ドロシー!

壬生諦

プロローグ

保健室の魔女

 高三になって初めて保健室に足を運んだ。

 最後の一年もまだ一週目が終わったばかりだが、同級生が更に一年後の生活を見越してあらゆることに励んでいる頃、この青年は、薬品の妙な匂いが鼻をくすぐる保健室の様相に口を開けたままでいた。

「いらっしゃい、アロン君。待ってたわ」

(アロン)

 奥には真っ白なベッドが二つ並び、手前にグレーのデスクが置かれている。そこの回転椅子に座る女性の微笑みに迎えられる。ろうは呆気に取られるも、ハッとなって扉を閉めた。

「すみません」

「謝ることなんてないわ。あなたは誰よりも重症なのだからね」

 養護教諭のとアロンは、廊下ですれ違う際に挨拶を交わす程度の、凡な教員と生徒の関係でしかない。

 実真は男女、生徒教員問わず、つい目で追ってしまうほどに完成された容姿の持ち主で、どこか妖艶な風味を醸す佇まいからして、まん第一高校で最も美しい存在として皆に夢を与えている。

 推定二十代半ばながら、誰彼関係なく包み込むような振る舞いをする反面、重症、ときっぱり言ってしまう冷たさも兼ね揃えているため、一分は実真を『保健室の魔女』と称す。

 幾人もの男子生徒が実真に本気のアプローチを試み、保健室へ突貫、元の威勢を喪失した状態で引き返す……そのような結果が後を絶たないことをアロンも知っているため、尚更この状況が分からなかった。

 アロンは進んで保健室を訪れたわけではなく、金曜日の今日、連れ二人と食堂で昼食を済ませ、教室に戻る前にトイレへ寄ろうと、いつもの足取り、いつもの廊下を往く際に、過去にない出来事が起こり、ここへ来る運びとなったのだ。


 ――あなた、放課後、保健室にいらっしゃいな。ほんの少しだけ、あなたの影を減らしてあげる。


 頭が真っ白になるほどの不意だった。アロンも口上手な方だが、この不意打ちには固まり、それだけ言って踵を返した実真の背中もよく覚えていないほど。

 アロンがよく絡む二人の連れ。卍田市一のワルを目指す不良のむらさきかいと、肥満でオタクだが切れ者のじろばくは、茶化しもせず、

「何だ今の」

「はて」

 と、ぼんやり見ていた。

 一拍置いてから周囲の生徒たちが一斉に驚愕し出したため、それでアロンも事の異常さに気付いた。

 女子たちに囲まれて関係を問われ、咽び泣く男子に胸倉を掴まれもしたが、アロンとしては『保健室の魔女』に期待することなど何もなかったため、苦笑い、やり過ごす他なかった。

 胸倉を掴んだ男子も同様、アロンの事情を失念していることに遅く気が付き、慌てて手を離した。アロンは謝罪さえ適当にやり過ごし、いつの間にかいなくなっていた連れの胸倉を追った。


 一見黒髪のようで、よく見ると青み掛かっている、いわゆるブルーブラックのポニーテールをフワッと揺らす実真。彼女の毛先が絶妙に跳ねていることを初めて意識したアロン。

 白衣の中に黒のフォーマルドレスを合わせるなど、よっぽど自信がなければ不可能なファッションを容易く実現する美女と真っ直ぐ向き合うと、流石に緊張が押し寄せてくる。

 骨まで見透かしてくるような魔女の瞳。それを直視し続けるのは困難で、自分たちより激しい水槽に視線を逃した。激しいのはろ過機で、中のチンアナゴも似たようなものだった。

「来ましたけど」

「座って」

「えっと、どこに?」

「好きなところに」

(分からん……)

 戸惑う男子にクスッと笑む。

「ここ使って」

 実真は自分の椅子を譲った。

 言われるまま座り、机の正面に貼られた、教員用の予定表や、体調管理の基礎を伝えるポスターなどをぼんやり見ていると、ガチャッと音が聞こえ、反射的に首がそっちへ向いた。保健室に鍵を掛けられたのだ。

 眉を潜めるアロンに、実真は満面の笑みで返す。

(印象通り、不思議な女性ひとだなぁ)

 アロンの視線は、次は天井の白い蛍光灯に移った。

 白衣のポケットに手を入れ、カーテンが開放されたベッドに腰掛けた実真の、これも青み掛かった瞳は、アロンの情動を弄ぶよう。

「さて、アロン君」

 吐息混じりに呼ばれ、アロンの返事は裏返った。

 とはいえ、咳払いするアロンこそ実真にとっては意外で、瞬きをして立ち上がった。

「コーヒーでいいかしら?」

「あっ、はい。ありがとうございます」

 コーヒーが得意ではないのを言える感じではなかった。


「妹さんのことは残念だったわね」


「……え?」

 急激に、床に伏してしまいたいほど頭が重くなった。

 妹。その単語一つで、ピーッという電子音が聞こえ出し、アロンは喉がカラカラになった。さっさとコーヒーを恵んでくれよと、信じられないほどの短気に入る。額に汗が浮かび上がるも、拭う両手も甲まで汗ばんでいて、ひたすらに気分が悪い。

「紳士淑女の都、この卍田市で、人が殺される瞬間に立ち会うことなんて滅多にないでしょうに。その若さ、よりにもよってたった一人の妹さんだなんて尚更」 

 吐き気から逃れるため、大きく息を吸って吐く。それでも誤魔化せないものがある。

 妖しい魅力に溢れ、正しく妹の死によりうらぶれたこの身を案じて保健室に招いてくれたはずの女性が……。

「あり得ないことよね。掻い摘んだ情報しか知り得ないけど、まさか体内からタコの脚が生えてくるなんて。『水平線の魔物ビッグパス』と関係があるのかしらね」

 妖艶なブルーブラックから、モノクロの魅惑から、猛烈な吐き気がして止まない。

(何が分かる)

 あの瞬間。平穏で、快適で、この先もずっと続いていくものだと信じられた日常。それを崩す出来事。

「うっ」

 その、あり得ない、を誰よりも鮮明に見つめ、世に放たず内々で収められた真実を胸に刻むアロンは、当時の光景を思い出し、呼吸が容易でなくなる。

(何が目的で)

 養護教諭の女は、すぐそこに顔面蒼白の生徒がいようとも構わずコーヒーを用意している。ポニーテールの横髪や、露わな首元も確かに劣情を駆り立てるものだが、気味悪さが上回り、堪らず目を瞑った。

 保健室の魔女。しかして過剰な毒。突貫し、玉砕した男子たちがシナシナになって保健室を後にしたというのは、こういうことだったのか。

 気が楽になるまで便器に座るか、冷水をがぶ飲みしないと気が済まないところまで追い込まれると、アロンは我慢できなくなった。

「実真先生、要件を言ってくれませんか?」

「あら、顔色が悪いわね。横になったら?」

(この女!)

 殺気立つアロンと違い、実真は気分を害して以降のアロンに一度も振り向いていない。それなのに気分を案じてくるのが不気味でならなかった。

「結構です。それに、もう金輪際ここには来ません」

 椅子から離れた途端、立ち眩みを起こすも、こんな魔境より廊下の空気が恋しい。

 止める素振りも見せず、コーヒーをマグカップに淹れる実真。

 初めての保健室は心底不快な体験となった。『保健室の魔女』とはそのまま、最悪な女だった、と感想を抱くアロン。だからこそ、


「それで、あなたが殺したの?」


 全てひっくり返ってしまいそうな、最後の不意打ちは確実に脳天を突くようなものだったため、両脚に力を込める必要があった。

「やばっ」

 びしょ濡れの手を口元にやり、耐えた。

 湯気立つマグカップとミルクなど一式を乗せたトレーを持ち、いよいよ両脚まで震え出す生徒を前に、何気ない笑みを浮かべている魔女。アロンは思わず、想像以上にやばい女なのか、と恐れを為す。

「ほら、座りなさいな」

「いえ、僕は……」

 本当にいま気付いたように、衰弱したアロンに目を丸くしている。

「あら、酷く参っているようね」

「……何がです」

「大切な家族を失ったとはいえ、失っただけでそういう状態にはならないはず。ただでさえあなたは、卍田第一高校を代表する紳士なのに」

「知ったような……。まともに話すのはこれが初めてでしょ? まともじゃないですけど、お互い」

「私は……そうね。教えてくれたら、教えてあげてもいいかも」

「何を」

「あなたが知りたい私の全て」

 デスクにトレーが、アロン用のコーヒーが静かに置かれたが、手を付ける余裕はなかった。

「ま、今回はお近付きになれただけで良しとしましょうか。詳しい話はまた次の機会にね」

 立ち尽くすアロンに代わり、扉の鍵を外す実真。

「また来てね」

「もう二度と」

「そっけなぁい。私の腕は本物なのに」

「評判は聞いてます。骨折しても寝て起きたら完治するほどだと」

「でしょ? いつでも暴れていいからね」

「健康に生きます」

 呆れて扉を開くアロン。

「それで、何で閉めたんです?」

 率直に問うも、

「教えてくれたら、ね」

 返ってきたのはウインクだけだった。

 悔しいことに、今のやり取りは慣れた男と女みたいに思えてしまった。


「アロンくーん!」

「……もういいって」

 せめてもの反抗に、失礼しました、を省き、扉も開けっ放しにして去ってやったのだが、結局最後まで向こうのペースとなった。

 振り返ると、マグカップ片手に、余った手を大振りしている魔女がいた。

「やっぱり一つだけ教えてあげる!」

「何でしょう?」

「私はあなたがどんな男の子かを以前から知っていた。私はここで三年目。あなたとまともに話すのは今日が初めてだけど、あなたが本来、もっとユニークな男の子だって知っているから」

「どうして? 僕がモテモテだって」

「変わったモテ方のようだけどね」

 笑みは絶やさずも肩を竦めた。

「女の勘って言うでしょ? 私のそれは特に研ぎ澄まされているの。だから、あなたが噂や遠目で私を知っている以上に、私は噂や遠目だけであなたの深淵を見抜いている」

「難しい。どうやら僕がギリギリで留年を回避したことまでは知らない――」

「だからね」

 その時、実真の青み掛かった瞳がサファイアのように美しく、艶めいて見え、アロンは吸い込まれていく思いだった。

「あなた、大丈夫よ。呪われている、とも言えるけど、あなた次第でそれは幸せハッピーにも化けるから。これからの出来事を存分に楽しんでね」

 言い残し、実真は保健室に消えていった。

 アロンは汗ばんだ前髪をなぞり、

「何かが始まるって?」

 なんて零し、少しだけ軽くなった心で歩き出した。

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