ナロウ・サーガ ~道行く者の物語~

大河井あき

道行く者の章

第1話:道行く者の転生

「――この俺が、転生をぶっつぶす!」

 心の底から噴出した怒号。

 爪跡のような細い月は、掲げられた刃のない剣・・・・・を空高くから嘲笑あざわらっている。しかし、その切っ先は確かに、神の喉元へ向いていた。

 墓前での宣言。これが転生者である彼にとって本当の、新たな人生の始まりとなった。



 秦名はたな仁義じんぎがこの世界で初めて聞いたのは、はちきれんばかりの歓声だった。

 ぬるい風が吹く仄暗ほのぐらい森の中、目を覚まして半身を起こすと同時に起こった喧騒けんそうは狂喜と呼べる異様さで、眠気を瞬く間に吹き飛ばし、しばしの混乱をもたらしたあと、やがて身をすくませる恐怖を引き起こした。

 何だ。何なんだ。何を喜んでいるんだ。

 鼓動とは音ではなく、心臓が膨んでは縮むことを繰り返して生じる衝撃である。彼は引きつるように痛む胸をぎゅっと握りしめて、灰色の衣服たちを見た。

 ある者には角があった。ある者には牙があった。あるものには鱗が、あるものにはしっぽが、あるものにはとがった爪が……。

「お水要りますか」

 ふいに後ろから耳に入ったうつろな声に身体からだがびくりとする。

 おそるおそる振り返ると、筒状の木器を持って正座している女の子と目が合った。おかっぱ頭やもち肌はさなぎから羽化したばかりのような白さで、瞳は紅玉の色をしているがくすんでいる。冬のエノコログサに似た眉も、ミミズの赤ん坊のような唇も眠っているかのように静かで、表情を読み取れない。

 それでも、秦名は少しだけ安堵あんどすることができた。彼女が普通の人の姿をしていたからだ。

「お水、要りますか」

 秦名が無言のままだったので聞き取れなかったと思ったのだろう。彼女は口調をゆっくりにして再度問うた。それでようやく、彼は喉から唇までからからであることや、かすかに漢方薬のような苦みが舌にあることに気付いた。

「ありがとう」

 飢えた舌を制して礼を述べ、木器に触れようとした。

 瞬間、強い静電気のような拒絶感が走った。

 ――何か異物が入っている可能性はないだろうか。

 普段はそこまで神経質ではないはずなのに。そう思いながらも周囲を見渡してみる。仮装にしても独特な風貌ふうぼうをしている得体のしれない者たちは未だに我を忘れていて、自身に向いている視線はない。少女の顔をうかがってみる。ピクリともしない無表情。少なくとも悪意は浮かんでいない。

「どうかされましたか」

「いや、何でもない」

 慎重に水差しを受け取って中身に目線を移す。清い透明が揺らいでいる。臭いもない。よだれが垂れそうになる渇望がどっと湧き、耐えられず、まずは試しだ、試し、と言い聞かせながら、一口飲んだ。

 うまい……。

 二口目を飲んだ。

 うまい!

 口が残りを一気にごくごくと取り込んでいく。かーっと、甲高い息が思わず出る。生き返った心地。冷たい刺激が身体に沁みて活力を与えていくのが分かる。

 しかし同時に、ごちゃごちゃになっていた頭の中がするすると整理されていくにつれて、違和感だったものが鮮明になっていった。

 水飲みを持つ自身の手に目を向ける。石膏せっこうの色をしているが大きく武骨だ。手のひらはつぶれて固まったまめだらけで、木器の手触りは凸凹でこぼこに伝わってくる。毛先が肩につく髪をつまんで見てみると、灰を被ったような色合いをしている。黒い外套がいとうを脱いで肌着をめくるとがっちりとした腹筋があった。意識してみれば背や下半身にも二回りくらい大きな筋肉があることを感じ取れる。加えて、あちこちを見回す内に、裸眼のときより、いや、眼鏡めがねがあったとき以上に視界がくっきりとしていて、木々の陰に潜む小さな獣や樹皮や地上に群がる虫の姿まで見て取れることにも気づいた。

 これは、自分じゃない。自分じゃないならなんだ。他人だ。いや、それでも自分だ。確かに自分なんだ。だからこそ、身体が違うんだと分かるんじゃないか。

 秦名は自身を取り戻そうとするかのように額に手を当てて、目覚める前を思い返した。



 元々いたのは、消毒薬の臭いでむせかえる病室。

 目を開けることはおろか、身体を動かすこともできなかった。

 夜、大学受験に向けた勉強の休憩で散歩中に信号無視で逃走していた盗難車にかれたのだということは、母親の最初の面会で知った。

 二週間前の初詣で交通安全のお守りを買っていればよかったなどとは思わなかった。合格祈願のお守りさえ買わなかったのだから。

 代わりに湧いたのは、どうして自分がそんな理不尽に巻き込まれたのだろうかという怒りに近い疑問。

 確かに、自分は頑固だった。読むべき空気というのを副流煙のごとく嫌っていた。

 輪を乱すと分かっていても、義に背く意見には毅然たる態度で反駁はんばくした。特に、集団でこそこそと陰口を叩いたり、示し合わせて気に食わない者へ無視を貫いたり、大人の目のないところでか弱き者へここぞとばかりに誹謗中傷を連ねる輩たちには容赦しなかった。拳で訴えるべきと判断すれば喧嘩をすることさえいとわなかったほどだ。

 そういうことをしょっちゅうしていたから、神様などという安寧を愛するくせに不条理には鈍感な不届き者にけられてしまったとでもいうのだろうか。人道のど真ん中を歩いてきたと確信している自分が、よりによって罪に罪を重ねた非道の者によって満身創痍まんしんそういとなったのだから。

 ベッドの上で、時折走る激痛より大きいもどかしさにさいなまれながら、心身ともに憔悴しょうすいしていく日々が続いていた。

 それでも、生きていたいという意志は間違いなくあった。目を覚まし、身体を起こして、心配させたことを母に謝って、徐々にリハビリを行って、やがて普通の暮らしに戻る。そういう夢があったのだ。不条理の雁字搦がんじがらめをぶち破り、神様に一泡吹かせてやろうと闘志を燃やしていたはずなのだ。

 しかし、叶わなかった。意志が消えたわけではない。闘志が絶えたわけでもない。ふと、突然に糸がプツリと切れた感覚があって、――死んだのだ。

 だとしたら、何者だというのだろうか。本人でも他人でもないこの自分は。

 まるでその疑問に答えるかのように、彼女は淡々と告げた。


「お目覚めはいかがでしょうか、――転生者様」

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