第5話 スーパーでのすれ違い
「悠真くん、こっちのお野菜どう思う?」
玲奈さんが持ち上げた小松菜の束を見て、俺は首を傾げる。
「ちょっと葉が萎れてますね。もう少し緑が鮮やかなのがあったような…」
スーパーの野菜コーナーで、俺たちは夕食の材料を選んでいる。土曜の午後、雨上がりの空気がまだ湿り気を含んだまま、店内に流れ込んでいる。
「さすが、よく見てるわね」
玲奈さんが小松菜を戻し、別の束を手に取る。彼女の白い指先が、みずみずしい葉に触れる。
「これなら大丈夫そう。今夜は小松菜と豚肉の炒め物にしようかと思って」
「いいですね。にんにくと生姜を効かせると美味しいですよ」
「そう、悠真くんのレシピで作ってみるわ」
玲奈さんの微笑みに、胸の内で何かがほどける感覚がある。休日の買い物。ただそれだけのことなのに、なぜか特別な時間に思える。
先週、玲奈さんが「買い物に付き合ってくれない?」と声をかけてきたときは、正直驚いた。普段は一人で済ませていることだったから。でも、このところ妹の莉子が友達と出かけることが多く、両親も仕事で家を空けがちだ。だから自然と、俺と玲奈さんの二人きりの時間が増えていた。
俺たちは野菜から肉、調味料と順に買い物カゴを満たしていく。玲奈さんは時々、「これはどう?」と俺に意見を求めてくる。家事を担当することが多い俺の判断を信頼してくれているらしい。その度に、胸の内で小さな誇らしさが膨らむ。
「あ、醤油切れてたわね」
玲奈さんが調味料コーナーで立ち止まる。棚の上段に並ぶ醤油ボトルに手を伸ばすが、指先が少し届かない。
「取りましょうか?」
俺が横から手を伸ばすと、玲奈さんの髪から、ほのかな柑橘系のシャンプーの香りが漂ってくる。一瞬、動きが止まる。
「…ありがとう」
玲奈さんの声が、いつもより少し小さい。俺は急いで醤油を手に取り、カゴに入れる。
「悠真くんって、本当に家事が得意なのね」
「そうでもないですよ。ただ、母さんがよく教えてくれたから…」
「うちのお母さんも教えてくれたけど、私はあまり上手くならなくて」
玲奈さんは少し照れたように笑う。普段は完璧な彼女が、そんな風に自分の不得手を認めるのは珍しい。
「玲奈さんは勉強が忙しかったから、仕方ないですよ」
「でも、悠真くんは勉強も家事もこなしてるじゃない」
「いや、勉強の方は全然…」
言葉を濁すと、玲奈さんは小さく笑った。
「お互い、得意なことと不得意なことがあるのね」
そう言って、彼女はレジへと歩き出す。その背中を追いながら、俺は考える。玲奈さんの不得意なこと。完璧に見える彼女にも、そういう部分があるんだ。なぜかその事実が、彼女をより身近に感じさせる。
レジを済ませ、買い物袋を二人で分けて持つ。玲奈さんはエコバッグを持ってきていた。薄いグリーンの布地に、小さな花柄が散りばめられている。
「持ちましょうか?」
「大丈夫よ。でも重いものはお願いしていい?」
玲奈さんが差し出した米の袋を、俺は自分のビニール袋に入れる。彼女のエコバッグには、野菜や調味料など比較的軽いものが入っている。それでも、かなりの量だ。
店を出ると、雨上がりの空気が肌を包む。アスファルトからは湿った匂いが立ち上り、遠くの空には薄い虹が架かっている。
「きれいな虹」
玲奈さんが空を見上げる。その横顔に夕陽が差し込み、黒髪が琥珀色に輝いている。
「この時間の光って、なんだか特別ですよね」
思わず口にした言葉に、玲奈さんが振り向く。
「そうね。雨上がりの夕方の光。全部が少しだけ違って見える」
彼女の言葉に、胸が温かくなる。同じものを見て、同じように感じている。そんな小さな共鳴が、なぜかとても大切に思える。
歩き始めて数分、玲奈さんのエコバッグの持ち手が少し伸びてきたようだ。彼女が時々、袋を持ち直している。
「やっぱり持ちましょうか?」
「ううん、大丈夫。ただ…」
玲奈さんは言葉を切り、少し考える素振りを見せた。
「少し休憩しない? あそこのベンチで」
道路脇の小さな公園に、木陰のベンチがある。俺たちはそこに腰掛け、買い物袋を足元に置く。
「ふう…思ったより買い込んじゃったわね」
「週末だから、多めに買っておいた方がいいですよ」
「そうね」
玲奈さんは深呼吸して、周囲を見回す。公園には誰もいない。ただ風が木々を揺らし、葉擦れの音が心地よく響いている。
「悠真くん」
「はい?」
「私たち、こうやって二人で買い物するの、初めてじゃない?」
玲奈さんの言葉に、俺は少し考える。確かに、家族全員でスーパーに行くことはあっても、二人きりで買い物するのは初めてだった。
「そういえば、そうですね」
「なんだか…不思議な感じ」
玲奈さんの声が、いつもより柔らかい。
「どういう意味ですか?」
「ほら、私たち…義理の兄妹だけど、実際に一緒に暮らし始めたのはそんなに長くないでしょ? でも今日みたいに、当たり前に一緒に買い物して、夕食の相談して…」
彼女は言葉を探すように、少し間を置く。
「なんというか、自然なのに、新鮮というか…」
俺は黙って頷く。玲奈さんの言いたいことが、何となく分かる気がする。確かに、この時間は不思議だ。義理の家族として当たり前なようで、でも何か特別な感覚がある。
「ねえ、悠真くん」
玲奈さんが少し体を寄せてくる。
「今夜の夕食、一緒に作らない?」
予想外の提案に、一瞬言葉が出ない。
「え? あ、はい。もちろんです」
「私、悠真くんから料理を教わりたいの。いつも美味しそうに作ってるから」
「大したことないですよ。基本的なことしか…」
「それがいいの。基本から教えてほしい」
玲奈さんの真剣な眼差しに、断る理由が見つからない。
「分かりました。一緒に作りましょう」
「ありがとう」
彼女の笑顔が、夕陽に照らされて輝いている。
立ち上がると、再び買い物袋を手に取る。玲奈さんのエコバッグは、やはり重そうだ。
「すみません、やっぱり持ちましょうか?」
「本当に大丈夫だって。私だって、これくらい…あっ」
言いかけたとき、エコバッグの持ち手が伸びて、中の野菜が傾いた。反射的に俺が手を伸ばすと、同時に玲奈さんも袋を支えようとする。二人の手が重なる。
「あ…」
一瞬、時間が止まったような感覚。玲奈さんの指が、俺の手の上にある。薄い袖口から覗く手首が、かすかに震えている。
「す、すみません」
俺が手を引こうとすると、玲奈さんは逆に俺の腕をつかんだ。
「いいわよ、少し持ってもらおうかな」
そう言って、彼女はエコバッグを俺に渡す。受け取ると、予想以上の重みがある。
「結構重いですね」
「そう? 私は平気だったけど」
玲奈さんは強がっているようだ。その表情に、思わず笑みがこぼれる。
「何よ、その顔」
「いえ、なんでもないです」
「もう、バレバレよ」
玲奈さんは少し頬を膨らませるが、すぐに笑顔になる。二人並んで歩き出す。
「あのね、悠真くん」
「はい?」
「今日、莉子ちゃんは夜遅くまで帰ってこないのよね」
「ああ、確か友達の家に泊まるって言ってました」
「そうよね。だから、私たちで夕食作って、二人で食べましょう」
「二人で…」
なぜだろう、その言葉に胸が高鳴る。
「あ、もちろんお父さんとお母さんの分も作っておくけど、二人とも遅くなるって連絡があったから」
「そうだったんですね」
「うん。だから今夜は、私たちだけ」
玲奈さんの言葉に、何か特別な意味があるような気がして、でもそれが何なのか、はっきりとは分からない。ただ、この時間が続いてほしいと思う。
歩いていると、玲奈さんが突然、俺の腕に自分の腕を絡めてきた。
「え?」
「少し、よろけちゃって」
そう言いながらも、彼女は腕を離さない。肌と肌が薄い布地越しに触れ合う感覚に、心臓が跳ねる。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ごめんなさい。でも…このままでもいい?」
玲奈さんの声が、ほとんど囁くように小さい。
「あ、はい…もちろん」
言葉が喉につかえる。玲奈さんの体温が、腕を通して伝わってくる。
「悠真くん、温かいのね」
何気ない言葉なのに、胸の内で何かが揺れる。
「そうですか?」
「うん。安心する温かさ」
それ以上の言葉は交わさない。ただ、腕を絡めたまま、ゆっくりと歩く。買い物袋の重みを感じながら、雨上がりの夕暮れの中を、家に向かって歩いていく。
この瞬間が、いつまでも続けばいいと思う。そんな気持ちを、口には出せないまま、俺は玲奈さんの存在を、腕の感触を、ただ静かに噛みしめている。
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