元英雄のおっさん、記憶喪失の少女と家族になりました。

旅する書斎(☆ほしい)

第1話 じゃあ、わたしの……おとうさん、だよね?

森の空気は、湿った苔の匂いでむせかえるほどだった。雨上がりのこの森は、まるで別の世界みたいに、音を吸い込んでしまう。俺は、擦り切れたローブの裾を引きずりながら、慣れた足取りで薬草を摘んでいた。


──今日も、変わらない一日だ。


そう思った矢先だった。


「……ん?」


ぴくりと耳が反応する。葉擦れの音とは違う、微かなうめき声が、風に乗って届いた気がした。


気のせいかと思ったが、俺は足を止めた。狩人でも、盗賊でもない。もっと、弱々しくて、か細い。


俺は、手に持っていた薬草を腰の袋に押し込み、声のするほうへ向かう。草を踏み分けながら、用心深く近づいた。


そして、茂みを抜けた先で──俺は、息を呑んだ。


「……子供、か」


そこに倒れていたのは、小さな少女だった。白銀の髪が泥にまみれ、薄い服はびしょ濡れで、裸足の足には無数の傷がついている。


こんな森の奥で、子供が一人でいるはずがない。


「おい」


声をかけると、少女はびくりと身を震わせた。だが、力尽きたのか、すぐにぐったりと頭を垂れる。


俺はしばらく迷った。助けるべきか、放っておくべきか。


──だが。


「……クソッ」


結局、俺は膝をつき、少女を抱き上げていた。


その体は、信じられないほど軽かった。体温も、まるで消えかかる蝋燭みたいに頼りない。


「助けるしか、ねえな」


誰に言うでもなく、そう吐き捨てて、俺は歩き出した。



俺の隠れ家は、森の奥の崖下にある小さな小屋だ。


人目を避け、隠れるように生きるには、これ以上ない場所だった。


少女を寝かせ、焚き火を起こして、乾いた布で身体を拭く。古ぼけた毛布をかけると、か細い呼吸が少しだけ落ち着いた気がした。


「さて……」


改めて、少女を見下ろす。


年は──六歳くらいか。白銀の髪に、赤い瞳。見たことのない色彩だ。服装からして、どこかの街の子供とは思えない。


身元も、目的もわからない。


だが、今はそれより──。


「生き延びられるか、だな」


俺は薬草袋から癒し草を取り出し、細かく刻んで湯に溶かす。森で拾った俺なりの知識と、かつて学んだ治癒魔法の応用だ。


火にかけた湯気が、ほのかに甘い匂いを漂わせる。


「これで少しは……」


匙でそっと唇に湯を運ぶと、少女は微かに反応した。こくり、と喉が動く。


──よし。


少しでも回復すれば、あとは時間が稼げる。


俺は安心して、焚き火のそばに腰を下ろした。


火がぱちぱちと爆ぜる音だけが、しばらくの間、小屋に満ちた。



「……う、うう……」


かすかな声が、闇の中から聞こえた。


俺は目を開け、焚き火を見たまま耳を澄ます。


「お、おとう、さん……?」


……は?


振り返ると、少女が、ぼんやりとした目でこちらを見ていた。そして、また、呟く。


「おとうさん、なの……?」


「……違う」


反射的に答えてしまった。


けど、少女は、それでも俺を見つめてくる。怯えた、必死な目だった。


「た、たすけて、くれた、の……?」


ああ、くそ。


そんな目で見られたら、突き放せるわけがない。


「……そうだ」


俺は、ぶっきらぼうに頷いた。


すると、少女は、ほっとしたように微笑んだ。


その笑顔が、妙に胸に突き刺さった。


「じゃあ、わたしの……おとうさん、だよね?」


「……」


違う、違うはずだ。


だが。


「……そういうことに、しておくか」


俺は、負けた。


少女は、安堵したように、目を閉じた。


そして、俺は、焚き火を見ながら、深くため息をついた。


──俺はまた、守るものを手に入れちまった。

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