第22話 永闇の樹海に眠るもの・1

 古い館は森を背にして建っている。

 陽が完全に落ちるまでにはもう少しかかりそうだが、濃緑の森は夕陽すら吸い込み、見る者に恐怖心を抱かせるのに十分な影と化していた。

 その黒々とした影――フォガムの森――の前に、立派な門を構えた大きな館がそびえ立つ。それこそがティンバレン大公別邸だった。


 トレヴァーはこの古い館に入ると、玄関正面に掲げられている一人の男の肖像画を睨むように見た。


(ジュヌ・ウィンスレイド。この国の開祖で、はじめて邪神を封じた勇者――)


 黒い髪に黒い瞳。神経質そうな細面に勇敢なまなざしと憂いに満ちた表情が混在する眉目秀麗な美貌――。

 この肖像画はトレヴァーの知っている人物によく似ていた。


(ジェレル……)


 おかしな話である。

 今のウィンスレイド家は偽物にせものだ。過去の簒奪者さんだつしゃによって、本来は王になる資格のない傍流ぼうりゅうがウィンスレイド家を名乗っているだけにすぎない。


 それなのになぜかジェレルは、ウィンスレイド王国開祖のジュヌ卿にそっくりなのだ。

 

 トレヴァーは赤い髪と緑の瞳を持ち、肖像画のジュヌ卿とは似ても似つかない。これまで気になることはなかったのに、今日はどうしてもこの肖像画から目が離せなかった。


「お帰りなさい。どうなさったの? そんなところに突っ立っているなんて……」


 肖像画が掲げられた壁の左側から一人の女性が階段を下りてきた。プラチナブロンドの髪が豊かな胸の上で揺れる。女性らしい美しいプロポーションを際立たせるドレスは、スカートに大胆なスリットが入っていて、一段下りるたびに彼女の形のよい細い脚があらわになった。


「ファンヌ……!」


 トレヴァーは彼女の名を呼ぶと、大股で近寄り、両腕でギュッと抱きしめる。たちまち彼女の全身からかぐわしい花のにおいが立ちのぼってきた。


「ああ、こうしているととても安らぐ」

「急にどうしたのですか? いつもと何も変わらないのに」


 ファンヌは驚きながらも慣れた仕草でトレヴァーの背中に腕を回した。

 

「何かよくないことでもありましたか?」

「……たいしたことではないよ」


 ルナリアを自らの手で王宮から助け出し、何不自由ない生活を送らせてやりたいと思っていたが、あろうことか彼女をとらわれの身とした張本人、王太子ジェレルによって阻まれてしまった。

 トレヴァーにとって何よりショックなのは、ルナリアが自分の意志でジェレルのもとへ戻ることを選んだことだ。


(どうかしている。あまりにもつらいできごとのせいで、正常な判断ができなくなってしまったのか。そもそも結婚を強要した相手との間に愛情など芽生えるはずがない)


 トレヴァーの知るルナリアは、どんな相手に対しても安易に従順な態度を取るような娘ではなかった。性別や体格、年齢や身分――この世には本人の努力とは無縁のところでかなわぬ相手がいくらでもいる。それでもなお、簡単には屈しない強い意志がルナリアにはある、とトレヴァーは信じていた。


(しかしジェレルも卑怯ではないか。結婚か、死か、どちらかを選べ――とは、両親も故郷も失ったばかりの娘に迫る選択肢としては非情がすぎる)


 自分自身の劣等感には気がつかないふりをして、トレヴァーはファンヌを抱く手に力を込めた。

 ファンヌがクスッと笑った。


「お腹が空いたわ」

「そうだな。食事にしよう」


 トレヴァーはファンヌを解放し、彼女に手を差し伸べた。

 妖艶な笑みを浮かべたファンヌがトレヴァーの手を取り、用心深く階段を下りる。

 いつもと変わらぬ、二人きりの晩餐が始まった。


 

 

 

 ウィンスレイド王国の歴史書の冒頭には、開祖とされるジュヌ・ウィンスレイドが三千年ほど前に邪神を封じたのが建国のきっかけである――と書かれている。

 そして現在のティンバレン大公別邸を含む一帯がジュヌ卿の生まれ故郷であり、建国当初はこの地が王都として栄えていたらしい。

 

 しかしジュヌ卿がこの世を去り千年が過ぎた頃、フォガムの山が噴火し、彼の築いた王都を溶岩が埋め尽くした。命あるものすべてが息絶え、死の荒野となり果てたこの地は、長い間人々を寄せつけず、気がつけば一帯は広大な森林を形成していたのだ。

 

 それが「永闇えいやみの樹海」とも呼ばれるフォガムの森である。

 

 そのフォガムの森から少年が軽い足取りでティンバレン大公別邸の裏口へやって来た。

 

「いやー、長いこと待たされたよなー。ま、でもちょうどよかったか。あれもこれもお金にできたから、これでしばらくは母さんも姉さんもお腹いっぱい食べられるだろう。まったくなんで僕がこんなにひもじい思いをしないといけないのか……」


 裏口のドアをそっと開け、足音を立てないように忍び込む。朝の早い使用人たちは寝静まった真夜中だ。暗い廊下を誰にも気がつかれないように2階へすばしっこく移動し、ある部屋の前で「ピュッ」と口笛のような音を立てた。

 数秒後、ドアが開く。


「戻ったのね。入りなさい」


 ドアを開けたのはファンヌだった。

 少年はペコッと頭を下げ、するりと部屋の中へ入った。蝋燭の灯りだけでも室内は案外明るい。

 ファンヌが少年に長椅子に座るよう勧める。


「ご苦労さま。ようやく動いたわね。王太子はどうだった? ザスリン、あなたの手に負える相手かしら」

 

 ザスリンと呼ばれた少年は、ファンヌに微笑みかけられ、思わず頬を染める。

 彼の視線はファンヌの胸元へ吸い寄せられてしまうが、それも仕方がない。何しろ異性の視線を集めるためにデザインされているとしか思えないほど、ざっくりと開いているのだ。


「王太子は案外話のわかる男です。魔剣を見せてくれと頼んだら、簡単にわたしてくれました」

「あら、では魔剣は今どこに?」

「ファンヌ様、とても残念ですが、あれはとんでもない力持ちじゃないと持てません」


 ファンヌは不機嫌そうに眉を寄せ、「どういうこと?」と尋ねる。


「めちゃくちゃ重いから持ち上げることすらできなかった。あれを持ってくるのは無理じゃないかな」

「じゃあ、王太子はどうやって携帯しているの?」

「うーん、彼は普通に持って歩いているし、振り回せるみたいですよ」


 ザスリンはおどけた調子で答えた。

 途端にファンヌが目をいて、ザスリンに人差し指を向ける。


「ま、ま、待って……! く、る、し、い……っ!!」


 首をきむしるような仕草をしながら、ザスリンが長椅子上でのたうち回った。

 ファンヌはそれを蔑むような目で眺めていたが、しばらくすると飽きたのか、人差し指を握りこぶしにしまい、足を組んで座り直した。


「魔剣と呼ばれるだけのことはあるわね。まぁ、いいわ。それで『さばきのいかずち』のことは認めたの?」

「うっ……げほっ、否定はしませんでした」

「そう。は人間には使えない魔法なのよ。ほどの威力がある術を使える人間はいない。魔剣が王太子のもとにあるのは厄介ね」


 何度も咳ばらいをしてザスリンはファンヌをあらためて見る。


「人間には使えない魔法だという根拠はあるのですか?」

 

「『裁きの雷』は神の力――昔の人が書き残した書物にそういう記録があるわ。そして紅の秘宝から放たれる神の力は『浄化じょうかの光』。紅の秘宝を宿す者によこしまな欲望をいだいて触れると、一瞬で丸焦げになる。あなたも見たでしょう?」


 ファンヌは嘲るような笑みを浮かべて言った。

 

 ルナリアに襲いかかって丸焦げになったバズのことは、ザスリンも嫌悪していた。バズのほうが年上で体格もいい。そしてバズは乱暴で考えなしに行動する。無策で敵地に乗り込むなんてバカだ、と心の中で思っていた。

 それでも彼が目の前で絶命するのを見たとき、ザスリンは強い衝撃を受けた。

 

(正確には、バズは「浄化の光」で死んだわけじゃない。王太子の矢のほうが早かった。驚いてすぐに身を隠したから、僕は助かったけど……バズは王太子にやられたんだ!)

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