A-2
「少しずつズレていく日常」
その日から、君は「おかしい」と感じることが増えた。
ほんの小さな違和感。
朝、駅までの道。
すれ違った人が、何か言いかけて、ふと口を閉ざす。
教室に入ると、隣の席の誰かが、不自然に目をそらした。
友だちの笑い声が、どこか遠くで響いている気がした。
まるでガラス越しから聞こえるような、くぐもった音。
(……おかしい。)
でも、誰もそのことには触れない。
先生はいつも通りに出席を取り、黒板にチョークを走らせる。
クラスメイトたちも、ふつうに話している。
君だけが、その「ズレ」に気づいている。
君だけが、取り残されている。
◇
昼休み。
君は、そっと窓際に座った。
遠くで、体育館のほうから笛の音が聞こえる。
だけど、それもどこかひどく遠い。
ポケットに手を入れる。
あの、鍵がある。
拾ったはずのその鍵。
何のためのものなのか、まだわからない。
だけど、どうしても手放せなかった。
鍵を握ると、ほんの少しだけ落ち着く気がした。
(なんなんだ……これは。)
教室の隅。
ひとつだけ、使われていない机がある。
そこに、誰かが座っていた気がする。
でも、思い出せない。
名前も、顔も、声も。
その席は、ずっと空席のままだった。
なのに、君の記憶のどこかには、そこに「誰かがいた」という確信が残っている。
◇
「おい、どうしたんだ?」
不意に、肩を叩かれた。
驚いて顔を上げると、クラスメイトのひとりがそこに立っている。
でも、君はすぐに気づいた。
その目が、ほんのわずかに揺れていることに。
まるで、何かを隠しているみたいに。
「……いや、なんでもない。」
君はそう答えた。
自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。
本当は、誰かに「おかしい」と伝えたかったはずなのに。
それを言った瞬間、何かが壊れてしまいそうで、怖かった。
君は、またポケットの鍵を握りしめた。
冷たさが、じんわりと手のひらに伝わる。
それが、唯一の「本当」だった。
◇
日常は、何も変わっていない。
誰も、何も気づいていない。
でも、君にはわかってしまった。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
この世界が、ズレていっている。
そして君だけが、そのズレに気づいている。
――それが、何よりも恐ろしかった。
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