第29話 闇が心を覆うとき
「アニスの口はまだ割れぬか。……まあ良い。どうせ隠れるとすればザックスの教会であろう」
アノス王は玉座から冷たく言い放った。
「ブロッケン将軍、直ちに兵を率い、教会へ向かえ。アリスとクレマンティーヌに与する見習い魔女どもを『保護』せよ。……もし抵抗するようならば、殺せ。この王の名において許可する」
アノス王の言葉はしんと静まり返った王の間に、氷のように突き刺さった。
重臣たちの顔には恐怖と、王への不信の色が隠しようもなく浮かぶ。
彼らはこの命令がもたらすであろう残酷な結末を予感していた。
「お待ちください、陛下!」
ローレルとアロマティカスの父である2人の貴族が、同時に進み出た。
「アリス姫君はこの国の正当なる世継ぎでございますぞ! まずはザックス神官に使いを出し、姫君のお考えを伺い、穏便に解決の道を探るのが筋かと存じます!」
「左様です、陛下! どうか、今一度、アリス姫君、アニス姫君と、ご家族水入らずでお話し合いの場を持たれては! 王妃様を亡くされた悲しみは皆様同じはず。きっと、お心を開かれるやもしれませぬ。わたくしめがザックス神官の元へ赴き、陛下のお心を伝え、姫君の説得にあたってまいりますゆえ!」
2人の貴族は必死の形相で王に諫言した。
彼らの声には王家への忠誠と、何より自分たちの娘が仕える王女たちの身を案じる、切実な思いが込められている。
「何を血迷ったことを!」
2人の忠言を遮ったのは、パルパティーン宰相の激昂した声だった。
「貴様ら、陛下のご意思に異を唱えるというのか! それこそ、紛れもない反逆であろうが!」
「宰相閣下!」
「よく考えよ! 何故、アリス姫は王宮に戻らぬのだ⁉ 何故、宮廷魔術師長を師と仰ぐ見習い魔女どもが1人として姿を見せぬ⁉ 何故、アニス姫は姉たちの居場所を頑なに告げぬ⁉ 何故、ザックス神官は陛下への報告を怠る⁉ これら全てが陛下に対する明確な叛意の表れではないか! それでも尚、陛下は慈悲深く、『保護』せよと、ブロッケン将軍にご命令なさったのだ! その陛下のお心を無下にするとは言語道断!」
宰相は大仰な身振りで捲し立てた。
目は怒りに燃えているようで、奥底には冷たい計算が見え隠れしている。
「ザックス神官が報告なさらぬのは、クレマンティーヌ様を不当に投獄なさった陛下に対し、不信感を抱いておられるからに他なりませぬ!」
「陛下! どうか、目を覚まされよ! クレマンティーヌ様の疑いを晴らし、キルア族を襲った真の賊を突き止めることこそが、今なすべきこと! さすれば、アリス姫様も、我らが娘たちも必ずやお戻りになりましょう!」
2人の貴族は宰相の恫喝にも怯むことなく、最後の望みを託して叫んだ。
だが、それが、彼らの最期の言葉となる。
アノス王は、ただ冷ややかにやり取りを眺めていた。
そして宰相が顎で合図すると、控えていた衛兵たちの剣が閃光のように煌めいた。
鈍い音と、短い悲鳴。血飛沫が舞い、床に二つの血溜まりが広がる。
ほんの数瞬前まで、王への忠誠と娘への愛情を訴えていた2人の貴族は物言わぬ骸と成り果てた。
王の間は死のような静寂に包まれる。
重臣たちの引きつった顔、荒い息遣い、床に広がる生々しい赤。誰もが、言葉を失っていた。
沈黙を破ったのはアノス王。
「……他に、意見のある者はいるか?」
王の声は低く、冷たく、感情が削ぎ落とされていた。
数秒の、永遠にも感じられる沈黙。誰もが、恐怖に支配され、身動き一つ取れない。
「……よろしい。では将軍、頼んだぞ」
アノス王は無表情にブロッケン将軍に命じた。
「はっ……」
将軍は苦渋に満ちた表情で、逆らうことなく深く頭を垂れた。
「陛下、お気になさいますな」
パルパティーン宰相が、アノス王に取り入るように滑らかな声で囁く。
「この2人はアリス姫の側近ローレル、アロマティカスの父。いずれアリス姫が王位を継がれた際に、重用されることが約束されていた身。元より陛下への忠誠心など、欠片も持ち合わせていなかったのです。むしろ反逆の芽を早期に摘み取れたと、喜ぶべきかと」
宰相の言葉を皮切りに、他の重臣たちも堰を切ったように宰相に同調し、自らの保身のための言葉を口にし始めた。
彼らの声は王の間の壁に虚しく響き、真実を覆い隠す薄汚れたヴェールのように垂れ込めていく。
ブロッケン将軍はそんな醜悪な光景に背を向け、重い足取りで教会へと向かうべく王の間を出て行った。
***
その頃、王宮の一室でアニスは自室に軟禁状態にあった。
扉の外には見張りの兵が立ち、自由は完全に奪われている。
先ほど忠実な侍女が、命がけで王の間での惨劇を知らせに来てくれた。
ローレルとアロマティカスの父親たちが、アリスと自分たちのために声を上げ、そして……殺された、と。
侍女が下がった後、アニスは崩れるようにベッドに座り込んだ。膝から力が抜け、全身が震える。
(嘘……でしょ……? ローレルとアロマティカスのお父様が……? あの優しい人たちが……どうして……?)
父は穏やかで、少し頑固だけど優しい王だったはずだ。
母アメリアと仲睦まじく、自分たち姉妹の奔放さにも、困った顔をしながら、結局は許してくれた。
それが、どうしてこんな……理解が追いつかない。現実感がない。
だが事実は事実として、重くアニスにのしかかる。
父が諫言しただけの貴族を、王の間で斬り殺したのだ。
混乱、悲しみ……ふつふつと、心の底から黒い感情が湧き上がってきた。
(……あの、馬鹿親父……! 何を血迷ってるの! あなたのせいで! あなたがしっかりしないから!)
怒りがアニスの全身を駆け巡る。
母を失った悲しみ、姉を心配する気持ち、仲間たちの危機、父への失望と怒り。それらが渾然一体となり、制御不能な魔力の奔流となって、彼女の身体から溢れ出した。
いつもの太陽のような輝かしい金色の魔力ではない。
それはどこまでも深く、冷たい……漆黒のオーラ。
『……こんな世界、もう要らないだろう?』
どこからか声が聞こえる。
自分自身の声のようでありながら、底知れない悪意に満ちた響きを持ち。
(……そう、ね。こんな……こんな理不尽な世界なんて……)
アニスはその声に抗うことなく、素直に頷く。
心の中が黒い感情で満たされていくのを感じる。
『ならば、願え。汝の望むままに。その力で、全てを破壊し、汝が望む世界を創造するが良い……』
そうだ、そうよ。私が作り変える。こんな、悲しみと裏切りに満ちた世界なんて、私が……!
アニスは虚空に向かって両腕を突き上げた。
指先が天井を掴まんばかりに開かれる。
部屋全体が彼女から放たれる黒き魔力に呼応するように、ミシミシと軋み、揺れ始めた。
力が、集束していく。全てを無に帰す、破滅の力が……!
「「へ……へっくしょん!」」
突如、部屋の隅から、可愛らしくも間抜けなくしゃみが二つ、同時に響いた。
(……え?)
その音にアニスの集中が、ほんの一瞬だけ途切れた。
張り詰めていた意識の糸が、ぷつりと切れる。
途端に集束しかけていた黒き魔力が制御を失い、霧散していった。
「あー、もう! 何、今の! いいところだったのに!」
アニスは思わず怒鳴り、くしゃみの発生源へと目を向ける。
そこにはいつの間にか、2人のエルフの少女、エレミアとエレノアが、気まずそうな顔で立っていた。
「ご、ごめん、アニス……なんか、急に鼻がムズムズして……」
「埃っぽかったからかな……?」
2人はしきりに鼻をこすっている。
「エレノアにエレミア……⁉ どうして、あなたたちがここに⁉ 転移魔法も使えないのに、どうやって……」
アニスは驚きと、先ほどの自分の状態を思い出して、顔を赤らめながら尋ねた。
「別に、私たちは見張られてないし?」
「ま、ちょちょーっと、アレゼル様から、姿隠しの術を借りてきただけよ~」
エレノアとエレミアは悪びれもなく笑う。
「アレゼル……様?」
「そう。我が名はアレゼル。エルフの里の長老を務める者だ」
エレミアたちの背後から、圧倒的な存在感を放つ、1人のエルフの女性が姿を現した。
緑の髪と瞳は森の深淵を思わせる色合いで、佇まいに数千年の時を生きてきた者だけが持つ、計り知れない知性と威厳が漂っている。
「驚いたな。これほどの潜在魔力……クレマンティーヌにも匹敵する、あるいはそれ以上かもしれぬ。……ディンレルの第二王女よ。先ほど、何を願い、何をしようとしていた?」
アレゼルの射貫くような視線に、アニスは身を竦ませた。
「あ……えっと、ディンレル王国第二王女、アニス・ディンレルです。……その、お恥ずかしながら、父への怒りから、心が闇に飲まれ……全てを破壊したい、という衝動に……自分の声に似た、邪悪な声が聞こえて……危うく……エレノアとエレミア、アレゼル……様のおかげで正気に戻れました。ありがとう……ございます」
アニスは正直に告白し、深々と頭を下げた。
「……そうか」
アレゼルはアニスの言葉を静かに受け止め、短く、重く告げる。
「二度と、その闇に飲まれるな。お前ほどの力を持つ者が道を踏み外せば、それこそが世界の破滅を招く」
アレゼルの言葉には叱責というよりも、警告と未来への懸念が込められているように感じられた。
(……うぅ、厳しい……やっぱり、ちょっと怖い人かも……お母様や姉様、クレアなら、もっとこう、優しく抱きしめてくれるのに……)
アニスが内心でそんなことを考えていると、エレノアが場を和ませるように言う。
「ま、アレゼル様はこういうお方だから、あんまり気にしないでいいよ、アニス」
「そうそう! それよりアニス、このソファ、ふかふかー! ちょっとここで眠ってもいい? いいわよねー?」
エレミアはすでにソファに寝転がり、くつろぎ始めている。
まったく、自由奔放な姉妹だ。でも彼女たちの存在が、今の張り詰めた状況の中で唯一の救いのように感じられた。
「それで?」
アレゼルは再びアニスに向き直る。
「これから、どうするつもりだ? ディンレル王国第二王女、アニスよ」
アレゼルの問いにアニスは迷いを振り払った。
先ほど闇に飲まれかけた自分。
だが、仲間の存在が自分を繋ぎ止めてくれた。
ならば、今、為すべきことは一つ。
「はい」
アニスはアレゼルの目を真っ直ぐに見据え、決意を込めて答える。
「このまま、座して待つつもりはありません。元凶である、父を……止めます」
アニスの瞳には悲しみと怒りを乗り越えた、強い意志の光が宿っていた。
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