経過録 五日目
あー、あー、録音機能も治ったな。データは......バッチリ保存できているみたいだ。やっと修理が終わったぞ。キニアンの奴、無茶してくれるぜ。
チャリがまだ気を失ったままだから、この状態も撮っておかないとな。かれこれ一晩中気絶してやがる。
俺達は今、川沿いにある廃墟の中にいる。あれから流された俺達は、なんとか桟橋まで泳いできた。俺とキニアンはな。チャリの奴、泳ぎ方まで忘れてやがったんだ。曲がりなりにも俺はネズミだ。泳ぎだけは得意でよかったぜ。たんまり水を飲んだチャリは、この通りぶっ倒れているわけだ。
「アル、あなたも休んだ方がいいわよ」
キニアンが俺に毛布をかける。廃墟にあった湿気った毛布だ。贅沢は言わないが、俺はドブネズミじゃない。毛布が触れるだけで毛が逆立つ。
「アンタこそ、夜更かしは肌に悪いぜ」
俺は毛布をどかして、チャリの額に手を当てる。酷く熱いデコだ。チャリの表情もくしゃくしゃになった紙クズみたいだ。脂汗が頬に浮き上がる。時々うなされたように、声にならない声を出す。
「心配なのね、彼の事」
キニアンがハンカチを取り出し、チャリの汗を拭う。洗剤で花の香りを無理矢理再現したような、気分が悪くなる匂いがした。
「チャリの奴、一気に記憶が戻ったようだったぞ」
「あれだけ脳が活性化すれば、気絶したくもなるはずよ」
キニアンはチャリの額の縫い目をなぞる。あいつが手術の様子を思い出したら、それこそ永遠に気絶していたくなるだろうな。
「よく言うぜ。アンタも俺達がおかしくなっていく様子を観察してたんだろう」
俺の言葉に、キニアンは少しの間黙る。図星みたいだな。アイツは手術の時いつもジェマーと一緒にいた。ジェマーといる時は一言も話さず、機械のように淡々と命じられた作業をこなして、手術が終わった後には明るい表情で俺達の様子を観察する。それに気づかない程俺も馬鹿じゃない。
「そうよ、あの時の私は何も知らなかったわ。私はあなた達があの手術で、知能が向上するとしか思っていなかった」
キニアンは神妙な口調で語る。アンタが何を思っても、俺達が迷惑を被ったのは変わりない。俺は別に、天才的な頭脳も、人間並の能力もいらなかった。ただ、自由に暮らしたかっただけだ。
「でも、急速な知能の向上に、心が追いつくはずがなかった。ジェマーは感情を持ったあなた達を失敗とみなして処分するつもりなのよ」
「それでアンタは、今まで大切に面倒を見てきた俺達を手放したくないから、付き纏っているってことか」
毒づく俺に、キニアンはきまりが悪そうな顔をする。
「何とでも言いなさい」
キニアンはベッドに寄りかかる。雨上がりのような冷たい風が、ガラ空きの窓から吹き抜けた。チャリは身震いをして、小さくうずくまる。
チャリ、お前は今どんな夢を見ているんだろうな。研究所にいた頃の夢か? それとも俺も知らないお前自身の夢か?
朝日が窓から差し込む。温かい光に照らされて、チャリはゆっくりと目を開けた。
「アル、キニアン。僕、助かったの?」
弱々しい口調のチャリ。キニアンはチャリの手を取る。ゴツい手のチャリだが、この時ばかりは小さく感じた。
「もう大丈夫よ、チャリ。アイツらはいないわ」
キニアンはチャリの頬を撫でる。チャリはうっとりした表情で、キニアンの手を取った。
「ありがとう。キニアンはいつもこうやって手術の後、僕を安心させてくれたよね」
チャリは両手でキニアンの手を握る。虚ろなチャリの瞳に柔らかい光が差す。木炭みたいな黒い瞳はキニアンの姿を薄らと映していた。アイツの目は聖母みたいなキニアンしか映らないみたいだ。
「でも、これからどうしよう?」
「町を探しましょう。そんなには流されていないはずよ」
キニアンは廃墟の棚やらタンスやらを漁る。どんなコソ泥も、こんなボロ屋で盗みを働こうとは思わないだろうよ。ライター、リュック、懐中電灯、数着の服。キニアンは使えそうな物はありったけ持って来た。
「ここの家主は、いい服の趣味してるぜ」
俺は濡れた革ジャンを脱いで、ワインレッドのパーカーを拝借した。顔が隠れるのは都合が良い。古着の割にはタンスの木の匂いしかしないしな。チャリも興味津々に、服の品定めをしていた。
「僕はこれにしよっかな」
チャリはボロボロのズボンを脱いで、デニムのオーバーオールを着る。頭の縫い目が見えなければ、作業中の配管工だな。キニアンは自分の分の服を集め終えると、ジャケットのボタンを外す。目の前で起きている状況を、チャリはぼんやりと見ている。キニアンがジャケットを脱いだ瞬間に、俺はチャリの目を両手で覆った。
「何するんだよ、アル」
チャリは俺の手を退けようとするが、俺は指一本退かさない。
「ふしだらな女だな。ジェマーの前でもそうするのか?」
「あら、あなた達だけよ。秘密を共有できるのは」
大胆に服を脱ぎ捨てるキニアン。俺も顔を背けた。そんなチンケな秘密なんか共有したくねぇ。ただのネズミの時は、そんな事気にもしなかったのにな。人間並みの知能は厄介なもんだよ。人間の筈のチャリは気付いてないけどな。俺達はキニアンの着替えが終わるまで、メデューサの目を見まいとするように顔を背けていた。
廃墟を後にして、俺達はあてもなく道路を歩く。車一台通らない道路は、砂に塗れていた。昼の強い日差しが、遮る物のない俺達を焦がす。こういう時に人間が羨ましいと思う。毛が頭にしか生えていないからな。
「アンタはこれからどうするんだ? 車も壊れた。もう俺達に着いて行く理由はないだろう」
俺の言葉に、キニアンはチャリを見る。この女は車を壊してまで他人の逃走劇に加担する程、お人好しじゃないはずだ。
「え、キニアンとはお別れなの?」
「水臭いわね。車一台ダメにしてまで着いてきたのよ。最後までお供するわ」
キニアンの返答に、チャリは子供のようにはしゃぐ。ああ、やっぱりチャリはキニアンが必要なんだな。ネズミの俺なんかより、人間の女の方がいいもんな。チャリの記憶が戻ると同時に、俺とチャリは遠くなるような気がした。キニアンと会ってから、チャリは俺には向けた事がない顔をしている。
「アル、どうしたの? 浮かない顔をして」
チャリが俺の顔を覗き込む。そうだ、アイツが俺に向ける顔は、何も知らない無邪気な顔だ。キニアンにはそんな顔をしない癖に。
「……なんでもない」
無意識に語気が強くなる。チャリは何が何だか分からず、眉を顰めた。遠くから汽笛の音が聞こえる。汽笛の方角を見ると、荒野を横断する一本の線路が引かれていた。線路は地平線の彼方へと伸びている。
「駅が近いようね。行きましょう」
キニアンは疲れた顔で、俺達に笑いかける。チャリは希望を見出したかのように、軽やかな足取りで歩き出す。俺も気を取り直して、歩を進め始めた。
俺は一体どうしちまったんだ。人間の一挙動一挙動が嫌に気になる。ネズミの時にはどうでも良かったことなのに。あの実験で俺も、少しずつ変わってきているのか? 望まない変化が、徐々に俺を蝕んでいた。
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