第30話 憂鬱なる円舞曲・3


「まぁ、恐ろしい」

「中年男性に?」


 噂話を口にする者たちの視線が、自分に向けられているようだと気がついたルナリアは、ジェレルの顔を確かめる。

 彼は普段と変わらず表情の読めない顔をしていて、噂話を気にしていない様子だ。


 アレシアのそばをターンしながら移動する。

 ルナリアへ向けられる視線が好意的なものではないと以前からわかってはいたが、今のアレシアはまるで汚らわしいものを見るように顔を歪めていた。


「監禁……れていた……」

「海……見つかって……」


「子を産めない体になったそうよ」

「まぁ、それなのにジェレル様と結婚……」


 その部分だけがはっきりとルナリアの耳にも届いた。

 心臓に杭が打ち込まれたような衝撃だった。

 

 とっさにルナリアはジェレルの両耳に手を伸ばし、手のひらで彼の耳をふさいだ。


「お願いだから、聞かないで!」


 ジェレルは足を止め、ルナリアの両腕を外側から支えた。

 ルナリアの顔から血の気が引き、少し開いた唇が震えている。踵を上げ、背伸びをしているので、足にもプルプルと震えが生じた。


 ジェレルは、ルナリアの手を片方ずつ耳から離して、自分の手で握る。


「君にはなんの落ち度もない」


「ジェレル様は……私のことを何もご存知ないのです」

「ルナリア、私の話を聞け」


 ジェレルは正面からルナリアの顔を覗き込むが、ルナリアはジェレルの目を見ようとせず、うつむいて首を横に振った。


「お願いですから……私を……ころし……」


 ルナリアの言葉は途切れ、全身の筋肉が弛緩したかのように崩れ落ちる。ジェレルは片膝をついてルナリアを受け止めると、横抱きにして立ち上がった。


 クロードがスマートな動作でジェレルのそばにやって来た。


「眠らせたのかい?」

「これ以上は身の毒だ」

「そうだな。僕も話したいことがあるが、今夜は彼女をゆっくり休ませてあげないとね。彼女から目を離すなよ」


 ジェレルは頷いてみせた。

 それから王妃にルナリアを部屋で休ませることを告げ、大広間から静かに立ち去った。





 王太子ジェレルがルナリアを横抱きにして大広間から出ていくのを、アレシアは横目で見ていた。他の令嬢たちは「まぁ、どうされたのかしら」などと心配そうな声を上げていたが、アレシアにはルナリアを案じる気持ちが微塵もかなかった。


「自業自得ではありませんの?」

 

 小声でそう漏らすと、周りの令嬢たちは口をつぐむ。

 アレシアは小さくため息をつき、そういえば、と思いながら辺りを見回した。


「ファンヌはどこへ行ったのかしら。もう少し聞きたいことがあったのに」

「ファンヌ様はもうお帰りになられるようですわ」


 答えてくれた令嬢の視線を追うと、ファンヌがノクタリス男爵とともに辞去の挨拶をしているのが目に入る。

 アレシアはその様子を黙って眺めながら、ファンヌの話を思い返していた。


「王太子妃は以前、見知らぬ男に連れ去られ、数日の間、監禁されていたことがあるそうですわ」


 何の脈略もなく、ファンヌはそう言い出した。

 驚いたアレシアがファンヌの顔を確かめるように見ると、ファンヌは非の打ち所がない美貌に妖艶な笑みを浮かべて言った。


「にわかには信じがたい、恐ろしい話です。わたくしもはじめてこの話を耳にしたときは信じられませんでした」

「その話は本当ですの?」


「ええ。わたくしは父から聞きました。ルナリア様が行方不明になったこと、地元では知らぬ者がいないほどの大事件だったようです。ただ、真相を知るのはごく一部の人間のみ」

 

「ではノクタリス男爵はどのようにして知ることができたのかしら」

「ベレット子爵自ら父を訪ねて来て、ルナリア様の記憶を消してほしいと懇願されたのです」


 アレシアはノクタリス男爵が魔導士として有能であることを思い出し、納得したように頷いた。


「それでルナリア様の記憶は消されたの?」

「ええ。そうでなければ王太子殿下の求婚を受け入れることなどできませんわ。なぜならその中年男性に監禁されている間、口にするのも恐ろしい目に遭い、子を産むことができない体になったのですから」


 ジェレルと踊るルナリアの姿に、アレシアは睨みつけるような視線を向ける。

 

 子を産めないのに王太子妃になるなど、もってのほかだ。

 記憶がないから知らなかったなどと言い訳されたら、即座に平手打ちを見舞ってやる、と誰に頼まれたわけでもないのにアレシアは密かに決意した。


 とにかく、ルナリアの存在すべてが憎かった。

 ジェレルのことは、幼少時からずっと見てきた。だからアレシアは知っている。彼は特定の女性に興味を持つことなど一度もなかったのだ。

 

 ダイヤの指輪を手配するように頼まれたのは、実は王立学院高等部の3年生の頃だった。

 ついにアレシアの存在を認め、求婚してくれる気になったのではないかと胸が高鳴った。

 

 しかし、その指輪がアレシアに贈られることはなかった。

 王立学院高等部を卒業して2年ほど経ち、手配した指輪のことなどすっかり忘れてしまっていたアレシアに、ジェレルが婚約したという知らせが届いた。

 

 相手は2歳下の美しい銀髪と大きな碧眼が印象的だが、まだ垢抜けない少女らしさの残るルナリアだった。


 王立学院高等部在学中、とりわけ男子の間でルナリアは「かわいい」と人気があったとアレシアは記憶している。

 だが、当時の学内ではファンヌが絶世の美女ともてはやされ、ルナリアは気にかけるまでもない存在だった。


 それなのに、まさかジェレルが王太子妃候補として名が挙げられたことのない地方領主の娘を自分の妃に望むとは思いも寄らず、アレシアは面食らった。

 確かに誰もが同情せずにはいられない境遇にあるルナリアだが、それだけで王太子妃としてふさわしいはずがない。王太子妃はいずれ王妃となり国の母たる資質を備えていなければ務まらないのだ。


 あんな世間知らずで田舎者の小娘が王太子妃だなんて認めない。

 ましてや子を産むことができないかもしれない体でジェレルの妻になるなんて許せない。


 アレシアはかつてないほど心に憤怒ふんぬの炎を燃やしている。

 気がつけば、彼女は大広間を抜け出し、王族の私室のある階へ向かっていた。ジェレルが何も知らないまま結婚したのなら、早急に真実を伝えて、あやまちを正さねばならない。


 どんなにかわいそうな境遇であっても、分不相応な身分を与えるべきではないと忠告する必要がある。

 アレシアは階段を一段一段踏みしめながら、これは自分にしかできないことだと強く思うのだった。


 ジェレルの私室の前には、側近のティオが立っていた。

 アレシアの姿を認めると、ティオは警戒するような険しい表情になる。


「こちらは王太子殿下の私室です。夜会のお客様が立ち入ることのできる場所ではありません」

「わたくしはジェレル様の幼馴染で、王妃様付きの女官です。これまで私室を訪れてとがめられたこと、一度もありませんわ」


 アレシアの言い分にティオは冷たい眼差しで応じるが、彼女もそれくらいではひるまない。

 

「心配だから見に来たのよ。そこを通してちょうだい」

「言っておきますが、アレシア様は見ないほうがいいです」


「それは私が決めること。あなたの指図は受けません」


 アレシアがティオの目の前まで進む。ティオは渋々脇によけた。


「ジェレル様、アレシアですわ。入りますわね」


 部屋の中からの返事を待たずに、アレシアはドアを開ける。

 そして一歩、ジェレルの私室に足を踏み入れ、そこで硬直した。

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