第8話 血を喰らう王

その音には、どこか“ズレ”があった。

機械のように正確でいながら、人間の歩みのリズムとは違っていた。音が近づくにつれて、空気が重くなる。湿って、圧迫されるような感覚が、肌にまとわりついてくる。


「やばい、隠れた方がよくないか?」


達臣が一歩下がる。

だが通路には脇道がなく、引き返すにはもう遅すぎた。


そのとき、壁に取り付けられていた監視モニターが、一斉に点灯した。

ノイズまじりの画面に、目のようなものが浮かび上がる。数え切れない数の、無機質な瞳。

まるで、誰かの“代わり”がこちらを監視しているようだった。


「“彼”の影。」


アイの声が、かすかに震えていた。

モニターが、一つずつ爆ぜていく。音が消え、空気がしんと静まり返る。

世界の音が、まるごと抜き取られたような静寂だった。

そして、通路の先。

闇の向こうに、人の形をした“何か”が立っていた。

だが、それは光を吸っていた。そこに立つはずの“何か”の輪郭だけが、黒く、異様に沈み込んで見える。

真生は、ごくりと喉を鳴らした。

何かが始まる。

それだけは、確かにわかった。

アイがぴたりと止まり、無言で後ろの二人に手を伸ばして制止する。

緊張が一気に張りつめ、通路の温度が下がったような気さえした。


数秒後——


姿を現したのは、ひとりの男だった。

黒いコートに身を包み、整った髪と顔立ち。まるで映画から抜け出たような風貌。

その瞳は澄んでいて、笑顔はどこまでも穏やかだった。


——だが、その穏やかさこそが恐ろしかった。


「これから何処へ行くのかな?」


柔らかな口調で、男はそう言った。

真生と達臣は本能的に身構える。

アイだけが、冷たい目をして一歩前に出た。


「……“1”」


彼女の声は硬く、そして低かった。


「やあ、アイ。君の選択を見に来たんだ。」


その一言で、空気が一変する。

男は“1”——つまり、Re:Routeの支配者だった。

達臣の顔色が変わる。


「おい、こいつが……?」


「黙ってて。」


アイが遮る。


「彼は……“聞いてる”。」


真生の背に冷たい汗が伝った。


「君たちを咎めに来たわけじゃないよ。」


1は歩みを止め、両手を軽く広げてみせた。


「ただ、話をしたかっただけなんだ。アイ、君がここから彼らを連れ出す理由を知りたい。」


「……彼らが“家畜”じゃないと、知ったから。」


アイの声に揺らぎはない。


「家畜?」


「君たちも牛や豚を育てて食べるだろう?それと一緒さ。」


その声は、あまりに穏やかだった。まるで優しく語りかけるような、日常の延長にある言葉のように。

だが、その意味は——あまりにも異常だった。

真生は、息を呑んだ。冷たいものが背筋を駆け上がる。自分たち人間が、“それと一緒”にされた。飼育され、加工され、消費される存在として。

隣にいた達臣も、顔をひきつらせていた。唇がわずかに震え、言葉にならない声が喉奥でくすぶっている。


「君たちは、なぜ人間を特別視する?」


真生の問いかけに、1はゆっくりと口元を歪める。

その声は深く、まるで何重にも重なった声のようだった。


「君たちが“命”と呼ぶものは、ただの消耗品にすぎない。

人間は、短く、脆く、愚かで、進歩もない。

そして何より――自分たちが“上に立っている”と信じている」


1は手を広げた。


「だが、見てみろ。彼らは、自ら差し出した。安定を、保証を、無痛の生を。自分の意志を捨て、快適な檻の中で、満たされることを選んだ。」


壁の一部が透明になり、眠るように静かに浮かぶ供血者たちの姿が映し出された。

「我々が与えるのは“循環”だ。血を取り、命を再構成し、苦痛なく保たせる。農場で牛を育てるのと、何が違う?」


真生が拳を握る。


「……違う。俺たちは、物じゃない。感情があって、選ぶ力がある!」


「家畜も痛みに反応し、恐怖を覚える。だがそれが“意志”とは呼ばれないのと同じだ。君たちの“選択”は幻だ。少し環境を整えれば、人間は喜んで枷を抱く。自ら望んで“飼われる”。」


その声には怒りも嘲りもなかった。ただ、純粋な事実のように語られていた。


「君たちも肉を食べ、命を利用して生きているだろう?それを“仕方ない”と呼ぶ。ならば、我々の行為も同じだ。上位存在が下位の命を利用する――それは、世界の構造そのものだ。」


沈黙が落ちる。


真生は唇を噛んだまま、目を逸らさない。

その隣で、アイが小さく呟いた。


「でも、それを壊すことが“意志”なのよ。

自分が傷ついても、誰かを守ろうとすることが、私たちの違いよ。」


1の瞳が、わずかに細められる。


「それが、愚かだと言っている。」


「……っ冗談じゃねえ。」


ようやく絞り出された達臣の声は、かすれていた。怒りか、恐怖か、それとも両方か。

真生は肩を強張らせながら、目の前の存在を睨んだ。その姿は人に似ていて、言葉も通じる。けれど、その内側にあるものは——根本から違う。


「食べる……ために、育てる……?」


震える声で呟いた自分自身の言葉に、吐き気がこみ上げてくる。血が凍るという言葉の意味を、今初めて実感した。

その時、ふと、1の口元が笑ったように見えた。静かで、冷たくて、感情の色を持たない、悪意ですらない微笑。

だからこそ、恐ろしかった。

そして1は、アイにまるで父親のように微笑む。


「感情が育っているのは、良い兆候だ。だが感情は、時に愚かな選択を生む。」


「あなたはずっとそうやって、私たちの判断を否定してきた。」


「私は否定しているわけじゃない。ただ、“制御”しようとしているだけさ。暴走しないように、君のような存在が悲しみで壊れないように。」


その声はやさしく、理知的だった。

だからこそ、恐ろしかった。


「君は人間だ。」


真生が、無意識に言葉を投げた。


アイの肩がわずかに震えた。


「私は怪物よ。」


彼女は呟いた。


「人を殺せるように“作られた”。”1”に。……私はあなたたちとは違う。」


「……それでも、俺の目には、君は“人間”だ。」


真生は強く、言葉にする。


「もし君が“怪物”なら、こんなにも俺たちのために……!」


”1”はゆっくりと首をかしげた。

その瞬間、警告音が鳴り響いた。

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