A-2

     「少しずつズレていく日常」


その日から、君は「おかしい」と感じることが増えた。

ほんの小さな違和感。

朝、駅までの道。

すれ違った人が、何か言いかけて、ふと口を閉ざす。

教室に入ると、隣の席の誰かが、不自然に目をそらした。

友だちの笑い声が、どこか遠くで響いている気がした。

まるでガラス越しから聞こえるような、くぐもった音。

(……おかしい。)

でも、誰もそのことには触れない。

先生はいつも通りに出席を取り、黒板にチョークを走らせる。

クラスメイトたちも、ふつうに話している。

君だけが、その「ズレ」に気づいている。

君だけが、取り残されている。

昼休み。

君は、そっと窓際に座った。

遠くで、体育館のほうから笛の音が聞こえる。

だけど、それもどこかひどく遠い。

ポケットに手を入れる。

あの、鍵がある。

拾ったはずのその鍵。

何のためのものなのか、まだわからない。

だけど、どうしても手放せなかった。

鍵を握ると、ほんの少しだけ落ち着く気がした。

(なんなんだ……これは。)

教室の隅。

ひとつだけ、使われていない机がある。

そこに、誰かが座っていた気がする。

でも、思い出せない。

名前も、顔も、声も。

その席は、ずっと空席のままだった。

なのに、君の記憶のどこかには、そこに「誰かがいた」という確信が残っている。

「おい、どうしたんだ?」

不意に、肩を叩かれた。

驚いて顔を上げると、クラスメイトのひとりがそこに立っている。

でも、君はすぐに気づいた。

その目が、ほんのわずかに揺れていることに。

まるで、何かを隠しているみたいに。

「……いや、なんでもない。」

君はそう答えた。

自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。

本当は、誰かに「おかしい」と伝えたかったはずなのに。

それを言った瞬間、何かが壊れてしまいそうで、怖かった。

君は、またポケットの鍵を握りしめた。

冷たさが、じんわりと手のひらに伝わる。

それが、唯一の「本当」だった。

日常は、何も変わっていない。

誰も、何も気づいていない。

でも、君にはわかってしまった。

少しずつ。

ほんの少しずつ。

この世界が、ズレていっている。

そして君だけが、そのズレに気づいている。

――それが、何よりも恐ろしかった。

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