Spirit《スピリット》

松月彼方

第1章 幸運の招き猫

幸運の招き猫 1

 成宮なるみや新羽しんばは、蒼波あおなみ中一年のサッカー部員である。サッカーが大好きで、小学校時代は地域の少年サッカーチームに所属し、毎日サッカーボールを蹴っていた。


 新羽がサッカーと出会ったのは、小学校一年生の春のことであった。当時、まだ小学校に入学して間もなかった新羽は、学校からの帰り道、怪我を負った子猫を追いかけて友達とはぐれ、見知らぬ街を泣きながら彷徨っていた。そんな新羽に声を掛けてくれたのは、偶然辿り着いた公園で一人サッカーの練習をしていた二十歳くらいの青年であった。青年は、地元のプロサッカーチームに入団したばかりで、新羽と同じ一年生なのだと明かし、泣きじゃくる新羽を連れて街を歩き回り、家まで送り届けるまでの間、サッカーの魅力についてたくさん語ってくれた。


 迷子になったことへの不安とパニックで、青年の顔をはっきりとは覚えていなかったが、あの青年がくれた赤と黄のリストバンドを、新羽は今でも大切にし、御守り代わりに通学用のリュックサックにつけている。どんな思いや願いを込めて書かれたものかはわからないが、そのリストバンドに書かれた不器用ながらも力強い「気」という字が、新羽のお気に入りであった。この字を見ると、どこからか身体中からだじゅうに力が湧いてきて、どんな困難にも打ち勝てる気がするのだ。


 あの日以来、あの青年には一度も会うことができていない。しかし、幼い新羽に手を差し伸べ、サッカーの魅力を教えてくれた優しい青年に強い憧れを抱いた新羽は、その後すぐに地域の少年サッカーチームに入団したのであった。


 そして、青年との出会いから六年が経った今年の春、新羽は地元の蒼波中学校に進学し、かつては全国大会に出場し、ベスト8まで進出した経験を持つ強豪サッカー部に入部した。


 一学年二百人強の蒼波中は、蒼波小、朝陽あさひ小、土谷つちや小、森明しんめい小の四つの小学校出身の生徒が集まっている。どの学年においても蒼波小出身の生徒が約百四十人と一番多く、次いで朝陽小が約六十人、土谷小が十人前後で、森明小出身の生徒は片手で数えられるほどの人数である。土谷小と森明小では、ほとんどの児童がそれぞれ隣接する別の地区の中学へと進学しており、区域の境に家がある一部の児童のみに蒼波中へ進学する選択肢が与えられているのだ。


 新羽は朝陽小出身であるが、今では他の小学校から来た数人のサッカー部員と親しくなり、彼らと過ごす時間が楽しくて仕方がなかった。今もこうして、蒼波小出身で同じクラスのサッカー部員、小松こまつ遥真はるまと学校の中庭で軽いパス練習をしながら、穏やかな昼休みの時間を過ごしていた。


「遥真、英語の時間は散々だったね」


 新羽は、今日の四時間目の英語の授業での出来事を思い出して苦笑いを浮かべる。授業に集中せず、ぼーっとしているところを先生に当てられた遥真が、先生の「犬は英語で何ですか?」という質問に対し、パニックからか「ワン!」と答えてしまい、教室中の爆笑をかっさらったのだ。


「いやあ、恥ずかし過ぎて、教室から飛び出そうかと思ったよ」

 遥真が頭を掻いて照れるように笑う。


「考え事でもしてたの?」

 新羽も笑って尋ねる。


「この前、花札のこいこいで初めておばあちゃんに勝ってね、そのお祝いに買ってもらった忍刀型のステンレスの定規を眺めながら考えてたんだ。もし今教室に悪い奴が乱入してきたら、これでどうやって戦おうかってね。だから、全然先生の話聞いてなくてパニックになっちゃったんだよ。いくらバカな僕だって、あれくらいならわかるよ。犬はドッグで猫はキャットだもん」

 遥真が自信満々に言う。


「猫と言えば……俺、ちょっと遥真に相談があるんだけど……」


 猫と聞いて新羽は、ふいにとある相談事を思い出して遥真の方へと歩み寄る。


「相談? どうしたの?」

 新羽の肩ほどの身長である遥真が、新羽を見上げて尋ねる。


「あのさ、俺ん家の近所のおばあちゃんが飼ってる猫が行方不明になっちゃったんだ。俺もよく可愛がってたし、何しろおばあちゃんがすごく悲しんでてさ、俺、絶対連れて帰るっておばあちゃんと約束したんだ。だから、もし良かったら一緒に探してくれないかな?」


 近所のおばあちゃんには、幼い頃からお世話になっており、実孫のようによく可愛がってもらっている。そんな優しいおばあちゃんがひどく悲しんでいるのに、何もせずただ愛猫の帰りを待っているだけなんて、そんなことできるはずがない。


「新羽、動物大好きだもんね。よし、僕も一緒に探すよ」

 遥真がカールがかった髪をふわふわと揺らしながら、こくこくと頷く。


「本当?」


「うん、本当だよ。それで、何色の猫なの?」


「白と黒と茶色の三毛猫。しっぽの先が曲がってるのが特徴で、名前はミケって言うんだ。鍵しっぽは幸運を引っ掛けてきてくれるんだよ」


「ミケ! じゃあ、さっそく今日の帰りに探しに行こう。最近はこの辺りも物騒になったって僕ん家のおばあちゃんが言ってたよ。だから、ミケが悪い奴に誘拐される前に見つけてあげないとだよ」

 遥真が真剣な眼差しを新羽に向ける。


「猫も誘拐されるの?」

 遥真の発言に、新羽の不安は大きくなる。


「うん、悪い奴は何するかわかんないよ。だって、一年前に駅前の腕時計屋さんで起きた強盗事件の犯人も、まだ捕まってないんだもん。僕、あのとき、偶々おばあちゃんと買い物帰りにあのお店の前を歩いてて、背が高くて細い人とぽっちゃりで小さな人の凸凹コンビが、大っきな鞄を抱えて走って逃げていくのを見かけたんだ。だから、ミケも早く見つけて、安全なお家に帰してあげないとね」


「そうだね、ありがとう!」


 遥真はどんな些細な相談も、いつだって親身になって聞いてくれる。そんな良き友に巡り会わせてくれたどこかの出会いの神様に、新羽は心から感謝した。

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