四、凛の章


 日は高く、景色は白んで、青田が揺れている。けたたましく蝉が鳴いていた。眩しい夏の盛りである。

 若く体格の良い男――弥一は目を細めた。男は都から土方奉公を終えて、故郷へ帰ってきたところだった。

 山裾の方から髪を短く切った娘が伸びやかな手足を振って駆けてくる。艶やかな黒髪を泣く泣く売りに出されたのだろうか。だが、そうとは思えぬほど、よく似合っていた。やや釣り目がちの大きな目は強い日差しに細められ、笑っているように見える。

 男は駆け寄ってきた娘の頭を撫でた。

「よう、元気そうだな。凛」

 凛と呼ばれた娘はにっこり笑うと、男の手を引いて青田の間を歩いていった。

「おっかあ、兄ぃが帰ってきたよ!」

 頭巾の女が若者の顔を見るなり、目を潤ませ抱きしめる。弥一は頭を掻くと、母親から身を離した。土間に腰かけて、都の写し絵を広げる。そして、兄弟たちがわっと群がるさまを満足げに眺めていた。

 凛の家は貧しい郎党の家で、ほとんど百姓と変わらなかった。生活は常に苦しく、痩せた土地を耕して、芋やら蕎麦やらを植わえて、日々を食つなぐ。

 そんな暮らしにあっても凜は明るく、まばゆい笑みを湛えて鋤を持つ。実は、母親が生まれた時にあまりの元気さに落っことしてしまったという醜い痣があるのだが、本人は全く気にはしていなかった。腿のほうにも蛇が這ったような痣があるや、日に焼けて、さほど目立たない。

 弥一は兄弟たちから目を逸らすと唇を結んで、立ち上がった。

「父上はどこに」

「奥間におられます」

 母親が低く答える。


 薄暗い部屋で父は病床に臥していた。

「父上」

「都に紅旗はかかっていたか」

 わずかに身を起こして、父が訊ねた。心の底に哀しみが広がり、思わず目をそらしたくなる。弥一は父の枕元に正座した。

「世は既に変わっているのです。今生は鎌倉、源氏の世。しかし、それも長くは……」

 弥一は息を吸った。

「戦が始まります」

 その言葉に落ちくぼんだ父の瞳に光が宿る。弥一はその光を見つめながら、口を閉じていた。

 この村はおそらく戦に巻き込まれるだろう。

 戦で恐ろしいのは敵方の将軍ではない、雑兵たちだ。これには敵味方など関係なかった。近隣の村々から略奪し、女を襲い、火を放つ。

 誉れとは、戦における誉れとは……。弥一はかつて戦では名を馳せたと聞く父から背を向けた。



 

 奉公から帰ってきて、一月あまりで弥一は戦へ出ていってしまった。「武功を上げよ」という父の命に従い、快晴の朝に村を経ち、連絡はない。

凜は肩落として、草履を編んでいる。こうして動かないでいると空腹を思い出してしまう。すでに米俵は戦人らに持っていかれてしまった。

「凛や」

 母が竹かごを編む手を止めて、気まずそうに微笑む。

「山向こうのアケ村にね、お前を嫁にという話があったんよ」

 四つも草履が編めた。今日のところはこれでいいだろう。

「すっかり髪も切っちまって……でもお前に惚れたのがいたんよ。村長の息子だと。お父さんはまだ早いんじゃないかと言うんだけどね。凛、聞いているかい、凛」

 凜は立ち上がると外套と笠をかぶる。

「おっかあ、ちょっと薪とってくる!」

 季節は既に初春を迎えていた。雲間から春の柔らかな日差しが差し込み、寒が緩んだのを肌で感じる。風の中に梅の香も混ざっていた。凜は薪を小屋の脇に置くと、風上へ向かった。懐から小刀を出すと、松の皮をはぎ取ってゆく。乾かして火種にするのだ。

 未だ頂きに雪をかぶった鉅鹿峰。

 その山の斜面にしがみつくように白梅が伸びているのを凜は見とめた。七分咲きで控えめな花弁が可愛らしい。ほう、と息をつくと斜面に腰を据えた。梅の花を見上げる。

「嫁入りの話なんて、聞きたくなかったなあ」

 ふと白梅の枝の一つが折れていることに気が付く。

「……降りしきる雪の重みに耐えかねて、きしむ白梅、いずれ折るとも」

 さっと和歌をそらんじて、凜は目を見開いた。生まれてこのかた、和歌など詠んだことがない。それに頭の奥が鈍く痛んできた。凜は思い切り顔をしかめ、それから深呼吸した。すると、すーっと痛みが消えて、ほっと胸を撫で下ろす。

 遠くの空で鳶が弧を描いて、飛んでいた。ひゅーひょろろと鳶が啼き、その姿が尾根の向こうへ消えてゆく。

 その時だった。山から一斉に鳥たちが飛び立ち、太鼓のような音が響き渡る。凜は驚いて、辺りを覗った。

 倒れかけた老松の向こう、北の方から黒煙が上がっている。―戦場が近いのだろう。この村も巻き込まれてしまうかもしれない。

 家へ早く戻らなければ。

「そこの娘、立ち止まれ!」

 振り返ると、黒馬に跨った男が凜を見下ろしていた。

「兵站が欲しい。村はどこだ」

「兵站?」

「米と人手のことだ」

 凜は露骨に顔をしかめる。

「うちのとこは秋の終いに米をやったよ、もうなんも残ってない!」

 黒馬の男がわざとらしくため息をつく。

「視察の際、飯炊きの煙がたなびいているのが見えたぞ」

「芋の子を蒸してるのよ」

 凜は男を睨みつけた。男は舌打ちすると顎をしゃくった。すると、太刀を携えた男らが茂みから出てきて、凜を取り囲む。

「くれぬなら、奪うまで」

 黒馬の男が唸るように言った。凜は逃げようとしたが、それが無理なことはすぐに分かった。一人の男が縄を持って近寄って来る。

 足がすくんで動かなかった。

(おっかあ……)

 一本の矢が空を切った。矢は男の脇を過ぎ去り、杉の幹に刺さる。そこにいたすべての者が口をつぐみ、辺りをうかがう。

「……戦場が変わったのか?」

「いや」

 男の一人が首を振り、木から矢を抜く。

 その刹那、矢が飛んできた。同じ方向から。

「物陰に隠れろ! この矢は偶然でない!」

 矢には2本とも鷹の尾羽が括りつけられている。そして再び空を切る音が響いた。男たちは凛を突き離すと木陰に逃げ込む。凛は落ち葉の上に転がり、木の根に膝を擦りむいた。口内に鉄の味が広がるのをかまわず、矢の来たる方角に目を凝らした。

 覚えのある人影がある。

「兄ぃ……?」

「早く行け、凛! 山へ身を隠すんだ」

 矢が凜の足元をかすめる。兄は再び矢をつがえると郎党の背に向かって放ち、駿馬で村の方へ去っていく。

 凜は山道を走り続けた。

 西の空は暗く、遠くで雷が鳴ったかと思うと、いきなり大粒の雨になる。ぬかるみに転び、ずるずると山の斜面を滑り落ちた。肌寒さに耐えかね、雨をしのげる場所を必死で探す。疲れと痛みで身体中がきしんでいた。

 半ば這うようにして、草木の間を進む。大岩を通り過ぎ、ふいに顔をあげると、真っ暗な洞窟が見えた。

(雨宿りができる……)

 傍の楡の木に細いしめ縄がかかっている。禁足の窟であろうか、凛は気が付かなかった。彼女はぼうっとした頭で洞窟へ吸い込まれていった。

 じわじわと頭の奥が熱く、痛んだ。雨に濡れて、風邪でも引いたのだろうか。凜は洞窟の岩肌に身をもたれた。少し湿ってひんやりと心地よかった。

 草履は泥濘の中へ消え、白い素足のまま岩窟の奥へ進む。脇を透明な水がすべるように流れてゆく。小さな石が積み重なり、蝋燭が手向けられていた。

 この先は黄泉か、常世か。


 石造りの古い鳥居が並んでいた。欠けているもの、しめ縄のちぎれたもの、文字のどす黒くにじんだ札がある。灯篭には僅かながら火があった。

凛は背筋にぞわぞわとしたものを感じた。

「ここに来たことがある……」

 いつの記憶かは定かではない。そもそも自分の記憶なのだろうか。農村の娘の過去に出てくるような景色ではない。

 岩窟の奥に人影が立っている。その刹那、影が揺らめいて、大きな蛇が鎌首をもたげ、金色の瞳で凛を見つめていた。人影に見えたのは巨大な蛇だった。

 天蓋は高く、蛇の背後の大岩からは水が染み出ている。

「私を知っているか」

「……じゃぐら」

 自然とその名を口にしていた。蛇が微笑む。

「かわいらしい娘だ」

 蛇がずるりと身をよじり、凛の顔をまじまじと見つめる。黒光りする鱗、金色の瞳。恐ろしかった。そして何より、両足が地面に張り付いて動かない。

「美しいのも良いが、こんな闊達でかわいらしいのも良い。かわいらしく、美しい女ほど肉は柔く、うまいのだ。―髪はどうした、短いな」

「じゃぐら」

 凜は再度、その名を呟いた。

「じゃぐらを殺せ」

「ほう」

 この時、凜は己の痣の意味を知った。自分が何者であったか、気が付いた。

 じゃぐらという化け物。

 蛇がじっと凛の瞳の奥を覗く。

「これはこれは、かの娘……」

 凜は蛇の目を小刀で突いた。ぱっと身をひるがえして、岩窟の中を走る。来た道など分からない。激しく入り組む岩窟。石の積まれた道、わずかな灯篭の明かりを頼りに走った。背後からずるずるっと這いずる音が聞こえる。

 奥にまばゆい光が見える。出口が見えた。

「良かった」と思ったのも束の間、光の向こうは崖、横は滝、下には川が流れていた。

 雨があがり、空に虹がかかっている。遠くで鳶が啼いていた。

凜は後ろを振り返った。大きな蛇の影が揺らめく。

うつむくと、腿の痣がくっきりと見えた。凜は学のない娘だというのに、「じゃぐら」という文字も「殺せ」という文字も読めた。

「そういうことだったのね」

――ああ、この痣は輪廻を超えてゆく。

 凜は歯を食いしばった。懐刀で痣の隣に「じゃぐらは化け物、女好き」と刻みつける。

 そして、蛇の牙が届く前に崖を飛び降りた。

 



 凜の兄、弥一。戦場の混乱に乗じて離脱し、村を襲う雑兵たちを討ち続ける。村人たちが皆、山へ逃げ込んだのを遠目で確認した。戦線へ戻ろうとしたところで目の端に黒い影がうごめくのを捕えた。

「人ではないな」

 馬がいななき、急に走り出す。振り落とされぬようにしがみつきながら、後ろを振り返った。大きな蛇が地響きを立てながら、山を下りてゆく。蛇がすれ違いざま、尾を一振りし、弥一を地面に叩きつけた。臓腑が圧迫されて、血を吐く。 

 弥一は腹を抑えながら、やっとのことで身を起こした。蛇が行く方へ手を伸ばす。

「そっちへ行くな……村の者たちが……」

 彼はがっくりと力尽きた。

 じゃぐら、凜を探すうちに村一つ食い荒らす。腹が満ちて、岩窟に戻り、深い眠りについた。





 前世で受けた傷が痣となって今世に現る子。凛が己の腿に刻んだ「じゃぐらは化け物、女好き」の文字はくっきりと痣となって浮かび上がった。背中の傷と相まって、さらに醜くおぞましくなった娘は再び世に拒まれ続けた。

 十七回目の産声を発した時、名前をもらった。なかなか子宝に恵まれなかった家の子として生まれ落ちたのだ。痣に恐れおののいた母親だったが、健やかに育てようと誓う。その娘は妖艶に美しく育った。それが災いし、遊郭に身を落とすことになる。

 廓の婆は彼女に源氏名を与えた。


 名は、紀蝶という。

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