第八話 先輩と7月の珈琲

 俺と先輩は、血のつながった姉弟である。

 青井らん。青井ひな。そして青井翼。双子の女の子と、一つ年下の弟。小さいころは大層仲が良く、いつも3人で遊んでいた。

 が、ある時以降青井らんは弟を避けるようになった。弟はその理由も分かっていたから、置かれた距離を縮めることができなかった。


 それでも弟は姉との仲直りを諦めきれず、高校を姉と同じ学校に決めた。そして、写真部に入部した。


「初めまして、写真部、入部希望です。これからよろしくお願いします、先輩」


 その一言は、姉と仲直りの言葉であり、決別の言葉だった。今度は姉弟ではなく、他人として仲良くなろうと、そういう提案だった。

 姉は戸惑っただろう。悩んだだろう。でも姉は、後輩を受け入れることにした。


「写真部へようこそ。よろしくね、あおいくん」


 それから2人の部活動は始まった。


 実の姉を先輩と呼ぶこと。自分も「青井」なのに弟を名字で呼ぶこと。

 それが歪でゆがんだ関係だと分かっていたけれど、どうしようもなく嬉しくて、楽しかったんだ。


◇ ◇ ◇ 


「で、どういうことか説明してくれる?」


 雨の降る日、俺はひな姉に呼び出されていた。場所は喫茶ズノパノラ。爺さんがやっているこじんまりとした店で、あまり高校生がたむろするイメージはない。どちらかといえば真面目な話をするのに向いている。

 同じ屋根の下で暮らす姉からの呼び出し。目の前の姉は、笑顔のはずなのに目が笑っていなかった。恐ろしくて背中にいやな汗をかく。

 そんなところに今日呼び出された理由は分かり切っている。あの文化祭のことだろう。

 あの日、俺らを問い詰めようとしたひな姉だったが、あんまりにも俺たちがひどい顔をしていたらしく深く追及はしなかった。なぜか「覚えておけよ」と三下台詞を吐きながら。


 その代償が今日というわけだ。


「わざわざ呼び出してどうしたんだよ。リビングで麦茶飲んでりゃコーヒー代もかからなかったのに」

「ああん?べっつに私はリビングでもよかったんだよ?パパとママも一緒に家族会議なんていいんじゃない?」

「今日はお呼び出しいただきありがとうございます」


 話をそらしたかったが、露骨に失敗した。流石に、両親に聞かれたい話ではない。諦めて説明の言葉を探す。


「と言っても、俺の行動原理は単純だ。また、昔みたいに仲良くおしゃべりしたかった。でも、せ…らん姉のガードが硬くて姉弟として仲良りできそうになかったから、じゃあもう他人として接すればいいじゃないかって思ったんだよ」

「そんなのうまく行くわけないじゃない」

「それがいったんだよ、うまく。だから3か月ほど先輩と後輩として仲良くすごしてこれたんだから」


 ふうん、とひな姉が目を細めて見せる。

 青井ひな。俺ら3人兄弟の真ん中であり、唯一違う進学高に進んだ秀才。国語の成績はいいはずだが、びっくりするほど人の心を読まない。正直、ひな姉が俺たちの関係に口をはさんだところで、上手くいくとは思えなかった。


「ねえねえ、あおいくん」

「勘弁してくれ」


 小ばかにしたように先輩の呼び方で俺を呼ぶ。これはかなり機嫌が悪い。いや今まで家では何も言わず両親に告げ口しなかっただけでもありがたいのかもしれない。

 メロンソーダをずずずとすすり、ひな姉はこう切り出した。


「よし、まあ、待っててもまともな説明なさそうだから、私の質問にはいかいいえで答えなさい」

「まあ、それなら」

「はいかいいえで答えなさい」

「…はい」


 怖。場を和ませようというニュアンスはまったく感じず、ひな姉の詰問は始まった。


 最初に先輩後輩ごっこを始めたのは俺か? ―――はい

 自分でおかしいとは思ったか? ―――はい

 途中でやめようとは思ったか? ―――はい

 それがいい方法だと思っていたのか? ―――


「思ってなかったの?」


 上手く答えられなかった。いい方法だと思っていたのに、思っていたから始めたはずなのに。でも本当にいい方法なら、途中でおかしいとも辞めようとも思わなかったはずじゃないか。ひな姉はその辺のよどみをただ答えられないとひな姉は容赦なく詰めてくるだろう。だが、現状答えられないほうが怖いため、何とか言葉を選ぶ。


「いい方法というか、それしかないと思ってたんだよ」


「うん、続けて」


「だって、そうするしかないじゃないか。ひな姉だって知ってるだろ?いなかったように扱われ続けて。ひな姉だって取り持とうとしてくれたし、親も何とかしようとしてくれてたのに、どうにもならなかった。なのに、いちかばちか写真部に入ったら上手くいった。じゃあ、それにすがるのが一番いい方法だろう?」


「じゃあ、そのあとのことは考えたの?学校だけで仲良くして、じゃあ卒業したら?詰めが甘すぎるよ」


「じゃあ、他にどんな方法があったっていうんだ!」


 のんきな物言いに思わずイラっときて、知らずと声が大きくなる。


「そんなの俺だって分かってた!でもそもそも隣にいなきゃ、元も子もないだろ!?ずっと焦がれてた存在がようやく隣にいてくれたら、これじゃダメだって分かってても、これでいいって思っちゃうだろ。俺はどうすりゃよかったんだ!」


 突然大声を上げた俺に、喫茶店の空気は凍り付いて店中の視線が俺に向かっていることに気づき、とりあえず着席した。目の奥が痛む感覚がして、左手でじっと押さえこむ。


 ずっと、最善でないことはよくわかっていた。俺も、先輩も、お互いの顔色を伺っていた。けど、じゃあ、どうすればよかったというんだ。

 だって、俺は何も悪くないのだ。加害者は先輩で、俺は被害者だった。

 そして卑怯なことに先輩は、らん姉は露骨なまでの加害者面で逃げ回った。俺は怒っていないよの一言も言えずずるずると月日がたち、溝は致命的になっていた。

 ひな姉だって、そんな姉弟をどうすることもできずただ見ていただけだったのに。


「それでも、今の2人は駄目だよ」


 今更姉の顔でダメ出しだけしないでくれ。


「2人的には、仲良くできてハッピーなのかもしれない。もしかしたららん自身も満足しているのかも。けど、ちゃんと話し合わないと駄目だよ」

「話し合おうとしたら逃げるのに?」

「たとえそれがだまし討ちになったとしても、そのくらいしないとあのバカはいつまでたってっても逃げ続けるよ?もしかして今も翼のこと勘違いし続けてるのかも」


 俯いた俺にひな姉は意外にも穏やかな声で続ける。


「まあ、私も分かってるよ。もともと悪いのはらんだって。本来翼を責めるのはお門違いだ。でも、先輩後輩になるくらいなら、もう少し努力するべきだったね」


 からりとメロンソーダの氷が溶けて音を立てた。


「翼もどうせ納得してないんでしょ」


 その一言がすとんと胸に落ちた。ああ、そうだ。これでいいんだと、思おうとしていた。でも俺にとってらん姉はやっぱりどこまでも姉で。姉でしかないのに。


 じゃあ、じゃあ。今の俺と先輩の関係が駄目だとして、どうすればいいんだ?今更弟として話しかけてそれで拒絶されたら?

 考え込んだ俺を眺めて、ひな姉は優しげに笑った。


「じゃ、わかったらさっさとコーヒー飲んで出てって。今日はお姉ちゃんが奢ったげるから」

「だったら一緒に帰ればいいんじゃ?」


 ひな姉のメロンソーダはまだ半分残っている。


「いや、私3時半からここで待ち合わせしてるから」

「は?自分から呼んどいて」

「んー、別に私は翼がこのまま残って3人で話してもいいんだけど、翼もちょっと1人で悩んでおきたいでしょ」


 なんとなく待ち合わせの相手が分かった。少しぬるくなった珈琲を一気に喉へ流し込む。苦みが口いっぱいに広がった。


「じゃあ、ごちそうさま。また家で」

「うん。ま、私も翼が悪いとはそこまでは思ってないよ。もーっと悪いあの子のことは、これからきつーく問い詰めとくから」


 ひらひらと手を振るひな姉を残し、喫茶店を出る。入口付近で、見覚えのある高校生とぶつかりそうになった。ぱっとあった目が、露骨にそらされる。


「また、部室で」


 俺の言葉は届いていたはずだが、らん姉は何も言わずに喫茶店に入っていった。


◇ ◇ ◇ 


 さあ、どうしようか。


 休日明けの火曜日、部室で1人先輩を待つ。一応部活時間のためフォルダの整理のためPCを開いてはいたが、まったく集中できずに窓を眺める。外は相変わらず雨が降り続いていた。

 今日は2年生は7時限目まで授業がある日だから、先輩はまだ来ない。


 先輩が来たら、何て言おう。先輩はひな姉からなんと言われたのだろうか。家では目も合わせることもできなかったけど、部室でなら上手く会話ができる。

 なんだか外が騒がしくなった気がした。でも、雨音に紛れてすぐに静寂が戻る。

 ふと時計を見ると、もう先輩が来てもおかしくない時間になっていた。先輩は何をしているんだろう。先生に用事を頼まれたのか、友達との雑談が長引いているのか…。


 待てども待てども先輩は来なかった。


 やがて下校のチャイムがなり、俺は一人部室から去る。


 そして、次の日も、その次の日も、先輩は部室には来なかった。

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