはかまわない。
けれど父が積み重ねてきたものを、娘の自分が台無しにしてしまうことに胸が痛んだ。
(ごめんなさい……お父様……!)
潤んだ目元に涙が溜まり、"
まるで大輪の花が澄んだ白露を乗せているかのようで、ホアンはごくりと生唾を飲んだ。
「へぇ……アスセナはそんなに僕との婚約破棄が辛いんだ?」
「?」
「やっぱり王子妃の地位に未練があるんだね。物欲しそうな顔をして。僕を誘っているんだろう?」
言いがかりのような発言に、アスセナは瞳を見開いた。
アスセナは父を落胆させるのが悲しくて憂いていただけだ。王子妃の座に未練はないし、ホアンを誘ったつもりなんて一切ない。
「お高くとまっている君は鼻につくけど、気落ちしている君は可愛いな」
いつも凛としているアスセナが、自分に振られて悲しんでいる。
ホアンはそう勘違いし、すっかり悦に入っているようだった。
「君がそれほど僕に恋い焦がれているのなら、最後の思い出を作ってあげてもいいけど?」
「やめてください!」
伸びてきたホアンの手を、アスセナはとっさに振り払った。
「婚約を破棄するとおっしゃったのはホアン様ではありませんか! 私たちはもう婚約者ではありません!」
「そんなに意地を張らないで。素直になっていいよ」
話が通じない。
アスセナを見るホアンの目は、支配欲と背徳感に酔っている。
思わずゾッとした瞬間、アスセナは細い手首を乱暴につかまれた。
「きゃっ!」
ホアンはそれほど筋肉質な方ではないが、それでも男女の筋力には明確な差がある。
「いや……いやです! やめて……!」
必死にあげる拒否の声が、むなしく虚空を素通りしていく。
黒檀の扉が、重たい音を立てて閉ざされた。
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