第13話 夏の終わり、林間学校

真夏の日差しが照りつける中、バスは林間学校の目的地である山間の施設に到着する。窓から見える緑の濃さに、都会の喧騒から離れた解放感が胸に広がる。


「うわー、空気が違う」


隣に座っていた美咲が窓を開け、深呼吸をする。風に吹かれて髪が揺れるのを見ながら、俺も窓の外に顔を向ける。澄んだ空気が肺の中まで洗い流していくような感覚。


「久しぶりの林間学校だな」


美咲は席を立ちながら振り返る。

「お兄ちゃん、荷物持ってー」


まだバスが完全に停車する前から立ち上がり、上の棚に手を伸ばす美咲に、俺は慌てて声をかける。

「おい、危ないって。ちゃんと止まってからにしろよ」


「もう、大丈夫だって」


そう言いながらも、バスが小さく揺れた瞬間、美咲の体がふらつく。思わず立ち上がり、腕を伸ばして彼女の肩を支える。


「ほら、言わんこっちゃない」

「…ありがと」


小さな声で答える美咲の横顔が、いつもより柔らかく見える。夏の陽射しのせいだろうか。


バスを降りると、クラスごとに集合して、担任から今日の予定が伝えられる。午前中は自然観察、昼食後は川遊び、そして夜には肝試し。最後の項目を聞いた時、クラスメイトたちからどよめきが起こる。


「肝試し、怖いよね」

「ペアは決まってるの?」

「自分たちで決めていいらしいよ」


女子たちの会話が耳に入ってくる。美咲のクラスと俺たちのクラスは合同で活動することになっているから、彼女も同じ肝試しに参加するはずだ。


自然観察も川遊びも、あっという間に過ぎていく。夏の日は長いはずなのに、楽しい時間はいつも短く感じる。


夕食を終え、部屋に戻ると、肝試しの準備をするよう指示がある。日が落ち、山の闇が深まっていく。窓の外を見ると、さっきまで鮮やかだった緑が、今は黒い塊になっている。


「よーし、肝試しの時間だ!」担任が元気よく宣言する。「ペアを作って、森の中に設置されたチェックポイントを回ってくること。全部で五つのポイントがあるから、それぞれでスタンプを集めてくるように」


クラスメイトたちがざわめく中、俺はどうしようかと考えていた矢先、背後から声がかかる。


「お兄ちゃん、ペア組もう」


振り返ると、美咲が立っている。普段の強気な態度とは違い、少し緊張した表情を浮かべている。


「えっ、俺と? クラスの友達とじゃなくて?」

「だって…」美咲は言葉を濁し、視線を逸らす。「みんな、もう決まっちゃったから」


その言い訳が本当かどうか確かめる間もなく、担任が「未定のペアはいますか?」と声をかける。結局、俺と美咲がペアということで名前が記録された。


「じゃあ、順番にスタートしていきましょう。一組目から二分おきに出発です」


俺たちは五組目。先に出発したグループの悲鳴や笑い声が、徐々に森の中へ消えていく。


「ねえ、お兄ちゃん…怖くない?」

美咲が小さな声で尋ねる。普段の勝気な妹からは想像できない、弱々しい声だった。


「まあ、肝試しなんて演出だけだしな。本物の幽霊なんているわけないだろ」

強がって言ってみるものの、実際のところ、暗い森に入るのは俺だって緊張する。


「篠原ペア、出発してください」


担任の声に背中を押され、俺たちは懐中電灯を手に森へと足を踏み入れる。


最初は施設の明かりが届いていたが、少し進むと、闇が深くなっていく。懐中電灯の光が届く範囲は意外と狭く、周囲の木々が作る影がおどろおどろしく揺れている。


「ちょっと…待って…」


美咲の足取りが遅くなる。振り返ると、彼女は明らかに怯えた表情で、周囲を警戒している。


「大丈夫か?」

「う、うん…大丈夫」


そう言いながらも、美咲の声は震えている。普段の強気な態度はどこへやら、今は完全に怖がっている様子だ。


「ほら、手」


俺は手を差し出す。美咲は一瞬躊躇した後、おずおずと俺の袖をつかむ。直接手を繋ぐのではなく、袖の端をぎゅっと握る仕草に、妙な温かさを感じる。


「よし、行くぞ」


一歩、また一歩と森の中を進んでいく。地面の凹凸に気をつけながら、ゆっくりと歩を進める。美咲の息遣いが聞こえるほど、静かな森の中。


「あっ!」


突然、美咲が悲鳴を上げ、俺の腕にしがみつく。心臓が跳ね上がるような驚きに、思わず懐中電灯を落としそうになる。


「どうした?」

「な、なんか…動いた…」


懐中電灯を向けると、小さな動物——おそらくリスか何かが、サッと木の陰に隠れるのが見えた。


「ただの動物だよ」

「ご、ごめん…」


美咲は恥ずかしそうに俺から離れようとするが、その手は依然として俺の袖をしっかりと握ったまま。


「いいよ、びっくりするよな、こんな暗いとこだし」


俺の言葉に、美咲は小さく頷く。その仕草が、月明かりに照らされてやけに儚く見える。


「あ、あれが最初のチェックポイントじゃない?」


美咲が指さす方向に、かすかに光るものが見える。近づいてみると、小さなテーブルの上にスタンプと紙が置かれている。


「よし、一つ目ゲット」


俺がスタンプを押そうとした瞬間、テーブルの下から「うぅ〜」という声が聞こえる。


「ひっ!」


美咲が悲鳴を上げ、今度は完全に俺の背中に隠れる。その体温が背中を通して伝わってくる。


「お化け屋敷のノリだな、これ」


冷静を装いながらスタンプを押す俺だが、正直、心臓はバクバクしている。テーブルの下にはおそらくクラスメイトが隠れているのだろう。


「次、行こうか」


美咲は無言で頷き、今度は袖ではなく、俺の腕をつかむ。その指先が震えているのを感じる。


二つ目、三つ目のチェックポイントも同様に、何かしらの仕掛けがあった。飛び出す人形や、突然鳴り響く音楽。それらに美咲は毎回びくっと反応し、徐々に俺への依存度が高まっていく。


四つ目のチェックポイントを過ぎた辺りで、道が二手に分かれているのに気づく。


「どっちだろう…」


懐中電灯で照らしてみるが、どちらも似たような小道だ。地図を見ようとポケットに手を入れるが、入れたはずの紙切れが見当たらない。


「地図、落としたかも…」

「えっ?」美咲の声が裏返る。「じゃあ、迷子になっちゃう?」

「いや、大丈夫だって。施設からそんなに離れてないし、どこかに出れば…」


言葉の途中で、懐中電灯が突然消える。パチパチとスイッチを押してみるが、反応がない。


「電池、切れたのか…」

「嘘…」


美咲の声が震える。月明かりだけが頼りになった森の中で、彼女の輪郭がかすかに浮かび上がる。


「大丈夫、パニックにならないで」俺は冷静さを装う。「とりあえず、来た道を戻ろう」


美咲の手が、今度は俺の手をしっかりと握る。直接触れる温もりに、一瞬、肝試しのことを忘れそうになる。


「お兄ちゃん…離れないで…」


囁くような美咲の声に、喉が乾く。


「ああ、大丈夫だ」


俺たちは手を繋いだまま、来た道を戻り始める。しかし、暗闇の中では方向感覚が狂いやすい。気がつけば、さっきとは違う道に入っていたようだ。


「おかしいな…」

「迷った?」美咲の声が小刻みに震える。

「いや、大丈夫。この辺りのはずだから…」


自信なさげな自分の声に、自己嫌悪を感じる。妹を守れないなんて、兄として情けない。


その時、遠くから声が聞こえてきた。


「篠原ー! どこだー!」


クラスメイトたちの声だ。俺たちが戻ってこないので、探しに来てくれたのだろう。


「ここだ!」俺は大声で叫ぶ。「俺たちはここだ!」


声の方向に向かって歩き出そうとした時、美咲が足を滑らせる。


「きゃっ!」


反射的に彼女を抱き留める。暗闇の中、互いの呼吸が聞こえるほど近い距離。美咲の体が小刻みに震えているのが伝わってくる。


「大丈夫か?」

「う、うん…ありがと…」


月明かりに照らされた美咲の顔が、いつもより幼く見える。まるで小さい頃、雷の音に怯えていた時のような表情だ。


「篠原ー!」

「ここだ!」


声に向かって歩いていくと、懐中電灯の光が見えてきた。担任と数人のクラスメイトが、俺たちを探しに来てくれていた。


「よかった、見つかって」担任が安堵の表情を浮かべる。「皆心配してたんだよ」

「すみません…道に迷って…」

「大丈夫、怪我はない?」

「はい、無事です」


美咲はまだ俺の袖をつかんだまま、クラスメイトたちの前で恥ずかしそうに俯く。


「じゃあ、戻ろうか。もう肝試しは終了だ」


施設に戻る道すがら、美咲は少しずつ落ち着きを取り戻していった。しかし、彼女の手が俺の袖から離れることはなかった。


「ごめんね…怖がりで…」

小さな声で美咲が謝る。


「いいよ、俺だって正直怖かったし」

「嘘…お兄ちゃん、全然平気そうだったじゃん」

「いや、内心はかなりビビってたよ」


正直に答えると、美咲はくすりと笑う。その表情に、なぜか胸が温かくなる。


施設に戻ると、クラスメイトたちが心配そうに駆け寄ってきた。美咲は俺の袖を離し、友達の輪の中へ。


「篠原、大変だったな」友人の一人が肩を叩く。

「まあな」

「美咲ちゃん、めっちゃ怖がってたって?」

「ああ…まあ」


詳しく話すのを避けながら、俺は窓の外を見る。さっきまで恐ろしく感じた森が、今は静かな闇として佇んでいる。


その夜、部屋に戻ってから、美咲からLINEが届いた。


「今日はありがとう。本当に怖かったけど、お兄ちゃんがいてくれて助かった」


メッセージを見つめながら、俺は返信を考える。森の中で感じた彼女の温もり、震える指先、月明かりに浮かぶ横顔。それらが鮮明に蘇ってくる。


「いつでも頼れよ」


シンプルな返事を送りながら、胸の内にある複雑な感情を言葉にできないもどかしさを感じる。窓の外に広がる夏の夜空には、無数の星が輝いている。明日からまた普段の生活に戻るけれど、今夜の記憶は、きっとずっと心に残るだろう。


林間学校最後の夜。夏の終わりを告げるように、窓の外で虫たちが鳴いている。

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