海の見えるマンション

 エンジンが掛かったまま路上に停まっている小型二輪を見つけ、良子はそれに跨り、混沌の卍田市を疾走した。実真に会い、要件を済ませ、もう一方の巨悪を叩くために。

 良子はアロンより早く実真に連絡を入れていたため、事は迅速に運び、マンタビーチから徒歩でおよそ三十分の十階建てマンションへもあっという間だった。

 マンションの入り口で急ブレーキ。魔の気に敏感な良子だが、今回はより異質なこともあり、平気ではいられない。外から見上げているだけでも感じられる強烈な魔の気に鳥肌が立った。これまでの疾走を阻み、飛び掛かってきたタコ脚たちとは別格の、手強い敵が待ち受けていると分かる。

 良子は大きく息を吸って吐き、要警戒でマンションに立ち入った。……後に続く一つのうねりを気にせず。


 エレベーターではなく階段で五階に上がり、合鍵で彼の家の扉を開けようとしたが、鍵穴は実の穴だった。既に開いていたのだ。

 息を呑み、手が微かに震える中でも良子は土足で上がることに罪を覚え、丁寧にローファーを揃えて上がり框を越えた。

 強い魔の気は外からなら、強いものが一つある、と分かるのだが、内部に移ると他の魔の気が邪魔で、厳密にどこにいるのかが分からなくなったので一先ずここを調べることにした。

「いない」

 リビングに犯人はいなかった。または既に移動したか。小さな呟きが自身の耳に残るほど、ここには音を立てるものが存在していなかった。

 偽りの卍田市とはいえ、現在は金曜日の夜。マンションの各部屋に人間がいたはず。それらが全てタコ脚と化した。被害なき505号室にいても、ビチャ……ビチャ……と、床や壁を打つ触手の音が微かに聞こえてくるものの、壁を隔てているからには他人事のように思えてくる。

 水平線の魔物ビッグパスから貰った力で卍田市をここまで蹂躙した犯人がマンションのどこかに潜んでいるのは確かで、それを討つ目的で赴いた良子だが、窓から飛び降りる以外、逃げ場のない場所で一人になると寒気が押し寄せてくる。勝たなければならないが、勝つ確信などないからだ。

 険しい表情で、堪らず踵を返す。すると……。

「あっ」

 良子の後を付けていた小さな触手が、廊下へ続くところでうねりを止めていた。目も口もないのに、いくつもの吸盤がこちらをジッと見ているように思わせる。

 何かある。良子もジッと窺うと、ここじゃない、と言わんばかりに外へ這っていくので、戸惑いながらも追いかけることにした。

 

 這うタケノコを追い、気付けば十階に到達した。そこから更に屋上へ。ステンレス製の扉を開いた途端、マンション中の魔の気が四方へ分散された感覚を味わった。

 大きな魔の気が一つだけ残り、良子の前に留まっている。

「櫛名良子か」

 最奥の手すりに腕を乗せ、遠くを見つめている者が一人。こうなれば魔の気を感じることができなくとも確信できる。自分たちの他にタコ脚と化していない者がいれば、それが犯人に他ならないからだ。

(何と悍ましい)

 だが、それは最早、既に人間の体を為していなかった。

 振り返った男は、元は純白のスーツを赤黒く染め、頭を始めとする素肌も全てその色に染まっている。悍ましき悪鬼羅刹をいくつも見てきた良子を以てしても背筋が凍るほど、ひたすらに赤黒かった。

「聞いてくれよ。確かにあのデカブツは卍田市を潰すつもりだった。そのために卍田市では数少ない、卍田市が潰れても悲しまない私を採用し、このように力を給わしてくれたようだが、ちょっと呆気なさ過ぎないか? 君のような異例を除いて、卍田市ご自慢の武装警察さえも容易く寄生に屈したんだぞ? こんなにやり応えのない戦争が歴史上にあっただろうか?」

 目を細める良子にフンと鼻を鳴らし、ミスターラジオは遠くの光景を指差した。

 十階建てマンションの屋上だが、周辺にはここより高い建物がいくつかある。しかし、奇跡的にそれらを躱し、マンタビーチを覗き見ることができるのだ。思わず良子も歩を進め、目を凝らして見つめざるを得ない展開が巻き起こっていた。

「ここからマンタビーチが見えるって、蝋木亜路君は知らないんだろうな。まあ、彼のルーティンもこうなっては無駄となったわけだが。しかし、あのドロシーという少女、もしかしてギィネガイクルと同じような存在なのか? 今のところ拮抗しているようだけど、どちらに軍配が上がるのやら」

 良子はミスターラジオを訝しんだ。この男と水平線の魔物ビッグパスが相棒か主従かは不明で、気にする事柄でもないが、全てを決する悪魔同士の戦いにさしてのめり込んでいないのが、意外というより、何を考えているのか分からず不気味な感じだった。

 そして、考えが見透かされているような言葉を並べられると、ドクドクと心臓が激しく音を立てた。

「具体的に何をやれとは言われてないんだよね。関する者を殺せとか言ってたけど、別に従う筋合いじゃないし。思えば一方的に力を与えられただけで、私もあのデカブツの被害者だがらね。せっかくの力だし、これで蝋木亜路君の世界をもっと面白くしてあげようとは思ったけど。ほら、蝋木亜路君と、邪魔者を挟まずゆっくりお話しをして、人殺しの君がどうして平然と溶け込めるのか、と問うには、他の人間を全て消しておくのが最高効率だろ?

 だからやった。私がやりました。楽しかったです。別にいいよ。叱責は受け付けない。人生楽しんだもん勝ちって言うだろ? そのためにこれが最善だった」

 段々とこの男の声音を耳に通すのが苦痛となり、良子は首を振って視線を逸らした。

 この男は会話にならない。反省をしない。

 そう断定でき、この男を最終的にどうするかまでは決めかねていた良子の決意が固まる。

「許されざる行いをした自覚はありますか?」

「は? ないよ。つぅか、許すも許さないも関係なくなるでしょ? 最後には私と蝋木亜路君しか残らない。デカブツがちょっと余計だけど。とにかく私は蝋木亜路君に面白くなるコツを教わって、それが済んだら……せっかくのチャンスだ。様々な拷問をやって、殺して、卍田市を滅ぼした悪魔となろう。勿論、誰も私がやったことには気付かない。目撃者も証拠もなくなるんだから、それならこっちも悔いる必要がないんだよ。完全犯罪だ! 分かる?」

 醜いものを蔑む眼差しに変わった良子。ミスターラジオも変化を察し、たかだか少し特別で、奇跡的に惨劇を免れているだけの生娘に見下されるのが癪に障るも、話したい気分だったから話を続けた。

「卍田市をこのようにしたのは私の独断だ。デカブツはあのようにドロシーに集中している。まだ上陸していない。昔から子供たちを卍田市に放っていたようだけど、それくらいは、仮に公になっていたとしても武装警察だけで対処できるほどのこと。何よりもドロシーを殺すことに集中しなくてはならなかったから、バレず子供たちを大量に産むより、私に人類を子供へ変貌させるウイルスを譲った方が早いと思ったのだろうね。私としては力を得た時点で協力する気は起きなかったのだけど、結果、お役に立てて何より」

「もういいです」

「そうだね。君は綺麗だが、惹かれるほどではない」

 ミスターラジオは見下されても堪えたが、良子は堪え切れなかった。

 これを始末する。他の思いなど一厘も宿さない迫真の形相に変わった。

「ははははっ!」

 ミスターラジオは高笑い、天を仰ぐと、周囲にドロッとした水流を生み、身を覆い、柔らかくも容易には断てない、赤黒い鮮血の鎧を纏った。

「見せてみなよ、君の殺意を! 心配はいらない! 君の四肢を裂いてから蝋木亜路君の前に差し出して、絶望を味わわせてから殺してあげる!」

「そのような所業……たとえどの時代、これほどの街でも許されません。成敗します!」

 乖離した愚者に激怒し、良子は腕に抱えたタコ脚を天に放った。

「行きますよ、けんぜんまる! 変身です!」

 健全丸と呼ばれる、良子の『魔を以て魔を制す』力が発揮される。健全丸は桃色の塊に変わり、四散し、良子に降り注いだ。時折、桃色の雨の中に青色が混じっており、その効果を肌で理解すると、良子は二ッと笑み、シャワーに浸るような暫しの瞑目を経て開眼。桃色の眼光で、刀身に吸盤の紋がいくつも付いた剣を握った。

「覚悟なさい、このストーカー!」

「お前もな!」

 同時に攻め掛かる。遠くで二つの巨大な影がせめぎ合う中、卍田市の未来を占うもう一つの決戦が幕を開けた。

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