第17話 婚約破棄

 ミフェルの剣が俺の首筋に閃いた瞬間。

 キンッ! という硬質な音と共に目の前に淡い光の障壁が展開され、彼の刃を寸前で弾き返した。


「……ヒイラギは私の所有物です。許可なく処分されては困ります、キース公子」


 凛と澄んだ氷のように冷たい声が、小屋の入り口から響き渡る。

 月明かりを背に、金色の長い髪を揺らして立つその姿は……アリス姫!


 俺は咄嗟に、障壁を背にしてアリス様の側へと身を寄せた。

 心臓が早鐘のように打っている。安堵と、彼女を危険に晒してしまったかもしれないという焦燥感で。


「ア、アリス姫⁉ なぜ……なぜ貴女がこんな夜更けに、このような場所に!」


 キース公子の声は驚愕と怒りに震えていた。計画が露見したことへの動揺が隠せないようだ。


「偶然、夜風にあたっておりましたら、何やら聞き捨てならない密談が耳に入りまして。……残念ですが、キース公子。貴方との婚約はこの場をもって破棄させていただきます」


 アリス様が冷静に言い放つ静かな口調が、逆に場の空気を一層張り詰めさせていく。


「全て……聞かれた、と。フン、だが、たった1人で現れるとはとんだ愚か者だ。キース様、こうなっては致し方ありません。このアリス姫もここで始末し、事は事故に見せかけましょう。そして改めて、妹君のアニス姫との婚姻を進める、という筋書きでいかがでしょう?」


 ミフェルが感情の欠片も見せない声で、恐ろしい進言をする。


「……アリス姫様。何故、単身でこのような危険な場所に?」


 俺は足元に転がっていた自らの剣を拾い上げ、鞘から抜き放ちながら、背後の主に小声で問うた。


「あら? ヒイラギの主ですもの。私の知らないところで、私の騎士が誰かと密会していると知れば、気になって様子を見に来るのは当然でしょう?」


 アリス様は悪戯っぽくクスリと笑った。

 彼女はどうやら、俺が呼び出されたことを、警備の騎士に問い詰めたか、独自の魔法か何かで察知していたらしい。

 勝手な行動をとったことを謝罪したい気持ちと、無謀な単身での介入に対する心配と、駆けつけてくれたことへの感謝が俺の中で渦巻く。


「……死体を2つに増やす手間ができただけのこと。ミフェル、殺れ。……残念だよ、アリス姫。何も知らぬまま大人しく俺の妃になっていれば、ビオレールとディンレルを統べる王の妻として、輝かしい栄華をその手にできたものを」


 キース公子はもはや本性を隠そうともしない。


「栄華ですって? 誰かの犠牲の上に成り立つ偽りの栄華など、私は微塵も望みません!」


 アリス様はきっぱりと言い放ち、白い手に眩い光の魔法弾を練り上げて臨戦態勢を構える。

 それとほぼ同時に、ミフェルの姿が掻き消えた。


(速い!)


 彼の動きは目で追うのがやっとだ。

 まるで空間を跳躍するかのように、一瞬でアリス様の眼前まで迫る!


「くっ!」


 俺の剣がミフェルの背後を薙いだが、手応えはない。空を切った剣閃。

 アリス様が放った魔法弾も、彼の残像を捉えるのみだ。


 ミフェルは再び距離を取る。それは次の一撃への布石に過ぎない。

 瞬きする間もなく、再び彼の身体が俺とアリス様の死角へと滑り込んでくる。

 奴の動きは直線的ではなく、予測不能な軌道を描く。この世の物理法則を無視しているかのように。


「させん!」


 俺は全神経を集中させ、ミフェルの変幻自在な動きに食らいつく。

 漆黒の剣が、彼の繰り出す無数の斬撃を辛うじて弾き返し、アリス様に近づけさせない。


 その隙にアリス様は次々と魔法を放つ。

 炎、氷、風、雷……多彩な属性の魔法がミフェルを襲うが、彼はことごとく紙一重でそれを回避し、時には剣で魔法そのものを切り裂いてみせる。


「気味が悪い戦い方……まるで影と踊っているよう……ヒイラギ、気をつけて。普通の相手ではありません。呼吸を合わせなさい!」


「はっ! 承知!」


「呼吸を合わせる、ねえ。面白い。魔女と、ただの剣士風情がどこまでやれるか、見せてもらおうか」


 ミフェルが嘲るように呟くと、彼の動きがさらに一段階速くなった。

 俺とアリス様は回避するのが精一杯になる。

 掠めた剣先が皮膚を切り裂き、血が滲む。

 魔法の余波が身体を打つ。

 だが俺たちは引かない。互いの背中を守り、互いの力を信じて、ミフェルに立ち向かう。


 一瞬の均衡。ミフェルが俺の剣戟を捌ききった、コンマ数秒の硬直。アリス様の瞳が鋭く光った。


「今よ! ヒイラギ!」


 アリス様の叫び。それは単なる合図ではない。

 俺の動きを予測し、魔法の発動タイミングを寸分違わず合わせるという、絶対的な信頼の証。


 俺はアリス様の言葉を信じ、ミフェルの防御が僅かに甘くなった左胴へと、渾身の突きを繰り出す!

 ミフェルは俺の動きを読んでいたかのように、身を捻って躱そうとする。


 だが、それこそがアリス様の狙いだった。

 彼が回避行動を取った先に、すでにアリス様の高圧縮された水の魔法が待ち構えていたのだ!

 水は鞭のようにしなり、ミフェルの体勢を崩すと同時に、奴の動きを一瞬だけ拘束する。


 その一瞬が、勝敗を決した。


 俺の漆黒の剣はがら空きになったミフェルの胴体を、骨ごと断ち切った。


 グシャリ、という鈍い音と共に、ミフェルの上半身と下半身が離断した。

 それと同時に、アリス様が放った浄化の光魔法が、断ち切られたミフェルの両断片を包み込み、存在を塵へと還そうとする。


「なっ……⁉ ば、馬鹿な⁉ ミフェルが……この俺のミフェルがぁっ!」


 キース公子は目の前の光景が信じられない、といった表情で絶叫した。

 足はガクガクと震え、顔面は蒼白になっている。


「キース公子。包み隠さず、事の次第を我が父と母に証言していただきます。もし拒むのであれば……次は貴方の首を刎ねることになります」


 アリス様は魔法の余韻を漂わせながら、厳しい眼差しでキース公子を射抜いていく。

 俺も切っ先からミフェルの黒い血を滴らせながら、無言で剣をキース公子に向ける。


「ひ……ひゃは……!」


 狂ったか? 俺とアリス様は顔を見合わせた。

 追い詰められたキース公子が、ついに精神の均衡を失ったのかと。

 だが次の瞬間、俺たちは背後に意識を向け、息を呑んだ。


 殺したはずのミフェルが、倒れていた場所に再び立っていたのだ。

 いや、正確には上半身だけの状態で、禍々しい闇色のオーラを立ち昇らせながら、何者かが張った透明な結界の中で暴れている。

 ミフェルの姿はもはや人間のものではなく、異形の何かだった。

 結界に阻まれて音は聞こえないが、形相は凄まじい怒りと憎悪に満ち、何かを喚き散らしているようだ。


「……男が魔法を? しかも、生きてる……? それに、この強力な結界は一体……」


 アリス様が絶句する視線の先、小屋の外から、ゆったりとした足取りで一人の女性が入ってきた。


「クレマンティーヌ殿!」


 俺は安堵と驚きで思わず声を上げた。

 そして無意識のうちに、師であり恩人でもある彼女に一礼する。


「やれやれ、2人とも。少し目を離すと、これだから……まあ、無事で何よりさね」


 クレマンティーヌはやれやれと肩をすくめるが、瞳は鋭く結界の中の存在を見据えている。


「そんなことより、先生! あのミフェルとかいう奴は一体何なの⁉ 男のくせに魔法を使ってる! しかも神聖魔法じゃない、あんな禍々しいやつを!」


 アリス様が、興奮気味にクレマンティーヌに詰め寄る。


「……あれはね、古の女神様の逸話に出てくる『悪魔』と呼ばれる存在さね。この大陸とは異なる理で生きる、異界の者たちさ。女神フェロニア様が、この世界の平和を守るために戦い続けた相手……その末裔か、あるいは生き残りか」


「悪魔……⁉」


「ごく稀に、女神様がお張りになった世界の結界をすり抜けて、こちら側に迷い込むことがある、とは聞いていたけれど……まさか、実物にお目にかかれるとはねえ。私も初めて見たよ」


 クレマンティーヌは結界にそっと手を触れる。

 すると結界は水面に広がる波紋のように揺らぎ、静かに消滅した。

 結界から解放されたミフェルは断末魔のような絶叫を上げながら、身体を黒い霧のように掻き消していった。

 完全に消滅したのだ。


「ひ……ひゃは……! ミフェル……ミフェルぅぅぅ! ふざけるなぁ! この俺を大陸の覇者にしてくれるという、あの約束はどうしたのだ! この程度の国すら手に入れられんとは! 使えぬ奴め! ふざけるなあああああっ!」


 頼りにしていた、あるいは操られていたのかもしれない悪魔を失ったキース公子は完全に理性を失い、床に蹲って狂ったように頭を打ち付け始めた。


「やれやれ……本当に、大変なことになっちゃったねえ……」


 アリス様は力なくそう呟いた。

 けれど、彼女の声には先ほどまでの張り詰めた響きはなく、どこか……ほんの少しだけ、安堵の色が混じっているように、俺とクレマンティーヌには聞こえた。

 長年背負ってきた重荷の一つが、ようやく降ろされたかのように。

 

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