葉隠秘録
猫墨海月
第六三期 葉隠秘録 個と気の代
何なんだ、この学舎は――
それが男が初めに抱いた感想だった。
男が現在居る場所は、
深い山の奥の奥、誰も足を運ばないような場所に密かに建っている広大な学び舎だ。
立地を除けばこの学び舎、一見普通の寺院や学び舎のように見える。
だが当然、深い山の奥に隠されるように存在しているからには普通の学び舎とは訳が違う。
そう、この葉隠学舎の卒業生の大半は絶大な実力をもち、戦況を大きく変える者となるのだ。
この学び舎が教えることは一般教養だけでない。
生徒は、剣術や武術をはじめ、医術、火薬学、兵法、そして――忍術といった、戦乱の世を生き抜くための技術を八年掛けて教えられる。
八年目の生徒となると、それはもう将軍にも匹敵する実力を持つようになるという噂だ。
しかしこの学舎、そうした生徒を多数排出しておきながら、表向きはどの勢力に対しても中立である筈だが――どうも依頼主にはここが脅威に、自身の敵に見えるらしい
依頼主から男に告げられた任務は、この葉隠学舎の基盤を崩すこと。
それは、この男一人で行うには少しばかり難しい依頼だが――
まあなに、八年間戦闘術を学んだところで、相手になるのは十代の若造もしくはそれにも満たない子供だ。
これは暇つぶしにもならない、簡単な依頼である。
はずだった。
「チッ……」
此方へ飛びそうだった鋭い眼光を避け、男は物陰に身を隠す。
生徒とは違う、卓越したその瞳は、必ずや曲者を捜し出そうと先程から辺りを駆けずり回っていた。
…あの視線に見つかれば終いだ。
男は深く息を吐き、もう一度辺りを見渡す。
運が悪かったとでも言っておこう。
男が潜入している今日に限り、何故か実力が高い教師達が余す所なく学舎内の警備にあたっているのだ。
男は熟練の忍であった。故に、自分より実力が上であろう者に無闇矢鱈と手を出そうとは考えもしない。
何故なら、戦闘というものは実力を先に見誤った者が負けるからだ。
(ここも外れか。別の建物を探そう)
しかしまあ、教師陣に見つからないよう行動していても目的のものが見つかるかどうかはそれこそ運次第なもので。
慎重に行動している男は、潜入してから数刻経てども『目的の本』を見つけ出すことが叶っていない。
小さく息をつき、男は立ち上がるため地面に指先を這わせた。
指先に体重がのしかかり、布の擦れる音と共にその体が持ち上がっていく――
刹那、地面に落ちる男の影色が強まる。
風を切るように顔を上げた。
月明かりの届かない室内には確かにもう一つ、男ではない別の誰かの気配があった。
目を凝らす暇もなくその誰かは距離を詰めてくる。
気配が読み取れない。
その焦りはありながらも、男は冷静に
そして気配の姿を捉えようと、しきりに視界の軌道を揺らす。
床板の軋む音の数だけ警戒を強めた。
乾きそうになる喉を閉じ、じっとその時を待った。
やがて嫌な汗が一滴流れ落ち、
黒い瞳と軌道が出会った。
――今だ
男の殺意が武器となり、その瞳に猛威を振るう。
黒い滝のようなそれがその瞳ごと葉隠学舎を襲う。
しかし。
「――あ、ええと、お客様でしょうか…?」
その殺意の武器も龍も、夜闇を切り裂く鈴の声により霧散された。
と、同時に。
月明かりが部屋に差し、その声の主をつま先から映し出す。
男の眼の前にいたのは、下女の装いをした十代半ば程の少女であった。
「あ、あぁ。まあそんなところですね。すみません、道に迷ってしまったみたいで…はは」
少女であった。
目元以外を垂れた口布で隠し、やけに良質な着物を着た、
学舎の関係者以外の何者でもない、な。
「そうだったのですね。お気になさらず。葉隠学舎は複雑な構造ですので、迷われる方も少なくないのです。…よろしければ道案内致しましょうか?」
下女ではない下女は、まるで本物のそれであるかのように男に善意を示そうとする。
男はそれに形容し難い不気味さを感じながら、頷くしかなかった。
この女が己を案内するのは、絶対に勝てるという自信があるからだろうか。
罠かもしれない。隙を見て逃げ出そう。
しかしこの馴れようからして、同業でしかない。逃げ出すなど不可能に近いのでは。
泳がされている?
だが、それに利点はない。男をこうして案内する理由にはならないだろう。
武器一つ持たず己を案内するのは何故だろう――?
男の脳内をしきりに考えが巡る。
だが、どの考えを突き詰めたとしても、この女の行動について説明できるものがない。
強者が弱者と対峙する時、弱者を殺さずに自分の陣地に招き入れるのは利益がない。
この女も強者なのだから、弱者である己を案内するのに利益はないだろう。
……いや、もしかしたらその認識から誤っているのかもしれない。
もしこの女が強者でなくて、弱者だったとしたら?
この行動が強者としてではなく、弱者としてであったら?
…あぁ、そうか。
そうだったのか。
この瞬間男は確信する。
この女は恐らくくノ一で警戒すべきだが、確実に格下である、と。
「……あの、どうかなさいましたか?」
急に黙り込んだ男に不安になったのだろう。
振り返った女は見上げるようにしてそう問いを投げる。
先程までは恐ろしく見えたその顔も、よくよく見れば警戒心一つない無垢なもので。
男はそれを内心嗤いながら、穏やかさを保った笑顔で言った。
「いえ何も。お気になさらず」
そしてその言葉を聞くなり、女は軽く頭を下げるとくるりと背を向けて歩き出す。
男はまた、心のなかで嘲笑した。
――くノ一でありながら、男の愛想笑いにすら気が付けない
敵だと分かっていながら、その敵に背を向けたまま、あまつさえ己の陣地を男に案内する。
風で膨らんだ袖の中、暗器を隠す脳もない。
これではまるで、敵の味方をしているようなものじゃないか――
(学舎の関係者ですらこれなら、案外楽な仕事かもな)
男はあまりに警戒心の薄い女に、自身の任務の成功を確信する。
この女が何にも気が付かず、学舎を案内してしまえば、男の任務は完了する。
最後にこの女を殺せば足取りも辿れないだろう。
確信とまでは行かなくとも、男の任務が順調なのは誰の目から見ても明らかだった。
チラリと前を歩く女を睨む。
女はやはり、男に警戒の一つも抱いていないようで。
最早、案内役の女はくノ一のように見えて、その実ただの下女なのかもしれない。
その証拠にほら、別の女がやってきて――
――増援か!?
駆け寄ってきた女は頭を下げると、口を開いた。
「あ……すみません、ちょっとだけ、お待ちいただいても?」
その言葉に快い返事をしてやりながら、男は二人の女を観察した。
駆け寄ってきた女はこの少女と同じように下女の装い。
そして口布もしておらず、彼女より数歳は幼く見える。
良い例えが思いつかないが、そうだな。
例えるなら、町娘といったところだろうか。
(もし本当にただの娘なら憐れなものだ)
人間というのは不思議なもので、一度そうだと思ってしまえばそうとしか見えなくなるようだ。
先程まで順調に警戒対象から外れてきた彼女は、今この瞬間を持って完全に警戒の外側へと投げ出されてしまった。
彼女は圧倒的弱者でしかなかったからだ。
「すみません。お待たせしました」
そうこうしているうちに二人の少女の会話は終わり、彼女は男の道案内をするため戻って来る。
その振る舞いは確かにそこらの町娘と同じ。
――ああ、なんだ
ただの町娘だったなら、警戒して損したんじゃないか。
男はもう一度彼女を見る。
ただの町娘だとしたら――己の娘と同じだな
しかし、境遇は全く違うが。
己の娘は裕福とは言えなくても、娘が働きに行かなくても生活できるくらいには金がある。
だがこの娘は。
命の危険があるこの仕事に就かなければ生きていけないほど、生活が困窮している。
そしてその仕事も今日でなくなり、彼女はまた困窮した生活へと追いやられる。
あぁ、世の中というのは酷いものだな。
そう考えてしまい、男は思わず言葉を零す。
「お仕事、大変そうですね」
それは職場がこれからなくなる彼女への哀れみか、それともこんな場所で働かされている少女への同情か。
真実は男にしか分からないが、それを向けられた彼女は確かにそれに対し笑顔で返した。
先程と同じ、少女に相応しい笑みで。
「ええ。本日は沢山のお客様がお越しになられていますから」
しかし男はその、女から投げられた言葉にどきり、と胸が鳴った。
「そうだったんですね。そうとは知らず…忙しいところ申し訳ない」
確かに笑顔だった。
だが、彼女の笑顔は確かに『異常』だった。
若干顔が引きつりかけるのをどうにか堪え、精一杯の笑顔を作る男。
彼は内心焦っていた。
何故なら、
この女が弱者であるにも関わらず、まだ男を殺すことを諦めていないと気づいてしまったからだ。
男はそれに気がつけず女の策に嵌ってしまったことに苛立ちを覚えた。
そして自身を嘲笑し、警戒することも忘れ同情した相手に出し抜かれるなんて、と己の不甲斐なさを恨んだ。
しかし顔は乱れなかった。先の一瞬、引きつりかけたのを除いては。
(熟練のくノ一なら、その一瞬を見逃さないだろう)
彼女が弱者であると確定させた上で、逡巡した思考の結果はそれだ。
例え彼女が思っていた程弱者でなかったとしても、先程までの行動を見る限り…全てが演技であったとは考えづらい。
それならまだ勝機はある。
あれが全て演技でなかった場合、この女は障害ではない。
全て演技であったとしても、こちらが先手を取ってしまえば問題ない。
付け加えて言えば、彼女は年下だ。
力で押し負けることなど有り得ない。
大丈夫だ。
まだ、勝機はある。
どうせこの女は弱者。
あの一瞬、表情が変化したことになど気がつかない。
それならまだ問題はない。
敵意があるという確信ができない限り、向こうも手を出せない。
ならば攻撃の必要もないだろう。
だが、もしも。
もしも女が、あれに気がついた素振りを見せたら、その時は――
男は女が次に口を開くのを待つ。
「いいえ、これも私のお仕事ですので。お気になさらないでください」
予想に反し、ある意味予想通りだったその言葉は、先程の男の確信をより強固なものへと変える。
そして男の不安を全て、脳の奥からも追いやった。
この女は、男を殺すことを決して諦めず、その殺意を隠せる実力はある。
だから、当初の予想に反し、くノ一として『酷い弱者ではない』のだろう。
しかし女は、明らかに実力不足だ。
いや、経験不足なのかもしれない。
が、どちらにせよ己の敵ではない。
(実戦慣れしているくノ一だったなら、もっと上手い策が思いついただろうに)
男は腕を後ろにし、袖に忍ばせた苦無を握った。
女はそれに気がつくこともない。
ああ、これは、もらった――
男が女の背に手をかけようとした、その時。
瞬きをした女が、駆け足で数歩歩いて此方へ振り向く。
「ところで、あなたはどんなご要件でこちらに?」
咄嗟に隠した苦無は、女に見つかることはなかった。
春の北風が靡かせる女の短い髪。
柔い黒髪が空に透け、鋭い眼光が此方を睨んでいる。
――男の見られる景色はそれが最後だった
◇◇◇
まだ日も昇りきらない学舎の中央、集まるのは暗い色の装束を着た者達。
多用な形のそれを纏い、学舎の平穏を取り戻した彼らは、先程までの静かな喧騒を忘れたかのように軽い談笑を交わしている。
黒髪の女はそれを遠巻きに眺めていた。
――が、徐ろに数を数え始める
穏やかな風が通る中、彼女の指は幾度となくしなやかに折り曲げられ、それが何度か繰り返された時。
止まった指が靡かせている口布を解き、彼女は薄く微笑む。
そして瞬時にとある男の背後に立つと、口を開いた。
「
その声は勿論、その男にとって予想外の出来事。
「ああ、ありがとう――やはり君がいると片付くのも早いなぁ」
だがその高倉先生と呼ばれた男――四十代半ばくらいだろうか――は驚くこともなく、背後に現れていた彼女を正面で迎え、そんな言葉を返す。
彼女にはそれも予想通りだったようで、
「そうでしょうか?今年も侵入者が少なかっただけでは…?」
彼女も、その他の者達も、彼女と高倉先生のそれに驚くことはなく、教職員の雑談は継続していた。
夜の静かさと対象的に少し弾んだその声を背に受けながら、彼女たちも談笑する者達の一員となる。
「全く君は。褒めてるんだから素直に受け取りなさい」
「はい。お褒めの言葉有り難く頂戴いたします」
しかし、二人の雑談は他の者達とは毛色が違う。
言うなれば、これは――親子の会話のような、教師と生徒のような――そんな感じのものだろう。
もう何十年も未熟な子供達にものを教えてきた
勿論、彼女が彼の生徒であったことなど一度もないが。
まあ、己に対する認識など認識する側の好きにしたらいい。というのが彼女の意向のよう。
「すみません、皆様お揃いのようなので学舎長の元に報告をしてきます」
彼女がその場を離れるまで、いつものように二人は少し変わった雰囲気の雑談を続けていた。
「皆さんー!!そろそろ生徒たちが登校する時間ですよ!!」
そんな声が響く学舎。
長かった夜も明け、遂に迎えたこの日。
一瞬にしてその場の全員の気配が切り替わった。
教員は皆不穏な気配を抹消し、職員はそれぞれの持ち場へと走りだす。
勿論彼女も例外ではない。
彼女は服を着替える――ことはなかったが、仕事をこなす忍びからしっかり教職員の顔へと切り替え、門へと走った。
その手に握られるのは使い込まれた竹箒。
手に馴染むそれを強く持ち、彼女は仕事を遂行した。
今日は春期休みを過ごした生徒たちが、進級後初めての登校を行う日。
一つ先輩になって高揚する生徒たちと同様に、教職員にも力が入っていた。
この日になると毎年必ず学舎の生徒を狙った曲者達が学舎へ襲撃に来る。
それを生徒が来るまでに撃退し、いつも通りの学舎を用意することが、新年度の教員に課される最初の仕事なのだ。
(新年度初の仕事と言われてしまうと、職員であっても力が入る)
この仕事は教員に課されるもので、職員の参加は任意であった。
しかし彼女は参加できる年は必ず参加するようにしている。
その理由はきっと、
「――あー!清掃員さーん!」
彼女が学校の『清掃員』だからだろう。
遠くから彼女を呼んだ少女が、顔を輝かせて駆け寄ってくる。
「おはようございます、清掃員さん!」
少女の周囲には不揃いな背丈の子供が四人。
「おはよう、
「ええ、一緒に行きたいって子が凄く多かったので」
今年初めに学舎にやってきたのは、千早という名の少女と周囲の子供達の五人。
そして、千早の背負う子を含めて六人だった。
五人の子供の面倒を見つつ一番乗りにやってきた千早と、千早を完全に信頼しきっている様子の子供達が愛らしくて思わず彼女は笑ってしまう。
「千早ちゃんは本当によく懐かれてるのね」
自然に出た彼女の笑顔と言葉に千早は一瞬目を見開いた。が、直ぐに自身も眉を下げて笑い出す。
「そうみたいです。私、そんなに威厳ないのかなぁ」
冗談のように言われた言葉には、困惑とは真逆の感情が含まれていた。
それを知っているから、彼女は千早を撫でながら言葉を続ける。
「親しまれるのはいいことですよ。千早ちゃんみたいな子がいると、下級生も退屈しないでしょうし」
「清掃員さん…!私もう十六ですよ!」
すると、不満げに頬を膨らませた彼女に軽い抗議をされた。
抗議をする千早の顔は、嬉しさと恥ずかしさで紅潮している。
それがまた可愛らしくて、揶揄いたくなるのだが、
後輩の前でこれ以上先輩を揶揄ってやるべきではないかと思った彼女は、「ごめんごめん」と言いながら手を降ろした。
しかし降ろした手はすぐにもう一度持ち上げられ、手が門とその先を示すように動かされる。
「はい、千早ちゃん。入っていいですよ」
おまけに言葉もついて。
「あ!ありがとうございます!…じゃあ、皆門くぐっちゃおっか!」
「はぁーい、先輩…」
「分かりましたあ……」
彼女の言葉に、色とりどりの新芽たちは酷く眠たそうに返事をし、門をくぐっていく。
その中の一人に背中の子を託し、全員が門をくぐるのを見届けてから、千早はもう一度清掃員に向き直った。
「あの子達、朝早いって言ったのにどうしても着いていきたいって言って無理矢理着いてきたんです。まだ集会が始まるまで時間があるから、寝かせようと思います」
今からなら結構寝れますよね?と続ける千早に、彼女は優しく笑って頷く。
しかし八年前に比べて随分大人になった少女に少し、寂しさを感じたのだろうか。
彼女の笑顔はどこか哀愁が漂っていた。
「千早ちゃん」
「はい」
「千早ちゃんも、ちゃんと寝なさい。今日だけは私達が完璧に見張ってますから」
「…もう、清掃員さん。私もう十六歳なんですよ!」
それでも、まだまだ子供っぽさの残る千早を誂う笑顔を作り、
「知ってるってば」
彼女は目一杯『教職員』をしていた。
「ほんとですかぁー?」
「ほんとほんと。じゃあ、はい。あの子達の為にも千早ちゃんは学舎内に入ろうね」
成人できる年齢ではあるが、生徒である限り「子供」という扱いをする。そんな彼女の様子に千早も諦めたのか、大人しく門へ歩き出した。
彼女はその背中を見届けながら、再度竹箒で掃除を始める。
風が千早の背を押し、
彼女が門をくぐり抜けようとした瞬間。
「期待してますよ。新八年生――もとい
彼女に届く激励の言葉。
少女は満面の笑みで振り返り、元気よく返事をした。
千早が門をくぐってから
彼女は到着する生徒と雑談をしては、名簿に印をつけ、彼らを学舎内へと通していく。
門をくぐる生徒は皆、進級したての期待と不安が混じった顔で新しい長屋へと向かっていった。
小さなその背に彼女は最大限の応援と期待を贈る。
そして、他の子供達を迎えるため、門の前にまた立つのだった。
「あ、清掃員さん!!」
そう叫んだ少女が、山道を駆け足でやってくる。
「おはようございます、清掃員さん…!!」
「はい、おはようこよりちゃん。春期のお休みは楽しめましたか?」
彼女を見つけるなり駆けてきたのは、人見知りで有名な
「うん!父さまも母さまも元気そうだったよ…!」
人見知りの彼女はいつもどこかぎこちない笑顔だが、それでも精一杯話している姿が可愛らしく、上級生達から可愛がられている。
「それは良かったです。後でいっぱいお話聞かせてね」
「もちろん!じゃあ、またね…!」
こよりは今年度、初等科である『
だからだろうか、彼女の去年までの臆病さが少し軽くなっているように見えた。
彼女が門の前で生徒を待っていると、遠くに見えたそっくりな男女。
「おはようございます、清掃員さん。今年も兄ちゃん共々よろしくお願いします!」
「姉ちゃん共々、今年もよろしくお願いします!」
その二人は門に到着する頃にはもう、性別が逆転していた。
この二人は新八年、千早の同級生で高等科の最上級生『影葉』である
「
彼らは異性でありながら、常日頃からお互いに変装している為、教師であっても見分けるのは困難だ。
それでいてお互いがお互いを兄、姉と呼ぶ。
「今年も変装は健在ですか?」
「もちろん!」
彼らの変装を見分ける術はないので、教師陣及び生徒達は見分けることを諦めてるのだとか。
「そっか、それじゃあ頑張って見分けられるようにならないと」
勿論彼女にも見分けがつくことはほぼないので、本人達が自称する方で呼ぶしかないのだ。
「別に見分けつかなくてもいいんですけどね…!?」
絃と采が訪れてからまた
森の奥から騒がしい声が聞こえ始めていた。
大方、中等科の誰かだろう。
(そしてきっと、中等科の中でもこんなに騒ぎながら来るのはあの学年の子達しかいない)
中等科、騒ぐ。
それだけでもう彼女の中では、ある程度生徒の予測がついた。
その時、二人の男子生徒が全速力で走ってくるのが見える。
「
彼女はその姿を見て、予想通りと苦笑した。
登校日初日から追いかけっこをしている二人は同級生。
且つ、同じ部屋で四年間過ごしている『相棒』の筈だが……やはり互いを制御するのは難しいようだ。
後ろからの注意に振り返りながら走る彼の胴を、
「やだねーっだ――わっ!!」
彼女は腕で確保し静止させた。
「おはよう、灯吉くん。走ると危ないですよ」
そして笑いかけながら注意した後、灯吉を自身の前にゆっくり立たせる。
「はぁ〜い」
「もう…聞いてないでしょ」
確保された灯吉はそれを気に留めることもなく、へらっと笑いながら彼女に軽く頭を下げていて。
反省の欠片もないその様子に呆れまじりのため息をつきながら、彼女は名簿に印をつけた。
「はい、
しかし、急いでいた理由が気になっていたせいで呼び止めてしまう。
それに気付いた彼女は慌てながら、「ごめん、気にしないで」と言っていたのだが、灯吉は少し考える様子を見せた後普通に口を開いた。
「今なら影葉の先輩方が居ないから、罠を仕掛けたい放題かなぁって」
そう。彼は青葉の二改め新四年生の朧野灯吉――人呼んで「
彼は悪戯好きで、よく絡繰を作っては上級生や下級生をそれに嵌めていると聞く。
そして勿論それに反省する素振りはなく、いつも説教をのらりくらりと交わしているのだとか。
今回もその悪戯を八年生に仕掛ける為、学舎に早く来たよう。
――だが
「あぁ、なるほど。――惜しかった、ですね」
門の上から降る気配に言葉を添え、彼女は心底憐れんだ目をする。
「え?」
その気配と目に、冷や汗をかきながら灯吉は空へ視線をやった。
「残念だったな灯吉。生憎、先程到着した”
「
そして訪れる絶望。
「灯吉、お前清掃員さんに――どわあああ旭先輩申し訳ございません灯吉には言って聞かせますので!!!」
その現場に都合良く訪れる同室の彼。
毎度のことながら、旭と彼女は吹き出してしまう。
何故なら彼――
灯吉が何かを起こすたびに大量に懐に隠している(らしい)菓子折りを手にして走ってくるので、上級生からは勿論「
その謝罪の権化が、悪戯の権化と最上級生が話しているところを目撃する。
誰であっても分かるだろう。
そう。
何があったのかも知らないが、とりあえず灯吉の頭を無理矢理抑えて謝罪する鶴之助と、冷や汗をかいてはいたが全く反省するつもりもない灯吉と、それを見て愉しそうにしている八年の片桐旭によって、その場は一瞬で戦場と化した。
「だーかーら!まだ僕は何もしてないんだって!!鶴ちゃんちょっと落ち着いてよ!!!」
「お前が何もしてないわけがないだろう!!!早くお前も頭を下げてくれ!!!」
「鶴之助。私は今、灯吉がまだって言ったのが聞こえたが?」
「旭先輩すみません!!!私の顔に免じて許してやってください!!!」
彼女はそんなやり取りを楽しげに見守っていたのだが、他の生徒がやってくる足音が聞こえたので、全員を一旦学舎内へ入れることに。
「はいはい皆さん、戯れるのは学舎内でお願いしますね」
彼女の一言でその場は一瞬静まる。
「あっ!!!清掃員さんすみませんでした!!!ほら灯吉!!!行くぞ!!!!」
「えぇ〜…」
「分かりました。じゃあ鶴之助、灯吉はちゃんと見ておくんだぞ」
そして鶴之助の謝罪を皮切りに、各々が理解を示した。
瞬間、灯吉を掴んだ鶴之助が彼を引きずりながら学舎内へ入っていく。
その様子に二人は唖然とした。
「…旭くん、学舎長から伝言で」
「…はい」
「明日、影葉としての初の任務が課されるので、準備しておくようにと…」
「承知しました。同級の者達にも通達しておきます」
しかし各々が各々で考えた結果、先の出来事には触れないでいく方針になったのだった。
その後も多くの生徒が彼女の元に訪れては、個性豊かな姿を見せて学舎へと入っていった。
彼女は人数の減った学舎の生徒が全員学舎に帰って来るのを見届け、己も静かに学舎内へと帰還する。
門をくぐり、見知った、少しばかり変化した景色に迎え入れられながら、彼女は早くこの景色に新たな色を添える者達が来ないものかと考える。
しかし人数の減った学舎に人数が増えるのは、明日の楽しみなのだ。
今日は今日で、愛らしい生徒が皆無事に戻ってきたのだから素晴らしい一日だったろう。
「明日からはまた忙しくなりますね」
誰に向けたものでもないその言葉は、春の草花だけが聴いていた。
◇◇◇
季節外れの風鈴が鳴り、喧騒が遠くに聞こえる部屋の中、十人の男女が呼び寄せられていた。
彼らの前に座するのは、五十代程の一人の老人。
「新八年生改め、新影葉のお前たち」
「――任務の時間だ」
学舎長と呼ばれるその男の言葉に、皆が頭を下げた。
「今年度、若葉の二の松組担任になった堺だ。皆、一年間よろしく」
元気な声が響く初等科の教室。
「
「はいはーい!先生、何が得意ですかー!!」
初等科最上級生といっても、学舎全体で見ればまだ二年生の彼ら。
彼らの持ち前の好奇心によって、新担任への質問攻撃が勢いよく開始されることとなった。
「一つずつ答えるから、まずは席に座ってくれ…!!」
「――以上が、青葉の三の一年間の予定だ。質問があるものはいるか?」
「特にないです。
「ああ、よろしく」
落ち着きのある中等科、青葉の三の教室。
来年度から高等科に編入される彼らは、中等科最後の一年を楽しむ為、密かにとある計画を進めていた。
その一つが――
「――うわっ!?なんだ、これ!!」
始業式の日に新担任を罠にかける、だった。
「想像以上の大成功!!」
「…お前ら、後で全員教員室な」
しかし、反省文は逃れられなさそうだ。
「とまあ、青葉の方では新年度早々反省文を食らった学年があるそうだが」
青葉の三が反省文を食らってからすぐ後のこと。
「流石にお前たちは大丈夫そうだな」
既にその噂は高等科にまで回ってきていた。
若葉、青葉の子らとは違い、大人しく着席している高等科――『
そして思うのだ。
いつか、自分の担当の生徒たちも、と。
(…いや、これ最初だから皆大人しくしてるだけだから)
(そのうち若葉や青葉なんか比にならないくらい混沌としだすから)
実は、深緑の生徒たちは全員、そんなことを思っているのだが。
「先生、ちなみに私達の初任務はいつでしょうか」
「ん?ああ、お前たちの初任務か…ちょっとまってくれ」
それを悟らせないのもまた、上級生としての嗜みだろう。
「お前たちの初任務は、深緑の
「分かりました。ありがとうございます」
それに、その考えを教師に教えてやるより、きたる初任務に備えるほうが彼らにとって余程重要なこと、なのだ。
彼らが今大人しくしているのは、必然であった。
初任務が終わればきっと、ここも若葉や青葉に負けないほど騒がしい場所になるのだろう。
しかし、教師陣がそれを知るのはもう少し後の話である。
◇◇◇
生徒が減り、生徒が戻ってきた葉隠学舎。
新年度早々様々な事件が巻き起こったが――かくして割と平和的に葉隠学舎の新年度は開幕したのだった。
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