ナトランティスの秘宝 ~フリマで手に入れたのは世界を変える鍵でした~

オテテヤワラカカニ(KEINO)

第一章

第1話

 人という生き物は、実に多様な情熱を胸に秘めている。

 それは時に、履歴書の片隅に追いやられる「特技・趣味」という簡素な文字列に集約されることもある。


 その実、個人の人生を彩る重要な要素であることに疑いの余地はない。


 ある者はインクの匂いと紙の感触を求めて読書に没頭し、そのページをめくる音に心を落ち着かせる。


 またある者は、きらびやかなショーウィンドウの光に誘われ、新しい服や靴を手に取り、鏡の前で高揚感に浸りながらショッピングに心を躍らせる。


 あるいは、アスファルトを蹴るリズミカルな音と共に、肺を満たす新鮮な空気を感じながらランニングで汗を流す者もいれば、見知らぬ土地の匂いや喧騒、未知の風景を五感で味わい尽くそうと旅に出る者もいる。


 まさに千差万別、人の数だけ趣味の形は存在し、それぞれがその人にとってかけがえのない時間なのだ。


 俺、日下部仁、十九歳、彼女なし、しがない大学生。


 そんな俺の場合、その情熱はフリーマーケット巡り、とりわけ埃と人々の喧騒の中から価値ある「掘り出し物」を見つけ出し、それを自分のコレクションに加えることに注がれていた。


 それは、まるで時の中に埋もれた誰かの記憶や物語を、自分の手で再び現代に蘇らせるような感覚。


 あるいは、砂漠の中から一粒のダイヤを探し当てるような、あの独特の高揚感がたまらなく好きなのだ。


 初めて手にしたガラクタ同然の古時計が、家に帰って磨き上げると息を吹き返したように動き出した時の感動は、今でも鮮明に覚えている。


 かつて「蚤の市」や「ガラクタ市」と呼ばれていたそれらは、古道具屋が軒を連ねたり、神社の境内や公園といった野外で、週末になると決まって催されることが多かった。


 そこには、年代物の家具や食器、古着、古本、おもちゃ、そして時には本当に「これは何に使うんだ?」と首を傾げたくなるような正体不明の品々が、所狭しと並べられていた。


 しかし、時代の移り変わりと共に、若者やファミリー層を取り込むべく、インターネット上のフリーマーケットが隆盛を極めるようになった。


 指先一つで、ベッドに寝転がりながらでも膨大な商品群にアクセスできる手軽さは確かに魅力的だ。


 雨の日も風の日も関係ない。


 だが、俺の心を満たすには、何かが決定的に足りなかった。


 それは、あの独特の空気感、人と人との直接的な触れ合い、そして何よりも、自分の五感を総動員して「宝」を探し出すという原始的な興奮だった。


 俺が愛してやまないのは、やはり昔ながらの、様々な個性を持つ出品者たちが一堂に会し、猥雑なまでの活気に満ちたフリーマーケットなのだ。


 品物を直接その目で吟味し、指で触れ、時には値札の裏に隠された物語を想像する。


 出品者との何気ない会話の中から、その品物の来歴や価値を知ることもある。


 そして、ガラクタの山の中から、ふと自分の琴線に触れる何かを見つけ出した時の、あの胸のときめき。


 まさに、現代に許された数少ない冒険の一つ、宝探しのような感覚。


 その過程こそが、俺にとっては何物にも代えがたい魅力なのだ。


 幸いなことに、俺の住む街、少し古びたアパートが立ち並ぶこの界隈では、毎月第三土曜日に近所の古刹、龍泉寺へと続く石畳の参道でフリーマーケットが開催される習わしがあった。


 龍泉寺は、創建千年を超えると言われる古寺で、苔むした石段や、風雪に耐えてきた風格ある山門が、訪れる者を厳かな気持ちにさせる。


 そんな歴史ある場所で開かれるフリマは、どこかノスタルジックな雰囲気が漂い、俺のお気に入りの場所の一つだった。


 物心ついた頃から、祖父に手を引かれて訪れていたこの催しは、俺にとって月一度のささやかな、しかし何よりも待ち遠しい楽しみとなっていた。


 梅雨入り前の少し湿り気を帯びた生暖かい風が頬を撫でる土曜の朝、俺はくたびれたジャージに、袖口のゴムが伸びきったウィンドブレーカーという、およそ洒落っ気のない格好で家を出た。


 別にデートでもないのだから、着飾る必要など微塵も感じない。

 むしろ、動きやすく、汚れても気にならない服装こそが、フリーマーケット巡りの正装とすら思っていた。


 財布とスマホ、そして折り畳みのエコバッグをジーンズの尻ポケットに突っ込み、俺は龍泉寺へと続く坂道を、鼻歌交じりで登っていった。



 ---



 参道の入り口に近づくにつれ、人々のざわめき、品物を広げるシートの擦れる音、そして何よりも独特の、古物の持つカビ臭さ、どこかの屋台から漂ってくるソースの焦げる香ばしい匂いが混じり合った空気が鼻腔をくすぐった。


 石畳の両脇には、色とりどりのパラソルやテントが所狭しと立ち並んでいる。

 その下には、様々な品物が地面に広げられたブルーシートや古新聞の上に並べられている。


「さあ、見てってよ、お兄さん! 新品同様だよ!」


「そこの奥さん、手作りアクセサリー、世界に一つだけのデザインだよ! 今ならおまけ付けちゃう!」


 威勢の良い客寄せの声が、まるで音の洪水のように四方八方から飛び交う。

 そんな中、俺はゆっくりと雑多に並べられたブースの間を縫って歩く。


 使い古されて味のある革の鞄。

 色褪せたブリキの看板。

 誰かの青春時代の思い出が詰まっていそうなアイドルのポスター。

 作者の温もりが伝わってきそうなハンドメイドの木彫りの熊。


 それらが、まるで万華鏡の破片のように、ごちゃ混ぜになって目に飛び込んでくる。


 子供連れの家族、物珍しそうにキョロキョロするカップル、真剣な眼差しで品定めをする年配の収集家。


 様々な人間模様がそこにはあった。


 しばらく歩き、いくつかのブースを冷やかした後、ひっくり返した古いミカン籠を即席の陳列台にしているブースで、くたびれたTシャツが数枚、無造作に畳まれて並べられているのが目に留まった。


 バンドTシャツだろうか、掠れた文字とイラストがプリントされている。


 値札には「ALL 500円」とマジックで走り書きされている。


 そろそろ本格的な夏に向けて、洗い替えのシャツが何枚か必要だな、とぼんやり考えながら、その色褪せたプリント柄に手を伸ばしかけた。


 その時だった。


 ふと、参道の脇道、少し薄暗い一角に、見慣れない露店が出ているのが目に飛び込んできた。


 そこだけが、周囲の陽気な賑わいから切り離されたかのように、妙な静けさと、どこか近寄りがたいオーラを湛えていた。


 地面に広げられたのは、使い古された真っ黒な風呂敷。

 その上には、年代物と思しき緑青の浮いた銅製の壺や、何が入っているのか皆目見当もつかない、鍵のかかった古びた木箱、錆びついた奇妙な形の金属製の道具などが、まるで呪術的な儀式にでも使うかのように配置されている。


 そして、その品々の背後には、店主と思しき男が、折り畳み式の小さな腰掛け椅子に深く身を沈めていた。


 歳の頃は六十代半ばといったところか。

 陽に焼けて赤黒くなった顔には、人生の年輪を物語るかのように深い皺が幾重にも刻まれている。

 その目つきは鋭く、まるで猛禽類を思わせる。


 煤けた色の作務衣をだらしなく着こなし、頭には手拭いを巻き、今時滅多に見かけることのない、雁首の長い真鍮の煙管(キセル)を燻らせていた。


 紫色の煙がゆらりと立ち上り、独特の甘くも香ばしい匂いを周囲に漂わせている。


 しかし、他の店のように声を張り上げて客を呼び込む気配は全くない。

 ただ悠然と紫煙を吐き出しながら、時折、道行く人々を無言で射抜くように眺めているだけだった。


 その姿は、まるで周囲の喧騒など我関せずといった風情で、人を寄せ付けない威圧感のようなものを放っていた。


 そんな様子に好奇心が疼いた。

 俺は、まるで磁石に引き寄せられる鉄のように、その怪しげな店の前に歩み寄った。


「すみません、こちらは何を売っているお店なんですか?」


 自分でも驚くほど、緊張した声だった。

 男はゆっくりと煙管を口から離し、火皿に残った灰を、地面に無造作にトントンと落とした。


 そして、重々しく、まるで古びた扉が開くかのように、こちらを見上げた。


 その視線は、値踏みするようでもあり、同時にこちらの心の奥底まで見透かすようでもあり、思わず背筋がぞくりとした。


「……何だ、客か。見ての通り、古物商よ。曰く付きの壺やら、真贋不明の掛け軸やら、まあ、早い話がガラクタを売っとる。何か気に入ったもんでもあったか? まあ、見るだけならタダだ。……もし買う気があるんなら、ちっとは勉強するぜ」


「サービスするぞ」と言葉では言いながらも、その表情は眉間に深い縦皺を寄せた仏頂面のまま。


 お世辞にも接客に向いているとは思えなかった。


 声も、長年吸い続けた煙草のせいか、酷くしゃがれていて、まるで古井戸の底から響いてくるかのようだった。


 俺が曖昧な苦笑いを浮かべていると、男はふう、と大きな溜息をつき、煙管の雁首で自身の膝を軽く二度三度叩いた。


「けっ。初めてこんな賑やかなフリーマーケットなんぞに出てみたが、お前さんみたいに、ひやかしばかりで、さっぱり商売にならんわい。やはり、こういう場所は俺の性に合わんな」


 ボソリと、しかし俺にはっきりと聞こえる声でそう呟くと、再び椅子に深く腰掛けた。


 懐から取り出した煙草入れから新たな刻み煙草を煙管に手際よく詰めて火を点けた。

 紫色の煙がゆらりと立ち上り、独特の甘くも香ばしい匂いを再び漂わせ始める。


 改めて風呂敷の上に並べられた品々を検分する。


 どれもこれも、一見して古めかしく、何らかの曰く因縁がありそうな雰囲気を醸し出している。

 埃を被った水墨画らしき掛け軸には、達筆すぎて読めない文字で「三万円」と書かれた値札。


 一部が欠けたように見えるが、深い青色が美しい青磁の壺には「五万円」。


 そして、一際大きな、黒漆に螺鈿細工の施された豪華な重箱には、なんと「十万円」という、このフリマではありえないような高額な値札が付けられている。


 明らかに、この庶民的なフリーマーケットの客層とはミスマッチだ。

 もう少し市場調査をすべきだったのでは……そんな言葉が喉まで出かかったが、流石に口には出せなかった。


 余計なお世話というものだろう。


 この店主、もしかしたら本当に価値のあるものを、ただ無造作に並べているだけなのかもしれない。


 そんな高価な(そして胡散臭い)品々が並ぶ中にあって、一つだけ、ぽつんと千円の値札が付けられた小さな木箱が目に留まった。


 手のひらにすっぽりと収まるほどの大きさで、他の品々とは明らかに雰囲気が異なる。


 値段もさることながら、その細工が妙に俺の心を惹きつけたのだ。


 材質は黒檀か紫檀か、非常に硬質で目の詰まった木材で作られている。

 手に取るとずっしりとした重みを感じる。


 表面には、まるで古代遺跡の壁画か、あるいは異星の文字かと思わせるような、複雑怪奇な幾何学模様がびっしりと刻まれていた。


 そして、その模様の間を縫うようにして、見たこともない、象形文字のような、あるいは古代の呪文のような不可思議なシンボルが、まるで金属を溶かし込んで描いたかのように、微かに盛り上がって光を鈍く反射していた。

 そのデザインは、どこの国の文化にも属さないように見え、不思議な魅力を放っていた。


「おじさん、これは?」


 俺は思わず、その箱を指差して尋ねた。

 男は億劫そうに、煙管を持つ手とは反対の手で、無精髭の生えた顎を無造作に撫でながら、視線をそちらに向けた。


 その目が、一瞬だけ、ほんの一瞬だけだが、鋭く光ったように見えたのは気のせいだろうか。


「ああ、それか。そいつは……何だかよく分からん、奇妙な文字がびっしり書かれた箱だよ。いつの間にか、うちの蔵の薄暗い隅っこに、他のガラクタと一緒に紛れ込んでいやがった代物でな」


「見たところ、どこかの異国の品かもしれんが、その由来も年代もさっぱりだ。おまけに、どうこねくり回しても、叩いても、振っても、うんともすんとも言わんで、全く開かん、どうしようもない欠陥品でな。もうこうなったら、いっそ金槌で叩き壊して中を確かめてやろうかとも思ったが、それも何だか無粋だと思ってな。まあ、千円なら、物好きな変わり者が買うかもしれんと思って、一応持ってきてみたんだ。……どうだ、兄ちゃん。そんなガラクタでも、買うかい?」


 男は、まるで道端に落ちている石ころでも説明するかのような、投げやりな口調で言った。


 その言葉とは裏腹に、その目は俺の反応を注意深く観察しているように感じられた。


 悩む。

 ひどく悩んだ。


 俺の長年培ってきた「掘り出し物センサー」が、心の奥でけたたましく警鐘を鳴らしていた。


 それは危険を知らせるものではなく、むしろ「これを逃すな」とでも言うような、強烈な期待感を伴う警告だった。


「これは、もしかしたら……とんでもないお宝かもしれない」という、いつもの甘い囁きが脳裏をよぎる。


 しかし、冷静に考えれば、ただの開かない箱だ。

 店主自身が「欠陥品」と認めている。


 それに千円を出すのは、果たして賢明な判断と言えるだろうか。

 ただの木片に千円……その金があれば、もっと実用的なものが買える。


 そんな俺の葛藤を見透かしたように、男は煙管をふかしながら、ニヤリと口の端を歪めた。

 その表情は、商売人の顔というよりは、まるで悪戯を仕掛ける子供のような、あるいは何かを試すような、不思議な表情だった。


「あー、もう面倒くせえな。そんなに悩むんなら、いいぜ、兄ちゃん。なんならそれ、半額の五百円で持ってけや。どうせ、こんな開かねえ箱なんざ、今日一日ここに座って粘っても、誰も見向きもしねえだろうよ。正直なところ、他の高い品が万が一売れた時に、景気づけにおまけでくれてやろうかと思ってたくらいの代物だしな」


「半額」という魔法の言葉。

 その抗いがたい響きは、俺のささやかな抵抗と合理的な思考を、いとも簡単に打ち砕いた。


 まるで催眠術にでもかかったかのように、気がつけば、俺は反射的にジャージのポケットから古びた革製の財布を取り出し、中から皺くちゃの千円札と、数枚の百円玉、そして幸運にも一枚だけ入っていた五百円玉を確かめていた。


 その五百円玉を、まるで貴重な供物でも捧げるかのように男に差し出すと、男はそれを受け取り、無造作に作務衣の懐にしまい込んだ。


「へい、毎度あり。まあ、せいぜい頑張って開けてみることだな。何か面白いもんでも入ってたら、俺にもこっそり教えてくれや」


 売れたというのに、その声には何の喜びも、あるいは残念がるような素振りも感じられなかった。


 ただ淡々と、まるで日常の些事でも済ませたかのようだ。

 男は箱を近くにあった、どこかの店のロゴが入った使い古しの茶色い紙袋に雑作に入れる。


 それを俺に手渡し、すぐに定位置の腰掛け椅子に戻って、再び煙管を燻らし始めた。

 その横顔は、どこか遠くを見ているようで、俺のことなどもう眼中にないようだった。


 新しいコレクションを手に入れたという、胸が躍るような高揚感。

 もしかしたら本当にただのガラクタ、開かない木片に五百円という貴重な昼飯代を払ってしまったのかもしれないという、じわりと湧き上がる一抹の不安感。


 二つの相反する感情が胸の中で渦を巻きながら、俺は少し早足で家路についた。


 背後からは、相変わらずフリーマーケットの喧騒、人々の笑い声や呼び込みの声が追いかけてきていたが、それはもう俺の意識には届いていなかった。


 頭の中は、手にした紙袋の重みと、その中に入っているであろう謎の箱のことでいっぱいだった。



 ---



 自宅アパートの古びた、ペンキの剥げかかった鉄製のドアを開け、自分の六畳一間の部屋に戻った俺は、早速買ってきたばかりの小さな箱を、散らかった勉強机の上に置いた。


 改めてしげしげと眺めてみる。


 大きさは大体、縦横高さ、それぞれ五センチほどのほぼ完璧な立方体。

 ずっしりとした重みがあり、ひんやりとした硬質な木材の手触りが心地よい。

 表面は滑らかに研磨されているが、長年使い込まれたかのような、微かな艶を帯びている。


 上から三分の一ほどの位置に、蓋と本体を分けるものなのか、髪の毛一本分ほどの細い切れ込みのような線が一周ぐるりと走っている。


 しかし、それは単なる装飾なのか、爪を立てて引っ掛けてみても、いくら力を込めてもびくともしない。


 例の怪しい文字と模様は、やはり彫られているわけではなく、何らかの特殊な顔料か、あるいは微細な金属粉末を練り込んだものを、まるで印刷するように表面に定着させているように見える。


 それは、まるで精密な電子回路の基盤を思わせるような、緻密で規則的な、しかしどこか有機的なパターンを描いていた。


 特に、切れ込みの下の部分、箱の側面中央に、それらの模様が集中して描かれている。

 その中心には小指の爪ほどの大きさの、完全に透明で平らな円形の石が嵌め込まれていた。


 石は水晶のようにも見えるが、それにしては異常なほどの透明度と、内部にまるで小さな銀河を閉じ込めたかのように、虹色の微細な光の粒子が明滅しているかのような複雑な輝きを放っていた。


 光の加減で、その輝きは微妙に変化する。


 とりあえず、ありとあらゆる方法を試して開けてみようとした。


 箱を両手で持って、上下左右に力いっぱい振った。耳元で軽く叩いて中の音を聞こうとした。

 切れ込みの部分に、工具箱から引っ張り出してきたマイナスドライバーの先端を慎重に差し込み、テコの原理でこじ開けようともした。


 しかし、箱の表面には傷一つ付かず、それどころかドライバーの先端が僅かに歪んでしまっただけだった。


 まるで、この世のどんな物理的な力も受け付けないとでも言うように、箱は頑なにその口を閉ざし、沈黙を守り続けていた。


「はぁ……。こりゃ、本当に観賞用か、あるいは俺の知らない、パズルボックスの類だな」


 諦めの溜息をつきながら、俺は椅子から立ち上がった。

 部屋の隅に置かれた、自慢の掘り出し物コレクションが雑然と詰め込まれたスチール製の三段棚へと向かった。


 棚には、アールヌーヴォー調の細密な細工が施された年代物のシルバーアクセサリーのネックレスや指輪。


 子供の頃に夢中になったロボットアニメの、放送当時に限定生産された幻のフィギュア。


 作者不明だが、なぜか強烈に惹かれる、寂しげな風景を描いた小さな油絵。


 果ては、旅行先の海岸で拾った、奇妙な縞模様の入った石ころまで、統一性のかけらもない、ありとあらゆる「俺にとっての宝物」が、所狭しとひしめき合い、互いにその存在を主張しあっていた。


 これでも、久しぶりに部屋に入った妹に「兄ちゃん、この部屋、もはや人間の住環境じゃないよ! ゴミ屋敷の一歩手前だからね! 少しは片付けなよ!」と、本気で呆れた顔で厳しく注意され、泣く泣く全体の四分の一ほどを、後ろ髪を引かれる思いで処分した後なのだ。


 それでも、新たに迎え入れたこの小さな、しかし存在感のある箱を置くようなスペースは、簡単には見つかりそうになかった。


「うーん、この箱、意外と底面が平らで安定感あるし、あの限定版のセイバーのフィギュアを置く台にするのも悪くないかもな……ちょっと高さも出るし、見栄えも良くなるかもしれない」


 そんなことを考えながら、再び箱を手に取った、まさにその瞬間だった。


 ピリッ!


 まるで高圧の静電気に触れたかのように、いや、それよりももっと鋭く、もっと芯に響くような、未知の何かが指先から腕を駆け上がった。


 それは単なる痛みというよりは、むしろ異質なエネルギーが体内に直接注入されたかのような、強烈な違和感と痺れだった。


「うわっ! いってぇ!」


 思わず声を上げ、反射的に箱を床に放り投げてしまった。


 ゴン、と木と床がぶつかる鈍い音を立てて、箱はフローリングの上を数回転がり、壁際の埃っぽいところで止まった。


 俺は慌てて自分の手を見つめた。

 火傷の跡もなければ、切り傷もない。


 しかし、指先にはまだ微かな痺れと、奇妙な疼きのようなものが残っている。


 一体、今の奇妙な感覚は何だったのか。


 静電気にしては、あまりにも強烈すぎる。

 そのまま視線を、床に転がった箱へと移す。

 すると、信じられない光景が目に飛び込んできた。


 箱の側面、あの透明な石が嵌め込まれていた部分が、ぼんやりと、しかし確実に、内側から淡い青白い光を放っていたのだ。


 それはまるで、深い眠りからゆっくりと覚醒した生物の瞳のように、静かに、しかし力強く、そしてどこか妖しげに明滅していた。 


 部屋の薄暗さの中で、その光は奇妙なほど鮮やかに見えた。


 ゴクリと唾を飲み込む音が、やけに大きく部屋に響いた。


 得体の知れない恐怖と、それを上回る強烈な好奇心。


 俺はまるで金縛りにあったかのように、しばらくその場で立ち尽くしていたが、やがて意を決し、そろりそろりと箱に近づいた。


 そして、震える指先で、覚悟を決め、そっと、光を放つ石の部分に触れた。


 その瞬間だった。


 パチパチッ! バチッ!


 微かな、しかし鋭いスパーク音が鳴り響く。

 箱の表面に描かれていた複雑怪奇な模様に、まるで生命が宿ったかのように、鮮烈な青白い光の線が奔った。


 光は目にも止まらぬ速さで模様の隅々まで、まるで血管を血液が流れるように行き渡る。


 やがて全ての線が、中央の透明な石へと、まるで引き寄せられるかのように集束していく。


 石は、それまでの鈍い光が嘘であったかのように、眩いばかりの輝きを放ち始めた。


 その輝きは、もはや単なる青白いというよりは、虹色の光が複雑に絡み合い、渦を巻くように明滅する、この世のものとは思えないほど神々しく、そしてどこか恐ろしい光だった。


「な……んだ、これ……っ! うわっ!」


 声にならない声が漏れる。

 触れている指先から、先ほどとは比較にならないほどの強烈な熱、いや、熱というよりも純粋なエネルギーの奔流のようなものが、まるでダムが決壊したかのように、逆流するように俺の体へと流れ込んできた。


 それは皮膚を焼き、血を沸騰させ、骨を軋ませるような、凄まじい感覚だった。


 カッと、全身が内側から爆発するように熱くなった。

 目の前が、その強烈な光によって完全に白く塗りつぶされる。

 もはや、自分がどこにいて、何をしているのかさえ判別できない。


 ただ、圧倒的な光の中に自分がいるということだけが、唯一認識できる現実だった。


 体の自由が急速に奪われていく。

 手足の感覚が徐々に薄れ、まるで自分の体ではないかのように重く、そして奇妙なことに、燃えるように熱いのに同時に氷のように冷たくなっていく。


 熱いのに冷たいという、矛盾した感覚が全身を支配し、意識を混乱させる。


 朦朧とする意識の中、視界の端で、箱から放たれた光が、まるでシャボンの泡が無限に膨れ上がるように大きく広がり、美しいエメラルドグリーンとサファイアブルーの光の輪となって俺自身を柔らかく包み込んでいくのが見えた。


 それは、どこか遠い昔に感じたことのあるような、不思議な温かさと安心感があり、そして同時に、有無を言わさぬ絶対的な力で俺をどこかへ引きずり込もうとしているようだった。


「……あ……れ……?」


 何かを言おうとしたが、声は音にならなかった。

 瞼が、まるで鉛でできているかのように重くなり、ゆっくりと、抗うこともできずに閉じていく。


 最後に感じたのは、自分の存在そのものが、まるで砂糖菓子が熱湯に溶けるように、急速に希薄になっていく奇妙な浮遊感と、どこか遠くで聞こえる、懐かしいような、しかし全く聞き覚えのない不思議な旋律だった。


 その瞬間、俺は、日常が存在したこの世界から、忽然と姿を消した。

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