第5話 愛のない結婚のはじまり・2
その夜、ルナリアは久しぶりに外に出た。
月が空高く昇る頃、王太子ジェレルがルナリアの居室へやって来て「ついてくるように」と短く言うと、彼の従者と彼女の侍女だけを伴い、皆が寝静まった王宮の廊下を何のためらいもなく進んでいく。
ジェレルの背中を追いながら、ルナリアは不思議な気持ちを抱いた。
(あのときもそうだった)
学生時代、たった一度だけジェレルと歩いた寄宿舎への帰り道。
帰りが遅くなったのを詫びた後、ジェレルは黙ったままルナリアの前を歩いた。彼の歩幅に合わせて歩こうとすると、ルナリアは少し早足になる。それに気がついたジェレルは時折チラッと振り返りながら、ルナリアの様子を確かめた。
(目つきは悪いけど……)
振り返ったジェレルと目が合う。
何を考えているのかわからないが、悪意があるわけではなく、冷たいというわけでもない。ただ彼の言動に優しさや温かさを感じないというだけのことだ。
ルナリアにとって彼の態度は、多少の居心地の悪さがあっても嫌悪するほどのものではない。
しかし学生時代と違う点があるとすれば、ジェレルの肩幅は広くなり、確実に体の厚みが増している。それに秀麗な顔立ちと目つきの悪さは相変わらずだが、頬の丸みが消え、精悍な印象が濃くなった。
当然、ルナリアだって顔も体も大人の女性へと近づきつつある。
2年ぶりの再会でルナリアは互いの変化を妙に生々しく感じていた。
廊下の突き当たりに立つ警備兵がジェレルに拝礼すると脇によけた。ジェレルはその奥の扉を開け放つ。月明りの降り注ぐ小さな庭がルナリアの目に飛び込んできた。
「しばしここで待て」
ジェレルは自らの従者とルナリアの侍女にそう告げた。そしてルナリアに向き合うと手を差し伸べる。階段を下りるためだと理解したルナリアはすぐに彼の手を取った。
「君は怖いもの知らずだな」
ジェレルがルナリアにだけ聞こえるように言った。
思ったより急な階段に苦戦しながらルナリアは幽閉生活ですっかり体力が落ちたことを自覚した。無事に下りきると、ジェレルを見上げてきっぱりと告げる。
「わたくしにはもうこの世に怖いものなどありません」
「それはどういう意味だ。死をも恐れぬということか」
ルナリアの視線をまっすぐに受け止めて、ジェレルは不機嫌そうに眉を寄せる。
「そうだとすれば、君の境遇ではすでに命を絶っていてもおかしくないだろうな」
「おっしゃるとおりです」
ジェレルは小さく頷くとゆっくりと歩き出した。
手入れの行き届いた小さな庭は一周するのに何分もかからないほどの大きさだが、久しぶりに外気を吸うルナリアには目に入る景色すべてが新鮮で美しく感じられた。
庭の中央には白い椅子とテーブルがあり、ジェレルはルナリアに椅子を勧めた。
ルナリアが腰を下ろすと、ジェレルは彼女の前に膝をつく。
月明かりがふたりを白く照らしていた。
「あの……」
「私と結婚してくれませんか」
唐突な、そして意外にも直接的で丁寧な求婚の台詞に、ルナリアの心臓がドクンと音を立てる。
ジェレルはルナリアの手を取ると、彼女の指に銀色のリングをはめた。細いリングの中央でダイヤモンドが月の光を受けてまばゆく輝いた。
いつの間に用意したのだろう。
驚いて目を見開くルナリアをジェレルはじっと見つめてくる。
ルナリアは覚悟を決めて口を開いた。
「つ……謹んでお受けいたします」
ジェレルの瞳が一瞬揺れる。彼の感情の動きがはじめて見えたような気がした。
故郷の悲劇からルナリアの人生は想像もしなかった展開を迎えているが、この瞬間だけはそれらのすべてから切り取られ、夢の中の出来事のように幻想的だった。
「君は怖いもの知らずだな」
先ほどと同じ台詞を言いながらジェレルは立ち上がった。
「私が怖くはないのか」
「殿下は怖い方なのですか」
ルナリアがそう尋ねるとジェレルはフッと自嘲気味に頬を緩めた。
「私は君に結婚を強要したが、君を愛してはいない」
息が止まる。夢のような世界は無残に崩れ落ちていく。
希望を持っていたわけではない。だが、一瞬でも希望の光を見たような気がしたから、その一筋の希望にすべてを委ねてしまいたくなったのだ、と哀れな自分の身の上を冷静に分析した。
「結婚とはそのようなものと聞いています」
ルナリアはジェレルから目を逸らした。
自分が絶望の淵に立たされていることを改めて思い知る。
そして実感した。絶望とはこんなにも虚しいものだということを――。
ルナリアが王の執務室を訪ねていくと、王は人払いをし、ルナリアに楽にするように言った。
「王妃の言うことが気に障るだろうが、こらえてくれて感謝している」
王はいたわるように言った。ルナリアは慌てた。
「そのように感じたことはありません。むしろご心配をおかけし、申し訳なく思っています」
「私は賢いそなたを娘と呼べることが誇らしい。そなたの父上も立派な御仁であった。そなたの両親をはじめ多くの民の尊い命を失い、私がいかに愚かな王であるかを知り、恥じた。そなたには私の残りの人生をかけて償いたいと思っている」
「と、とんでもないことです。そのお言葉だけで十分救われます」
ルナリアはうなだれる王の前で両手を振った。
王は目を細める。
「そなたに伝えることがある」
「はい」
「そなたの父の領地だが、本日より王家直轄領とし、王太子に執政権を与えることになった」
ルナリアがどう返事をすればよいかと迷っているうちに、王は「それで」と続けた。
「そなたの弟、そなたと同様にティンバレン大公の養子となったのであったな」
「はい」
「彼が成長したあかつきには、そなたの一門を復興させるがよい」
「恐悦至極に存じます」
ルナリアは深く礼をした。胸がいっぱいになり、涙が込み上げてくる。すべてを諦めて選択した道が間違いではなかったことが嬉しかった。
「ところで王太子妃修行は順調に進んでいるか?」
顔を上げたルナリアに、王は柔和な笑みを見せた。
「それは……田舎育ちのわたくしには難しい部分もありますが、精一杯励んでいます」
「そうか。朝から晩まで講師がついていて、そなたは外出することもままならぬと聞いているが、たまに気晴らしも必要ではないか。ジェレルには私から話しておこう」
ありがたい言葉だったので、心を込めて礼をし、退室した。
その足でルナリアは王太子の居室に向かった。
「入れ」
ジェレルの声がしたので、ルナリアはおずおずと入室する。
彼は着替えの途中だったようで、シャツのボタンを留めながらルナリアを一瞥した。
「あ、あの、失礼いたしました!」
慌てて顔を伏せ、退室しようとしたが、ジェレルは「かまわぬ」と短く制した。
「用件は?」
「陛下よりダーラウ領について伺いました。お礼を申し上げたくて参上いたしました」
「礼を言われるほどのことではない。
「殿下が執政を……ということは領地へ向かうのですか?」
「そうだ。この後出発する」
ジェレルは上着を羽織ると、改めてルナリアのほうを向いた。
「わたくしもご一緒したいです」
意を決してそう言ってみたところ、ジェレルは少し眉根を寄せてため息をつく。ルナリアは唇を噛んで逃げ出したい気分をやり過ごした。
「君の今日の予定は?」
「刺繍の練習です」
「では今日は私のために刺繍に励んでほしい」
体よく断られたが、ルナリアにはすんなり受け入れることができなかった。何しろ生まれ育った故郷へ夫が赴くのだ。妻であるルナリアが王宮にとどまっていられるわけがない。
「わたくしは刺繍が苦手なのです。それより馬に乗るほうが何倍も得意です」
ルナリアはまるで聞き分けのない子どものようだと思いながらも言い張った。
「それに領地のことでしたら、わたくしが他の誰よりも詳しいですし、殿下を隅から隅までご案内できます」
それを聞きながらジェレルはルナリアの前へ近寄り、彼女の肩に手を置いた。
「そうかもしれないが、君はここにいてくれ」
「どうしてですか。なぜわたくしは外出を許されないのでしょうか」
「ここが安全だからだ」
ジェレルは諭すように言った。
「君は王太子妃なのだ。君の身に何かあっては困る」
「では、今後もわたくしは王宮の外へ一歩も出られないということでしょうか」
今日は絶対に引き下がらない、と強い気持ちでルナリアはジェレルに不満をぶつける。
言葉の上では妻を案じる優しい夫のようであっても、彼の行いは3ヶ月もの間、彼女を王宮に幽閉し続け、彼女から自由を奪っているのだ。これを非道と呼ばずして何と言うべきか。
ジェレルは珍しく何度も瞬きを繰り返し、言うべき言葉を探しているようだった。
「ルナリア……そうではない。だが、今回はここにいてくれ。頼む」
「それならば、殿下がお戻りになるまでティンバレン大公家で過ごす許可をください」
ルナリアがそう言った途端、ジェレルはすべての表情を消し「ならぬ」と告げた。
「君は自らの立場をわきまえるべきだ。王家を侮辱するような行動は許さない」
「実家に帰ることが王家を侮辱するとはどういう……」
そこまで言いかけて、ルナリアはハッとした。
ティンバレン大公家の養女になったとはいえ、大公家の後継者はルナリアの婚約者だったトレヴァーだ。彼は遠征中で不在だが、独身の元婚約者の家にルナリアが滞在することを世間ではどのように噂するか――考えるまでもない。
「……わたくしが浅はかでした」
うなだれたルナリアの肩をジェレルがポンと軽く叩いた。
「私を恨め。君がここにいてくれるなら、私はどれだけ恨まれてもかまわない」
そう言い残してジェレルは出ていった。
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