第2話

 ぴちゃん、と湯舟に雫が落ちる。

 関東のアパートは、古い実家よりももっと寒い。

 入浴剤を入れたお湯でも、どんどん冷えていく。

 足を全部伸ばせない浴槽だけど、それでもお湯に浸かると疲れが取れる気がする。

「夏樹」

「はい」

 浴槽の縁に頭を預けるのと――健太さんが、壁から頭『だけ』を出すのは同時だった。

「スマホ、鳴ってる」

「画面、何って出てました? 細い通知出てたと思うんですけど」

「おふくろさん」

「あー……後でかけ直すので、放っておいていいです」

「……いいのか?」

「ん……ほら、一人暮らしってテイですし」

「りょーかい、ゆっくり浸かれよ」

「はい……あ」

「どした」

「健太さんのえっち、ってお約束、やるの忘れました」

「ばーか」

 笑って、健太さんの顔は壁の向こうに消えた。

 台所にはちゃんと扉を開けていくのに、お風呂場に来るのには押し入れを突っ切るのに躊躇いがない。

 息を吐いて、立ち上がる。湯舟の栓を抜く。

 洗い場の無いユニットバスは、こういう時が不便だ。

 お湯が抜けるのを待ちながら、なんとはなしにお風呂場の扉の方を見る。

 浴槽とトイレの、僅かな隙間。

 先住者のおじいさんは、そこに倒れていたらしい。

 不動産屋さんが言っていたように清掃が入ったからか、そこには何も残っていない。

『――いや、住むのかよ』

 引っ越し当日、健太さんの第一声はそれだった。

 初対面でも分かる、苦々しい声だった。

『お兄さん、もしかして死んだおじいさんですか。若い頃の姿で出てきた的な』

『いや違ェわ。つーか普通に会話すんな』

 そう言った健太さんは、部屋に入ってきた僕をお風呂場に案内した。

 玄関から見て、左手の扉。

 それを開けた先の、ユニットバス。

『ここでな、ジジイ死んでたんだよ。お前これから、生活する場だぞ』

 だから考え直せ、と何度も健太さんは言った。水場で死人は思い出すときついぞ、とも言っていた気がする。

 それを聞きながら、随分親切な幽霊だなぁ、と思ったことをまだ覚えている。

『ここは、こう、僕に取り憑いたりする流れなんじゃないですか』

『いやお前、発想が物騒。しねーよ』

『しないなら、別に』

『おっま……どうみても幽霊がいんだろ! やめとけよ!』

『家賃、予算内なのここしかなくて』

『どれくらいだよ』

『二万円未満……で、出来ればお風呂が合って、洗濯機を家の中における所』

『ある訳ねぇだろ! ここだって元々は六万くらいするんだぞ!?』

『確かに、ここくらいでしたね』

 やめとけ、が止んだのは――事情を説明したから。

 ……高校を出て、地元の市役所に勤めれば良い。それが駄目なら、自衛隊でも。

 両親がそう言い出したのは、高校受験の年で――年の離れた兄が、結構な額の借金を作って、家族と実家に戻ってきたから。

 姉はその時県内の私立大学に通っていて、社交的な彼女を辞めさせるのは『かわいそう』らしかった。

 ……馬鹿らしい、と思った。

 兄も姉も、私立高校だった。

 運動部で、何かにつけてそこそこの額の出費はあった。そのスポーツを続けたいから、と、大学だって私立だった。

 私立大学の学費が安くないのは、僕だって知っている。

 試合だって、家計が苦しいなら毎回見に行かなくても良さそうなものだったけど……両親は、毎回律儀に試合を見に行った。

 ……年が離れていた、僕を連れて。

 興味を持てないから本を読んでいれば、こんな時まで、と眉を顰めるような、そんな人達。

 ……僕の時は、『お金が無いから私立高校は止めてくれ』と言うような、そんな人達。

 給付型の奨学金。仕送りなしで、生活費は自分で稼ぐ。

 そんな条件で、それでも誰もが知ってる国立の最高学府じゃなければ進学できなかった。

 渋られながらも、『初年度分の学費だけ』でも出して貰えたのは幸運だった。

 かいつまんで説明した時の、健太さんの色々なものを飲み込んだ顔が、どうしてか忘れられない。

 ごぽごぽ、濁った音を立てて水が流れていく。

 意識して深く息を吸って、吐き出す。

 ……ひとりに、なりたかった。

 どこへ行くにも、親の手を借りなければいけないような。

 しばらく会っていない親戚が、兄の借金の金額を知っているような。

 家に帰れば、兄の子供が勝手に自室に入っているような。

 そんな土地から逃げたかった。 

 学生寮も考えたけど、寮内での交流が煩わしかった。

 唯一の希望だった破格の家賃のアパートには、『おばけ』とはいえ人がいた。

 お湯が抜けてどんどんと冷える浴槽の中。

 見えてきた底に、健太さんに同居を持ち掛けた時のことを思い出す。

『お兄さんが良ければ、一緒に住みませんか。ルームシェア、ってやつ』

『……いや、お前……』

『勉強させてもらえれば、押し入れで寝るので』

『それは……家賃払うのお前なのに、悪いだろ』

『でも、先に住んでたのお兄さんじゃないですか』

『不法占拠だろうよこんなん』

 そう言った健太さんは、暫く悩んだ後に『分かった』と落とした。

『あぁ、よかった……僕、三浦夏樹みうらなつきって言います』

『……相内健太あいうちけんただ』

『……アイウチって、相手の相に、内側の内ですか?』

『だけど?』

『や、地元で聞いてた名字だったんで……こっちで聞くと、思わなくて。何かの縁、ですかね』

『……ばーか。そんな縁あったら、お前大分ついてねぇぞ』

 そこで、健太さんは初めて笑った。

 笑うと、随分印象が変わる人だと思った。

 息を吐き出す。手早く髪と体を洗ってお風呂場を出る。

 短い廊下の先、灯りのついた居室。

 ドアを開けて中に入れば、テーブルに座って本を読む健太さん。

 その姿に、ほっと息が落ちた。

 地元を出たかった。ひとりに、なりたかった。

 そのための蜘蛛の糸には、『おばけ』がついていた。

 でも、その『おばけ』は――話を、聞いてくれた。

「夏樹、借りてる……なぁ、これ続きあんの」

 読みかけの部分に指を挟んで、健太さんが掲げたタイトルは続き物。図書館の本だから貸し出しの都合はあるけど、確かまだ蔵書にあったはずだ。

「ありますよ。読み終わったら借りてきますか?」

「頼む。お前が選ぶ本、やっぱ面白ェわ」

 にこり、健太さんが笑う。その笑顔に、少し気持ちが上向きになる。

「光栄です……もうちょっと稼げれば、ちゃんと買うんですけど」

「それ以上バイト増やしてどうすんだよ、本業は勉強だろ。大学生……使えるものはなんでも使いな」

「……うん、はい」

 ざっと頭を拭きながら、ベッドの上に投げていたスマートフォンを手に取る。

 ベッドに背中を預けて、ロックを解除。

 着信の後、メッセージアプリにいくつかの言葉。

 あぁ、と無意識に苦い息が出た。

「……ちょっと、煩くしますね」

「電話? 外すか?」

「大丈夫です……聞こえちゃうかもですけど、本、読んでてくれれば」

 健太さんは、親指と人差し指でOKマークを作る。

 それに後押しされる形で、躊躇わずに押せた通話ボタン。

 寝ていてくれ、と思ったけれど――コール三つで、相手が出た。

『――夏樹?』

「ん、母さん、ごめん。風呂入ってた」

『あぁ、そうなの、ごめんね――ねぇアンタ、二月は帰ってくるの?』

「……こないだ、帰ったじゃん」

 思わず、テーブルの上に置いてたカレンダーを確認してしまう。

 年末年始の短い冬休みに実家に帰って、講義に合わせて戻ってきて。それから、一週間も経っていない。

 けど、母さんはスマホの向こうで好き勝手を紡ぐ。

 大学の春休みは長いだろう。実家なら、食費も光熱費もかからない。正月に帰ってきた時に、大分痩せたように見えた。やっぱり、一人暮らしは無理だったんじゃないか。

 その向こうから聞こえる、まるで動物園みたいな奇声は――多分、甥と姪のもの。

 実家はそこそこ広いから、きっと走り回ってるんだろう。

 子供は元気が一番と、兄も義姉も注意しないのだろう。孫可愛さに、両親も。

 雑音からそんなことが察せられて、余計に神経をささくれさせる。

 そんなに休んでバイトをクビになったらどうするの、なんて、皮肉のひとつも投げてやろうかと思った時だった。

 テーブルをすり抜けて、健太さんがやってくる。

 ふわりと頭に乗った、冷たい手。

 何度か頭を撫でて、そっと肩を叩く。

 が、ん、ば、れ。

 唇の動きだけで告げられたそれに――肺まで、酸素が入ってくる。

「……気持ちは嬉しいけど、ごめん、バイト入れちゃった。稼ぎ時だから」

『稼ぎ時ってアンタ』

「家庭教師のバイト、ほら、中学校とか丁度、二月に期末試験あるから」

『アンタコンビニだけじゃなかったの?』

「家庭教師もしてるよ……ごめん、盆は帰るから」

『ちょっと』

「ゴールデンウィーク短ェもの……ごめん、明日早いから切るね。おやすみ」

 そう告げて、返答を待たずに電源ごと電話を切る。

 黒くなった画面に、疲れた顔が映っていた。

 思わず吐いた深い溜息に、隣からかかった「お疲れさん」が有難かった。

 音もなく隣に腰を下ろした健太さんは、眉尻を下げて苦く笑っている。

「……健太さんのおかげで、キレずにすみました」

「……何もしてねぇよ」

「ううん……がんばれ、って言って貰わなきゃ、キレてました。勝手なこと言うな、って」

 あぁ、と苦い息が落ちる。健太さんには、一通り家の事情を話している。

 彼のそんな反応に、少し、報われる気がした。

「……難しいよな、親」

 苦く、重い一言。

 それが、じんわりと左胸から体中に広がっていく。

「……うん」

「な」

「……心配、してくれてるのは、分かるんですけど」

「うん……距離置いた方が、上手くやれる親子ってもあるよな」

 しみじみ、健太さんが言う。

 それだけで、ささくれた気持ちが落ち着いていく。

 深く息を吐けば、健太さんが馴染んだ音で名前を呼んだ。

「……夏樹よ、俺前にテレビで見たんだけどさ」

「はい?」

「人間、ハグするとストレス減るらしいぜ」

「……良いんですか?」

 ぽろりと零れた遠慮のない言葉。

 それに、健太さんは目を丸くしてから笑う。

「よっしゃこい」

 広げられた腕。

 それに甘えさせてもらって、背中に腕を回す。

 ぎゅっと、抱きしめられる背中はがっちりしている。

 僕の背中を叩く手も、ちゃんとそこにある。けど、顔を寄せた首筋からは、心臓の音が聞こえない。

 ――ここに、ちゃんといるのに。

「バイト終わりにお疲れさん」

 優しい声に、それだけで鼻の奥がつんとする。

「……みそっかすでも、頑張れてますかね、僕」

「……誰だよ、みそっかすって言ったの」

「実家で、まぁ……本ばっかり読んでて、運動からっきし、だったから」

 後ろ指を思い出して、気持ちが暗澹とする。

 兄は野球。姉はテニス。どっちも上手く出来なくて、「勉強だけできてもなぁ」と笑われた、いつか。

「ばーか、みそっかすが大学受かるかよ……そこは向き不向きだろ。頑張ってるよ、夏樹はさ」

 優しい声がそう言って、大きな手が僕の頭をくしゃくしゃに撫でる。

「……健太さん、僕を甘やかすのが上手い」

「んだよ、これくらい……頑張ってる奴には、いいんだよ」

 まるで犬にするようなそれに、堪えきれなかった潮が一滴、滑り落ちて行った。

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