第十話 それでも笑っていれば
恋仲の小さな息遣いと、俺の心臓の音。
ぼんやりと差し込む僅かな光だけが、この場所だけ切り取ったみたいに、黒と白の世界を作り出していた。
そっと、力なく俺の胸を押される。口元だけで笑みを作り、静かに俺の横を通り過ぎる。振り返ることもなく、階段を下りていく。
薄暗い踊り場に、恋仲の遠ざかる靴音だけが響いていた。
『もう大丈夫です』
と言われた気がした。
引き留めようと伸ばした俺の手は、虚空をさまよう。恋仲の髪すら、もう掠められない。自分の手を握りしめる。ただ爪が深く食い込むだけだ。
噛みしめた唇から血の味がする。
教室に戻る。
凪の姿は消えていた。あるのは、まるで犯罪者を見るかのような野次馬たちの影と、冷えた空気だけ。聞き取れない囁き声に、皮膚だけが反応する。
両手にわずかに残っている恋仲の感触を確かめながら、席に戻る。
その日、恋仲はもう戻ってくることはなかった。
──翌朝。
『大丈夫? 無理しないでね。休むなら俺がノート持っていくから』
既読表示はついた。けど、恋仲からの返信はない。恋仲とのチャット画面を見続けているだけで一日が終わった。
今朝の琴音のトーストは特に苦かったし、カチカチになった黄身を、何度も箸でつついていたら怒られた。
クラスも無関心を装っている。誰も話しかけてこない。
いいや。グループチャット通知数は止まることなく数字を増やしている。ネットの中では大盛り上がりだ。その熱気は隠さなくても、雰囲気となってクラス中に漏れている。
なのに、誰もそれを口にしない。ただ、馬鹿にするような笑いと、目を合わせると逸らす視線だけ。
無関心はただの皮だ。
少しでも剥がせば、その下には血に飢えて、涎を垂らし、喚いている犬の顔がある。一つの顔に何個も、ぎっしり詰まっている。
元は俺が蒔いた種。俺が原因。
でも、それでも前に進もうと頑張ってるんだよ。
なあ、どうしたらそれを認めてくれる?
あの女は煽ったし、ぶん殴りたい。けど考えてみたら――あの女はみんなの興味を代弁していただけだった。
きっと、どんなに静かに過ごしても、遅かれ早かれこうなっていた。だとしたら、俺は間違っていたのだろうか。そもそも謝罪するなんて、その権利すら俺にはなかったのかもしれない。
スマホのバイブが机に伝わり、機械的な音を立てる。
通知画面に恋仲のアイコンが映る。メッセージがきた。読んだ瞬間、つま先から頭のてっぺんまで、せり上がるように鳥肌が立つ。
本当に、彼女はまっすぐだった。
観客席から上がる嫌味のある声で、空気が震えたのを感じた。
『無理でも。友達が居ればきっと楽しいと思います』
恋仲は、昨日より前を向いて教室に入ってきた。
ガラスのような足音を立て、その一歩一歩が、ひび割れそうな床に跡を残していく。一つでも亀裂が走れば、バラバラに砕け散るって分かっているはずなのに。
その一歩はとても力強く、軌跡として床に残っている。昨日の自分を乗り越えようとしている。
恋仲の見えている世界は、俺らなんかとは違う。
視線が合わさると、恋仲以外の人間が居なくなって見えた。黒板も、カーテンも、机や椅子、壁さえも。床と影だけを残して、あとは光だけしか残っていない。
「少しでも学校に来てよかったって俺が思わせないと――」
景色の隅っこで、そうぼやいている俺の姿が見える。
その思いを、恋仲に伝えられたか?
また恋仲から言わせて、俺も言った気になってしまう。俺の決意なんて、こいつらの皮以上に薄く、浅い。
白で染まった世界は、瞬きをすると無くなっていた。切り替わった現実を見る。恋仲は自分の机にカバンを置いていたところだった。
恋仲は胸を膨らませ、そっと息を吐いた。
ふう、と彼女の深い呼吸が目で伝わる。その胸の奥には、何が秘められているのだろう。それを少しでも理解したかった。
だから俺は、
「おはよう!」
とだけ言った。
下を向いている場合じゃない。
ひっかけばすぐに剝ける皮なんだ。笑っていれば、剝がれないと信じているだけ。傷だらけになって血を流しても、笑い続ければ決して破られないし、壊れやしないって。その通りだと思う。
でもさ恋仲──
──そんな世界で笑い続けるなんて、残酷すぎるよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます