正しい人たちの国で、間違えた
天上天下全我独尊
プロローグ:マーケター
「“不安”がいちばん金になる。忘れないで」
そう教えてくれたのは、大学を出て最初に入った会社の部長だった。
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かつて沙月は、都内の巨大広告代理店に勤めていた。
社員数およそ3000人。社名を聞けば誰もが知っている。
その中で、彼女は若くして「戦略マーケティング課」に抜擢された。
ポジションは主任。年収は30代前半で700万円台。
高級ブランドのオフィスバッグ、六本木のタワマン、イソップの香水。
「仕事ができる女」の記号を、彼女は正しく身にまとっていた。
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沙月がマーケティング部に配属されてまだ数ヶ月のころ。
新製品の販促プランをまとめた資料を提出したとき、赤ペンでびっしりと添削されて返ってきた。
「“お得”は限界がある。でも“損したくない”って気持ちは、天井知らずなんだよ」
そのときはまだピンと来なかった。けれど、彼女はすぐに理解した。
人は「得する」ためより、「損しない」ために金を使う。
何かが怖いと感じたとき、備えがないと不安を感じたとき、人は財布のひもを緩める。
そして、その感情を操作するのが、沙月の“仕事”になった。そう理解できたとき、沙月はマーケターとして一段階、上に行った。
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彼女は優秀だった。
大学は都内の中堅私大、学歴だけで言えばエリートではない。
でも、人の感情に敏感だった。
クラスでも、バイト先でも、友人グループでも、他人の表情や言葉の温度から、次に来る感情の波を先回りして読む癖がついていた。
「空気を読む」なんていう生ぬるい言葉では足りなかった。
“感情をつかむ”ことが、彼女の武器だった。
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担当していたのは、「生活改善」「老化対策」「防災グッズ」。
一見すれば、人々の生活に寄り添う商品ばかり。
だが沙月の仕事は、“売るために、不安を作る”ことだった。
30代からの女性向け基礎化粧品。
「老け顔が職場で浮いているかも」
「会議室の蛍光灯が、あなたの年齢を暴いている」
──そんな広告文を作る。
「加齢による肌変化」に不安を持たせるキャッチコピー、
本当はそんなに深刻じゃない悩みに、「これは放置できない」と思わせること。
不安に名前をつけ、SNSで拡散する。影響力のあるインフルエンサーに「気にしてます」と言わせる。
インフルエンサーによる「年齢に見えない素肌アピール」は、「“老けたくない”と“人に言えない”女性たち」の不安を煽ることで、爆発的に売れた。
ターゲットの属性は明確だった。
都市部で働く、独身女性。
年収は400万前後、コスメは買えるけどエステは無理。
自分に自信があるわけじゃないけど、「努力しなきゃ」と思っている。
そういう“真面目で優しい人たち”を狙うのが、沙月の得意分野だった。
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別の案件では、災害用の非常食キットを担当。
テーマは「家庭の危機管理能力」。
沙月はプレゼンでこう言った。
「震災や台風でライフラインが止まったとき、子どもに“お腹すいた”って泣かれたら、どうしますか?」
「もしもの時、あなただけが何も持っていなかったら?」
会議室の誰もが息を呑んだ。
子どもを持つ社員たちは、無言でうなずいた。
「買っておく人は、家族を守る覚悟がある人。買わない人は、子どもに泣かれてから後悔する人です」
CMでは、このセリフを少しマイルドにしたナレーションが流れた。
「脅しすぎじゃない?」と社内の反対もあった。
でも、効果は数字が証明した。
キャンペーンは大成功。地方の主婦層にまで購買が広がり、スーパーの棚から非常食が消え、前年比300%の売上増。
関連商品のメーカーは株価を上げた。
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“マーケター芹沢沙月”
社内報では何度も名前が出た。
若手の星、感情マーケのエース。
実家も誇らしげだったし、大学時代の友人からは
「広告の仕事ってかっこいいよね」
「沙月、すごい人になったね」
とメッセージが届いた。
沙月は、自分が「人を動かす力を持っている」と自覚していた。
それは小さな万能感だった。
たとえば街を歩いていて、自分が仕掛けた広告を見た人がふと立ち止まる。
スマホで検索する。
買うかどうかは別として、その行動すら、彼女の仕事の成果だった。
“不安を売って、生きていた。”
それが、かつての彼女だった。
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けれど、彼女は一度も自分の仕事を“かっこいい”と思ったことがなかった。
誰かの不安をかき集め、それを商品に変えて、満足する顔の裏でさらに不安を作る。
その繰り返しだった。
「だって、これが仕事だから」
そう自分に言い聞かせる毎日だった。
夜、オフィスの窓から見下ろす都会の光。
終電を逃して歩く人、タクシーを探す人、缶コーヒー片手に残業するサラリーマン。
それら全てが、彼女のマーケティングの対象であり、仕組みの中で生きる「消費者」だった。
“私は、正しい側にいる。”
沙月はずっと、そう思っていた。
少なくとも──
自分がその仕組みから、落とされるまでは。
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やがて母親が病気になった。
地方の実家に呼び戻された。
「長女だから」という古くさい理由で、介護の責任が集中した。
会社には在宅勤務を願い出たが、マーケティングは現場主義だった。
プロジェクトが回らなくなり、役職は降格。
退職を選んだ。母の病状は悪化していった。
病院代、介護用品、交通費。どれも高かった。
少しずつ貯金が減っていき、再就職の道も閉ざされていった。
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そして、母が亡くなった時には、
沙月の手元に残ったものは、
わずかな現金と、引き払ったアパートの退去届だけだった。
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そこからの転落は、早かった。
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友人に連絡しても、誰も返事をくれなかった。
「忙しいから、また今度」
「最近連絡なくてごめんね」
どの言葉も、彼女が“下に落ちた”ことを理解していた。
社会のルールは、そういうふうにできている。
下に落ちた人間には、誰も手を伸ばさない。
なぜなら、「自分も落ちるかもしれない」と思うから。
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雨の夜。
段ボールの隙間に体を押し込んで眠るようになったのは、その半年後だった。
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