良子、やばい子 Ⅲ

 アロンは無意識のうちに駆け出した。

 どこへ逃げればいいかなど分からない。ひたすら遠くへ、という思いで両脚を振っていると、タコ脚に道を塞がれること数回、誘導され、気付けば三階まで駆け上がっていた。

 3年1組の教室を目前とするところだった。

 卍田第一高校は各教室に鍵を掛けない。教室の後ろに南京錠推奨のロッカーが設けられており、それで防犯を為している。

 そのため、行き止まりであろうと寿命を延ばすにはそこしかないと、3年1組の扉を開け、タコ脚を躱して中へ飛んだ。

 受け身など取れず、頭を押さえて転がるアロン。うつ伏せで、ドクドクと弾む胸を押さえていた。

 コッ……コッ……コッ……。

 そこに軽やかな足取りでやってくる者がいる。

 息を荒げても鮮明に聞こえる足音。それが止み、開け放した扉の先を見ると……。

「ウフフフフフフ」

 薄気味悪い笑みを浮かべている、恐るべき彼女が立っていた。

「見ぃつけました」

 紅潮した頬は暗闇でもはっきりとしており、総毛立った。

「アロン君」

 アロンは呼吸が落ち着かず、黙って見上げることしかできない。

「どうして逃げてしまったのですか?」

 細い首を曲げて問う美少女と、二人きりの教室。何てロマンチックな場面だろう……とは微塵も思わなかった。

「君は……」

 仰向けに変えた自分を見下ろし、優越感に浸っている様子の良子。であれば、まだ会話の余地があるかもしれないと、アロンは残る気力をここで放つ賭けに出る。

「つまり……正義の味方?」

 そう言われるのが意外だったのか、良子はまるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、即座にご馳走を前にする卑しい獣へ戻った。

「そのように思っていただけるのなら、とても嬉しいです。アロン君、アロン君……ウフ」

 勝手に身悶えする良子。考えてはいけないと直感してアロンは目を逸らした。

「私たちの活動は政府に認可されています。というより、政府というものが形を成すよりも長い歴史がありますから、向こうとしても私たちに頼らざるを得ない場合というのは多々あるのです」

「僕の父も知っている?」

「知っているのは極一部です。私たちが目立つ存在を討ち果たす場合などは、危険視していたほどではなく勝手に倒れた、などという誤情報で誤魔化されますので」

「そんな櫛名さんたちが、二年もあれを放置して、今になって動き出したということは」

「はい。水平線の魔物ビッグパスと呼ばれている『七匹ノ悪魔』の第二匹目は、もうじき卍田市の侵略を開始し、最後にはこの世界をも破壊し尽くすことでしょう」

 言い分を呑み込んだわけではないが、自分も部外者ではないと思うと、重責や、とても自分が貢献できる規模の話ではないことから、止めどない焦燥感に襲われる。

「その気になればいつでも卍田市を滅ぼせるってドロシーも言っていた。でも、侵略が近いなんて」

「同じ『七匹ノ悪魔』でも、危機察知能力は私たちの方が上のようですね」

「どうして分かる?」

「魔の気です」

 よく聞かされる独特の単語に息を呑む。

「魔の気を探知できる独占技術があるのです。二年前、卍田市の海岸より四百メートル先に水平線の魔物ビッグパスが現れたその瞬間から、私たちはあれが超巨大未確認生物などというネタで済む存在ではないと分かっていました」

 良子は両腕の変態を解き、本来敵視するはずの巨大なタコ脚を一つ撫でた。我が子を慈しむような眼差しと、柔らかい撫でよう。奇怪な光景に他ならない。

「卍田市の魔の気が飛躍的に上昇した、先々週の土曜日。私も同志も肝を冷やしました。新たな悪魔が現れたと知るまでは水平線の魔物ビッグパスが動き出したのかと思い、慌てたものです。

 以降、ドロシーさんとアロン君を遠くから監視していました。監視者に魔の気などありませんから、ドロシーさんでも察知できなかったはずです。

 しかし、ある日を境に水平線の魔物ビッグパスの放つ魔力が活発化したのです。まるで怒っているように」

「それも……先々週?」

 憐れむ目で頷く良子。

「ドロシーさんは、水平線の魔物ビッグパスが子供を殺されて怒っていることに気が付いていないのでしょうか?」

 アロンにとって引っ掛かる物言いだった。

「まさか、水平線の魔物ビッグパスを引きずり出すためにわざとやっているのなら話は別ですけど」

「何だって?」

 明白な敵意で睨むアロン。

「監視の届かない場所でアロン君がドロシーさんに洗脳され、従順な下僕にさせられている、などという可能性もあり得ますのでね」

「ドロシーがそんな小賢しいことするものか」

「それは何よりです。私たちも規格外の脅威を二匹も相手にするなど勘弁願いたいところですから、そうあってほしいものです」

「ドロシーを信じるか信じないかは勝手にすればいい。いくら櫛名さんが専門家だとしても、今回は出る幕じゃない」

「どういう意味ですか?」

 訝しむ良子。

水平線の魔物ビッグパスはドロシーが倒す。それから死体を少し持ち帰って、クラスのみんなでタコパを開催する予定だからね。櫛名さんも是非」

 目を剥く良子に、してやったり、という手応えを得るアロンだが、それが段々と落胆の表情へ移り戸惑う。

「どうやらドロシーさんすらも大きな誤解をしているようですね」

「誤解?」

 床に腰を着けたままロッカーに背を預けるアロン。

「卍田市に蔓延る子供たちを始末すればいい。それで卍田市の平和は守られる」

「そう。ドロシーこそ正義の味方だ」

 良子は呆れ果て、首を左右へゆっくり振った。落胆の後に出た表情は、憐れみか、よりはっきりとした蔑みの色をしている。

「もし、ドロシーさんと水平線の魔物ビッグパスが直接衝突したらどうなります?」

「どうって、ドロシーが愛剣で嵐を巻き起こしてやっつけてくれるはず」

「それだけで済むはずがありません。これまでの子供たちとは勝負のスケールが変わるのですよ?」

「ドロシーだって加減はする。卍田市に危害は及ばない。というより、どうやって接近するかだけど」

「アロン君、悪魔同士の本気の殺し合いとなれば、アロン君の知るドロシーさんのままではいられなくなるのです。形態を変えなければ相手を上回ることができませんから。そうなれば甚大な被害が出てしまいます。いくら水平線の決戦であれ、彼女らが本気で暴れ出せば、津波だけで卍田市は諸共に沈むのです」

 想像しただけで恐ろしい光景だが、新たな気掛かりが生まれた。

「形態?」

「『七匹ノ悪魔』には四段階の形態があるそうです。アロン君の知るドロシーさんは唯一まともな第一形態『人型形態』です。実真先生の受け売りですが、『七匹ノ悪魔』が第二、第三へと移行し、相対すれば、四百メートルなど目と鼻の先なのです。そして、最終形態ともなれば、この世界は持ちません」


 ――人間界を一つ滅ぼすくらい単騎でイケるのだし。


 保健室でも聞かされた話で、ドロシー、実真、水平線の魔物ビッグパス……それぞれの超常的な力の一端を見せられているからには大袈裟と思えない。アロンは頭から血の気が引いていくのを確かに感じていた。

「その気がなくても悪魔同士が本気で殺し合ったら、巻き添えの形で僕たちも殺される。いや、巻き添えのつもりもなく、情もなく……」

「そうです」

「劣情もなく」

「ゴハッ⁉」

 血反吐を吐く勢いで良子は驚愕した。

「今それを言いますか!」

「いや、ごめん……アハハハ!」

「くぅ、笑わないでください! 頑張って真剣に話してるのに! 無理やり襲いますよ!」

「ハハハハ! ごめんって! それは本当に勘弁」

 今度の紅潮はアロンにも理解できるもので、絶望的な状況でも笑いが込み上げてきた。

「アロン君!」

「だって、それは絶対にないよ。ドロシーが世界を滅ぼすなんて」

「どうしてそう言い切れるのですか? 付き合いがあるとはいえ、彼女の本質を全て理解しているわけではないはず。ドロシーさんが変貌したら危害は――」

「絶対大丈夫」

「どうして!」

 あまりにも解せず、良子は真っ当な疑念を抱く。

 対するアロンは、追い詰められた側などとんでもない、十全にして不敵な笑みを浮かべている。一切の邪心も魔の気も寄せ付けない尊厳があった。

「ドロシーには愛情がありますから。僕だけじゃない、みんなの願いを裏切るような子じゃないんですよ。だって、まだ出会って十日目なのに、これだけ信じられる。初めて会った時は止めましたけど、次は止めないと思います」

 たかが十日間の絆だ。

 それでも全幅の信頼を寄せられる。今日、これまでに受けた実情はどれも呑み込むのが困難なものばかりだったが、ドロシーに関する部分であれば一切の惑いがなくなるのだ。

「……安易ですし、思うことも沢山ありますけど、説得は難しいとよく分かりました」

 良子が決意を改めたのを感じ、悪寒に押されて自然と立ち上がった。

「アロン君がドロシーさんを説得してくれるのであれば、このような脅迫など……仕方ありませんね」

 ムッと眉間の皺を寄せる良子に汗を垂らして笑みを続ける。気持ちでは優位に立てているつもりで。

「そうだね。こんなやり方を取る最低な女子だ。正義の味方というのも僕の勘違いだったらしい」

「私よりドロシーさんを信じる、というのがアロン君の揺るぎない意志のようですね。けど、私のやり方の方が確実です。これ以上、卍田市に潜むタコ脚に手を出したり、あまつさえ水平線の魔物ビッグパスに挑もうなどとされては迷惑です。なので――」

(来るか)

 グッと両脚に力を込めると、タコ脚たちの先端が一斉にこちらを向いた。

「もっと追い詰めて、服従させて、ドロシーさんを脅迫するしかないようですね。というわけでいただきます」

「嘘だな! どう転がってもそのつもりだったくせに!」

 まずは教室から出るため、タコ脚たちが仕掛けるよりも先に前の扉を目指して駆けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る